⭕️習近平の中国支配は清朝の最盛期をモデルにしているのか?!

2023年6月10日

習近平は康煕雍正乾隆時代の完璧な中華帝国支配を目指すという観点から、自らの任期を撤廃し、事実上中華帝国皇帝の後継者のような立場となった習近平にとっての理想的なモデルとして、現在までその版図が維持されている康熙帝、雍正帝、乾隆帝時代の清朝極盛期の征服活動に関して検討していきます。
この時の侵略・征服と版図の拡大は、中華帝国に現在まで継続するチベット,ウイグルなどの民族問題を発生させましたが、一方では現代に至る中華帝国領域=版図の拡大に成功したわけで、ある意味では後世に誇るべき偉業となるのでしょう・・・
ここでは、これらの新領土侵略・征服の目的を、漢族を服属させるために必要不可欠な蒙古騎馬兵力の確保という非常に具体的で戦略的な意義の視点も踏まえつつ明らかにしていきます。
ちなみに、2014年3月に訪独した習近平にメルケル独首相が贈った18世紀前半の極東エリアの古地図には、新彊やチベットなどは、中国領土としては記載されていませんでしたが・・・

清朝がモンゴル、チベット、新疆への中国領土拡大に着手した要因

モンゴル騎馬兵力との同盟に向けたチベット仏教との関係強化の必要性

清朝が中国領土の拡大に着手したのは、清がモンゴルの騎馬兵力を同盟に引き込んでいく過程で、必要となったチベット仏教の正統な保護者の座を巡る主導権争いに端を発していると言えよう。
モンゴル高原は当時ダライ・ラマを政教の中心とするゲルク派チベット仏教が席巻しており、モンゴルの王侯貴族が清の皇帝を「ボグド・セツェン・ハーン(神武英明皇帝)」として、モンゴル共同のハーンとしても承認するためには、清の皇帝が文殊菩薩と仏教への帰依に基づいてモンゴル人が信仰するダライラマ及びゲルク派のチベット仏教を名実ともに保護することが大前提となった。
このような状況をうけて、清の皇帝がゲルク派の指導者であるダライラマに対して畏敬と尊崇の念を公式に明らかにする場を設定することが、政治的パフォーマンスとしても必須の課題となり、当時の皇帝ホンタイジは同時代のダライラマ五世を首都盛京に招くべくチベットに親書を送った。ホンタイジの死によりダライラマ五世との会見は実現しなかったが、ホンタイジの後継者たる順冶帝はダライラマ五世に改めて親書を送り、その誠意を伝えた結果、遂にダライラマ五世と順治帝の会見が1652年に北京で実現した。
順治帝はこの時に青海方面までダライラマ五世を出迎えようとしたものの天変地異や政治情勢の緊迫化等のため、結局北京での会談となった。順治帝はダライラマ五世への礼儀を重んじ北京城外まで出迎える等可能な限り礼遇して皇帝とチベット仏教との関係の深さを強調した。尚、北京の北海の白塔はこの時の会見も踏まえて順治帝が建立したと言われる。(1)

清朝皇帝にとっての中華文明以外の価値の戦略的重要性

清朝皇帝は、このようにモンゴル騎馬兵力を取り込むことの布石の一環としてチベット仏教に接近した。このことは、「儒教・漢字」をベースとする「中華文明」とは異なる価値への清朝のアプローチが戦略的でかつ必須の課題であったことを物語っている。また清朝は、単に「中華文明」に取り込まれる存在と言うだけではなかったということの証左にもなるだろう。

新疆エリアの混乱収拾とモンゴル騎馬兵力安定統治のためのチベットエリアコントロールの重要性

新疆エリアの混乱とチベット仏教勢力の不安定化

その後、新疆エリアにおいて西モンゴルの一部族であるジュンガルが台頭し、康煕帝時代から乾隆帝時代にかけて清との抗争を繰り広げるが、この清とジュンガルの争いにチベット仏教も巻き込まれることとなった。すなわち康煕帝時代にジュンガルの指導者ガルダン・ハーンがダライラマ勢力と連携して清に対抗しようとして敗退したが、その後にはダライラマ五世の没後に後継者となったダライラマ六世が放蕩に走ってしまった。これをうけて清とその協力者が「別のダライラマ六世」を擁立したところ、亡くなった「放蕩のダライラマ六世」の生まれ変わりの正統なダライラマ七世を担いだ人々が、清の皇帝に「放蕩のダライラマ六世」廃位取り下げとダライラマ七世の承認を求めるというような事態が発生した。(2)

モンゴル騎馬兵力安定統治に向けたチベットエリアの混乱の収拾に向けた動き

このように当時のチベット仏教は政治に翻弄されている状況が明らかであるが、同時に清朝皇帝も活仏としてのダライラマの正統性と転生の真実性に振り回されている有りようも認められる。モンゴル騎馬兵力を安定的に統治するためにもチベット仏教を完全にコントロールすることが、重要な政治課題であった清朝皇帝としてはこのような事態は可能な限り素早く収拾することが急務であった。
この時にはジュンガルのツェワン・アラプタンがラサへ侵攻しようとしているという状況が重なり康煕帝としても「ダライラマ六世」を巡る面子の問題とともに、ツェワン・アラプタンの軍事的政治的な脅威に対抗する必要に迫られ、「ゲルク派仏教を保護するのがジュンガルではなく清の皇帝である」ことをモンゴル・チベット全域に知らしめるべくラサに進攻することを決定し、併せて面子の問題は一先ず置いてモンゴル・チベット人の意向に沿う形で「放蕩のダライラマ六世」の復権と「ダライラマ七世」への権威の委譲を承認することとした。1720年の段階で後の雍正帝の皇子時代に推進された清のチベット平定作戦は、成功裡に終結し、モンゴル・チベット人の間で「文殊菩薩皇帝」の権威が確立した。(3)

チベット平定とジュンガル平定による新領土の「新疆」命名

このように清朝皇帝によるチベット平定作戦は成功したが、清朝側もダライラマの正統性を巡ってモンゴル・チベット人側の主張を受け入れるという妥協を強いられた。清朝皇帝も上辺だけの介入では通用しないことを把握し、現地の内情を踏まえてチベット仏教信徒の意向を重視しながら果断に武力を行使することで、名実ともに「文殊菩薩皇帝」として敬愛される道を選んだと言えよう。
この後、乾隆帝は雍正帝時代の繁栄と倹約を通じて実現した空前の国庫の充実を背景にジュンガルの残党を徹底的に掃討し、ジュンガル及びタリム盆地のイスラム教徒を完全に清の版図に組み込み、新領土を「新疆」と命名した。(4)

清による中国領土拡大過程と支配正統性の根拠の特殊性

「中華文明的価値」に左右されない中国領土拡大方針

このような過程で清は中国領土の拡大に成功するわけであるが、この領土拡大の過程で「儒教や漢字の優越」と言ったそれまでの「中華文明的価値観」が有効に働いた形跡が、あまり認められないのは紛れもない事実、と言えそうである。あくまでも清はモンゴル・チベット領域を遍く統べるためにゲルク派チベット仏教の保護者の座を目指して軍事的に活動し、必要に応じて政治的妥協も厭わなかったと言えよう。(5)

モンゴル・チベットエリアにおける支配正統性の根拠

すなわち清朝皇帝は、モンゴル・チベットエリアにおいては、中華帝国皇帝の威光に基づき統治したのではなく、この地域の権威者であるチベット仏教の主流派の保護者として振舞うことで正統性を調達したのである。これは清朝皇帝が、明及びそれ以前の狭義の「中華帝国」エリア=中国内地を超越する存在となったために必要不可欠となった新たなる支配の正統性の根拠を巡る動きであった。

チベット仏教側の支配正統性の原理としての「転輪聖王」

チベット仏教の側では、現実の政治的状況の中で具体的な力を持たない仏教勢力の側が生き延びるために権力者の庇護に頼るにあたって、権力者の高潔さや信仰心に関して厳しい基準を設定し、基準を満たした権力者が仏教を保護するために具体的な力を行使することを肯定していた。一般的にはそのような仏教の興隆のために武力を行使する権力者は「正法王」と呼ばれ、その中でも圧倒的な信仰と政治力をもつものは「転輪聖王」と呼ばれた。こうした中で古代インドのアショカ王に対して用いられていた「転輪聖王」の再来として、清の歴代皇帝たちもモンゴル人・チベット人から受け入れられることとなった。(6)
清朝皇帝たちは、そのような仏教を保護する権力者としての資格を得てモンゴル・チベットエリアの人々の支持と畏敬を確保し、それまでの中華帝国が成しえなかった中国領土の新領域への拡大とその長期で安定した支配を実現したと言えよう。

清朝極盛期の万里の長城による異民族管理を検討する!

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p141
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p144
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p144-p145
(4)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146