⭕️辛亥革命による中華民族概念創成と中華国民国家の構築過程!

2023年6月10日

辛亥革命後の中華民族概念構築と中華国民国家への変容の検証と言う観点から、孫文による辛亥革命の意義をただ単に大清帝国の皇帝支配体制からの政治的脱却のみの視点だけでなく、漢族以外の少数民族も包含する中華民族概念の構築と中華天下全域の西洋的な概念も踏まえた国民国家への変容に成功した大革命ととらえ、それらの功績を具体的に検証していきたいと思います。

辛亥革命前後の国家観の変容

孫文らの標榜する民族革命

清朝打倒を目指す孫文らの革命派が、満族支配の状況からの漢族の国家回復を目指すにあたって標榜した民族革命のシンボルとしては、「漢族」ではなく「中華」が強調されれていた。革命家の民族的文脈において、「漢」は「中華」そして「中国人」と同じものであったにもかかわらず、「中華」にこだわった理由は、「漢族」が「中華文明圏」としての独自の歴史と文化、そして生活領域をもつ偉大な「民族的」共同体であることを強調し、清朝の中国支配の不法性と漢民族国家の正統性を「中華」という呼び方で一層鮮明にすることにあった。(1)
章炳麟は、1907年の「中華民国解」で次のように述べている。「華と言い、夏と言い、漢と言い、互いに三つの意味を持ち合う。漢を族名にしてもそこに邦国の意味があり、華を国名にしても、そこに種族の意味もある。これに(未来の中国国家に)中華民国と名付けるわけである」。ここの「漢族」と「中華」の国家が同じサイズであり、換言すれば「中華国家」は、事実上漢族による「単一民族国家」であった。(2)
 

辛亥革命以前の革命家の国家意識

このように辛亥革命以前の段階での清朝打倒を目指す革命家の意識には、新国家は「漢族」中心の「単一民族国家」がイメージされていた。すなわちこれは「漢族」による「中華世界」の回復を志向するものであり、事実上「漢化」の力学が革命原理として提起されていた。
しかし、清朝最大版図は従来の「中華文明エリア」を大幅に上回る規模であり、清朝の領域内には漢民族以外にもモンゴル族、チベット族、新疆エリアのムスリム等多数の民族が混在していた。もし新たな革命が純粋な単一民族国家を真剣に目指すとなれば、その領域は清朝最大版図ではなく、せいぜいが明朝最大版図から満洲を除く程度が関の山であり、モンゴル、チベット、新疆、満洲は「中華国家」から離れて独立させざるを得ない可能性があったと想定される。

辛亥革命後の五族共和論への転換

しかるに、1911年に辛亥革命の後に発足した中華民国は、「単一民族国家」志向では無く、「五族共和」を標榜する方向に変化しており、孫文自身も辛亥革命後に「漢・満・蒙・回・西の五族が一つとなって、独裁を排し、共和を建設する」「民国は五族を合わせて成立したものであり、全ての五族民衆は兄弟である」と述べた。(3)
まさにカメレオンのような変身ぶりであるが、このような方針転換の理由は何であろうか。漢族の「単一民族国家」と言う発想では、何が都合が悪かったのであろうか。

中華世界分裂回避の論理

漢族単一民族国家観の放棄

このように革命前の「単一民族国家」志向から革命後に「五族共和」に方向性が変化した理由の一つは、革命の成功により満族に対する反感が急速に緩和したことや「単一民族国家」と言う行き方が中国の現実から遊離していることが明確化したためである、と言えよう。また在野の評論家的立場から国家政治の中心となってきた革命派としては、領土の分裂を回避したいとの意識が生じ、清朝の政治構造の基本であった「五族」をベースにしないと清朝の版図を維持して「共和制」を導入することが困難なことがはっきりしたことによる、と観て良いだろう。いま一つの理由としては、辛亥革命後に辺境の蒙・西・回の社会で一斉に独立運動が発生し、領土の分裂が現実化してくることで、中華民国の原理に「一民族一国家」という国民国家の基本理念を採用すると、そのまま中華世界の分裂に直結することが明確化したためでもあった。(4)

清朝の帝国の原理の再認識

このような変化は、ある意味では、清朝の「帝国の原理」をそのまま継続していかないと、「多民族国家としての清朝最大版図エリアの大一統」が崩壊することに権力の座についた革命派がようやく気付いたことによる、と言えるだろう。雍正帝の「大義覚迷録」の精神は、ここに「中華民国」の多民族国家としての大一統の原理を提供することになったと言えようか。
このような考え方に立って蒙古・西蔵の事務を主管とする「蒙蔵事務局」(後に「蒙蔵院」)が設置され、蒙古・西蔵(新疆は既に省制に組み込まれ直轄化していた)に対して、清朝の「理藩院」の延長線上での民族統治政策が実施されたが、これは「皇朝」の統治が「共和」に代わったものの「中華世界の大一統」が中華民国においても清朝同様に前提とされていたことが了解される。(5)

中華大一統、中華天下意識の復活

このように観てくると、中華民国の政治に清朝の「中華大一統」を標榜する統治方式が大きな影響を与えていることが明瞭になってくる。漢族国家の復興を掲げて遂行された辛亥革命により出現した政権の眼前には、清朝により大幅に拡大された「中華天下」があり、その拡大された中華エリアを有効に統治するためには、単に漢族至上主義を振り回すだけでは無理があった、と言えよう。
 

中華民族国家理念の構築

中華民族による一民族一国家の論理

その後、孫文は「五族共和」の理念が、民族独立を志向する漢族以外の民族に「独立運動」の正統性を与えかねないと気付くに至り、「五族共和」に替わる中華民国の原理として、「中華民族」による「一民族一国家」としての「中華民族国家の」理念を強調し、「国民国家の理論に基づく近代国家建設の推進」と「多民族国家清朝の版図の継承」の両方を実現しようとした。(6)
ここで強調された「中華」は、辛亥革命以前に満州族を駆逐するために「漢族による単一民族国家」を建設する正統性を訴えるシンボルとしてのものではなく、満州族を含む「五族」を団結させ融和するためのシンボルとしての「中華」であった。(7)

「大義覚迷録」の原理の援用

 
この「中華」は、「漢民族だけの狭い中華」ではなく、またしても「大義覚迷録」の精神による「華夷一家」としての「中華」であり、「五族」が融和することで形成される「新たな民族」としての「中華」であった。それでは、中華民国においてはこのような「中華」はどのように実現されると考えられていたのか。
孫文によれば、「民族の同化」がその答えであり、「チベット・モンゴル・回・満は、みな自衛能力を持っていない。民族主義を高揚させ、チベット・モンゴル・回・満を我が漢民族に同化させ、一つの最大民族国家建設することは、漢族の自決に基づくものである」「我が党としては、民族主義においてはなお努力すべきで、必ずチベット・モンゴル・回・満を我が漢族に同化させ、併せて一大民族主義をもつ国家を成し遂げさせる」ということであった。(8)

漢族を中核とする「中華民族国家」

ただし、ここで強調された「中華民族国家」の中身は、事実上「漢民族国家」に他ならず、「中華民族」も「漢族」が中核との認識であり、「漢族にとっての利害」が「中華民族にとっての利害」に一致するとの思い込みが強かった。このため中華民国国民政府にとって「中華民族国家」とは「漢民族国家」に他ならないという意識を超えることは困難であったと言えよう。(9)
孫文及びその後継者の考え方は、辛亥革命前は「五族を中華から排除」していたが、辛亥革命後は「五族を中華に同化」させる方針に変わったということであろう。孫文らは「西欧発祥の近代的国民国家体制」と「中華大一統としての多民族統一国家」の矛盾に対する回答として、このような行き方を採用したわけであるが、ここに「現在の中国の民族問題」の淵源の一つがありそうである。

中華民国の中華世界支配の施策

モンゴル、チベットの直轄化

このような理念の変化に基づき、「中華民族国家化」すなわち「漢化」「五族の漢民族への同化」の過程が、「国民国家」形成に直結すると言う観点から1928年に蒙古、西蔵両地域を全て省制に移行させ「直轄化」「内地化」を推進することとした。ここに具体的な統治政策において、清朝の基本方針であった「藩部」の設置や五族の多様性を維持した「大一統」から、「内地化」「漢化」をベースとした「同化による大一統」に基本的な方針が変化したと言えよう。(10)
「中華天下」が外部からの侵略や併合の圧力を受け続ける中では、既に清朝期に新疆が省とされ「内地化」「中国化」が開始されていたことも考えると、このような中央集権的な施策はやむを得ないかもしれない。尚、現在の中華人民共和国では、これらの蒙古、西蔵、新疆はそれぞれ自治区となっており、省制は採用されていない。

蒋介石による中華民族一元論

このような行き方は、辛亥革命以降の旧「藩部」である「蒙古」「西蔵」「新疆」で顕在化してきた「中華世界からの離脱」を目指す動きへの対抗として実施された側面も強かった。その後蒋介石は1929年に「中華民族一元論」を唱え始め、「中華民族」とは「黄帝子孫に属する同一の宗族」であり、いわゆる五族を含めて既に中華民族として一体化、一元化した存在である、と主張したが、これは旧「藩部」の独立の動きを阻止し、「中華民族としての大一統」を維持するために人為的な政策的見地から集権化を進めざるを得なかったため、と理解される。

外モンゴル放棄と中華大一統の原理への抵触

国民党政権は、既に1927年に外モンゴルの「独立」を容認しているが、このことは国民党政権が「中華大一統」の原理を根底では把握していなかった証左ではなかろうか。(11)
中華民族一元論にしても「中華と夷狄の共存及び多くの夷狄を版図に組み込むことこそが中華帝国の存在理由である、と言う天下思想の原理」(12)への本質的な理解が欠けている、ということかもしれない。
このような国民党政権あるいは蒋介石の「中華大一統」に対する本質的なレベルでの理解の欠如が、中国共産党あるいは毛沢東の「中華大一統」に対する理解度の深さに敗れる過程が、この後の中国国民党の台湾への下野や、中国共産党の大陸支配に至る一つの要因を為した可能性もある。

中華天下維持の成功と中華人民共和国への継承


ここまでみてきたように、辛亥革命あるいは中華民国の成し遂げた果実は政治的には一見したところ完璧なものではなく、その後の混乱した時代への道筋をつけてしまったかのように見受けられる節もあるが、冒頭でも指摘したように漢族以外の諸民族も包含した中華民族の概念をある程度確立したことや中華天下として清朝極盛期に成立した広大な征服地も含む大帝国のエリアを中華民族国民国家のエリアとしてある程度まとめ上げることに成功した功績は、ある意味では計り知れないものがあったと言えるのではないだろうか。
翻って、オスマン帝国=イスラム世界帝国がその強力な宗教的な基盤や栄光ある歴史的文化的な遺産を誇りながら、端的に言うと各個に分裂し雲散霧消して、結果的にトルコ人によるアナトリア中心のトルコ共和国とそれ以外の多くの国家に分裂してしまった現状と好対照と言えるであろう。

そのように考えると、孫文を建国の父として仰ぐ現在の二つの中国政府の立場は十分に理解できるし、さらに中華5000年の歴史を現在に継承しえた孫文の偉大さはどれだけ顕彰しても足りないくらい巨大とも言えようか・・・

尚、本稿でも取り上げた中華大一統や天下思想については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。

辛亥革命後の中国の特殊で非西欧的な近代化過程の困難さについて!

参考文献
(1)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p41-p42
(2)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p42-p43
(3)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p43
(4)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p43-p44
(5)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p51
(6)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p45
(7)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p210
(8)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p214
(9)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p46-p47
(10)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p52
(11)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p53-p54
(12)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p207