⭕️西洋の衝撃によるオスマン帝国崩壊とイスラム世界秩序解体!
西洋の衝撃がオスマン帝国崩壊とイスラム世界秩序解体に直結したという観点から、西洋の衝撃の影響を受けたオスマン帝国における近代化の動きが、帝国の根底を揺るがす徹底的過ぎる改革で、明治維新のような伝統を維持し国家体制を変革する形を取らなかったため帝国崩壊に直結した状況を確認していきます。
これは、今日の状況に比定すると、改革を急ぐあまり国家の存立基盤を揺るがしてしまい、そのまま帝国そのものが崩壊してしまったソビエト連邦にも共通するものがあった、とも言えるかもしれません。
徹底的過ぎる改革がもたらす体制崩壊
イスラム的世界帝国の概念と言うのは、オスマン帝国が引き継いだイスラム世界における覇権国家の存立基盤であった、と言えます。
もっと広くとらえれば、これはイスラム世界一体化の成立基盤でもあったのではないでしょうか。
もともとイスラム的世界秩序の理念においては、「イスラムの家」の政治的統一が前提とされ、ムスリムの諸国家から構成される国際体系は全く想定していなかった、と言う点から観ても、徹底的過ぎる改革が帝国の存立基盤を犯して、逆に帝国の崩壊に導いてしまったのかもしれない、と言うことになります。
これに近い状況としては、近年ではソ連を崩壊に導く遠因となった、ペレストロイカなども、このような例に当てはまるのではないでしょうか。
すなわち、ペレストロイカにおいては、体制変換モデルを提起しながらも、以下のような三重の矛盾を内包していたと言われています。
第一に、ペレストロイカは、ソビエト共産党の一党ヘゲモニーの堅持を意図しながら、市民社会の登場と成熟を前提とし、その歴史的所産であることを強調し続けていたこと
第二に、ペレストロイカが、社会主義経済システムの枠内での経済活性化の道を模索しながら、他方で資本主義的制度の多様な導入を画策していたこと
第三に、ペレストロイカは、本質的には国家=党の支配の中央集権的なメカニズムとしての、「帝国」を維持しようとしながら、民主化・分権化を強調し、共和国主権を求める絶え間ない動きを引き出してしまったこと
このように改革の姿勢が、「帝国」の存立基盤を動揺させ、世論の大勢がそこになびいてしまうと、そういう動きをとどめることは困難であったと言うことでしょう。
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オスマン帝国による根本的改革の遂行
とはいえオスマン帝国は、ソビエト社会主義共和国連邦のように突如として崩壊するようなことはありませんでした。
あらゆる予想を裏切って、オスマン帝国はスペイン帝国、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国、ポーランド選挙王国、神聖ローマ帝国、ブルボン王朝、ナポレオン王国、権力ある存在としての教皇庁やロマノフ王朝、ハプスブルグ帝国、ホーエンツォレルン帝国よりも長生きした、のは歴史の示す通りです。
イスラム的世界帝国の根幹レベルからの改革を目指すと言う方針のもとで、1839年に「ギュルハネ勅書」が、1856年には「改革の勅令」が出されました。
ここには、オスマン帝国の臣民は、その宗教に関わらず、ほぼ平等の権利を有することと規定されていました。
オスマン主義と呼ばれるこの方針は、イスラム的な伝統的帝国概念を根底から覆し、世俗的多民族国家としてのオスマン帝国の延命を目指す、画期的なものではありました。
この内容は、ムスリム臣民には浸透したものの、非ムスリムのバルカン諸民族のナショナリズムや、民族独立運動を抑え込むことには失敗し、オスマン帝国のイスラム的世界帝国から世俗的多民族国家への転換に至る道は閉された、と言うことになります。
すなわち、この改革内容では、バルカン半島に居住するキリスト教を信じる諸国民には、受け入れられなかったと言うことであり、オスマン帝国の最大の混乱要素であったバルカン半島における独立運動、あるいは帝国からの離脱の動きを完全に消し去ることには失敗したと言うことになりました。
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バルカン喪失後のオスマン帝国の課題
このようにオスマン帝国は、自らイスラム的世界帝国の本質を放棄し、世俗的多民族国家への転換を図るという、帝国の存立基盤を揺るがすような改革姿勢を示したにも関わらず、このような方針を採用する直接の要因となった、キリスト教系のバルカン諸国民の支持を確保することに失敗しました。
これにより、非ムスリムのキリスト教徒を主体とする、バルカン半島の大半の領土の喪失が、ほぼ既定事実化してしまうことになりましたが、そうなってくるとオスマン帝国存立のための、次なる喫緊の課題が浮き彫りになってきました。
その課題というのは、オスマン帝国にとって、核心的存在であるムスリム臣民を、如何にしてつなぎとめて、帝国を維持していくか、と言うことになります。
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バルカン非ムスリム諸国家喪失後の生き残り策を模索するオスマン帝国
非ムスリムのバルカン諸民族の独立と、外圧の高まりの中で、オスマン帝国はその存立のために、いくつかの方策を探りましたが、その方策の一つは伝統的なイスラム的国際体系観に回帰し、イスラム世界の統一と全ムスリムの団結により、危機に対処することでした。
すなわち、この行き方は、イスラム世界帝国伝統の方針であり、スルタン・カリフ制の理論を援用しつつ、オスマン帝国の君主としてのスルタンが、同時に地上における預言者ムハンマドの代理人であるカリフとして、全世界のムスリムの指導者として君臨する、との考え方となります。
いま一つの方策は、トルコ民族のナショナリズムを拠り所に近代的国際体系に参加し、ネーションステートの一員になるという考え方であり、これには大トルコ民族主義と、アナトリアを中心とするネーションステートを形成しようとするトルコ主義とがあったが、これはトルコ主義へと徐々に収斂していきました。
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ムスリム臣民内のアラブ民族意識の芽生えとトルコ主義の拡大
基本的に、オスマン帝国におけるムスリム臣民は、当然トルコ人だけではありません。
もともとオスマン帝国は、イスラム世界の辺境の一帝国に過ぎなかったのであり、マホメットの出自やメッカ・メジナの周辺民族を想起すれば、ムスリムの主体としてはmアラブ人の動きをここで確認しておく必要があるでしょう。
ムスリム意識から派生して、徐々にトルコ人意識が出てき始めていた19世紀後半には、ムスリム臣民のうちアラブ人にもアラブ人意識が芽生え始め、それがアラブ・ナショナリズムへと結実していくこととなりました。
このようなアラブナショナリズムの形成は、イスラム世界の伝統的秩序観に、決定的な亀裂をもたらすことになりました。
またこれが近代西欧に由来する、ナショナリズムへの志向に対抗する、イスラム世界の伝統への回帰としての、パン・イスラム主義の発展を阻害する要素となってしまいました。
同じムスリムのアラブ人がナショナリズムに目覚めることで、離反の動きを示すことになってしまえば、オスマン帝国の取るべき道は、アナトリアを中心とするネーション・ステートの形成をベースとする、トルコ主義に収斂せざるを得なくなっていきました。
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ナショナリズムの高揚とイスラム的世界秩序の崩壊
このように18世紀以降の西洋の衝撃により、イスラム世界における伝統的国際体系は徐々に掘り崩され、イスラム的世界帝国としてのオスマン帝国は、解体に追い込まれていきました。
こうした世界帝国崩壊の過程で、ナショナリズムの高揚と、主権平等のネーションステート形成に向けた流れが、奔流のように噴出した、と言うことになります。
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オスマン帝国の疑似国民国家化への志向と崩壊過程
オスマン帝国は、かつて民族と宗教の多様性のダイナミズムを誇る世界帝国として、イスラム世界及びバルカン半島を支配していたわけですが、「西洋の衝撃」を受けてその多元的な支配構造を「疑似国民国家」化して、西欧のリードする新しい世界システムに適応しようとしました。
このような「疑似国民国家」に変質したのは、オスマン帝国だけではなく、「中華帝国」も同時期に同じ様な対応を取っていた、と言うことです。
「中華帝国」では「天の思想あるいは天下主義がいつのまにか明確な輪郭をともなった国民主義へと変質」していました。
ここで言う「天=天下」が中華エリアのベースであったが、清の時代に藩部を取り込んで大幅に拡大した「天下としての中華エリア」=「清朝最大版図」が、そのまま「国家領域」として受け入れられ、「天下の民」=「国民」=「中華民族」と捉えなおされることで、非常に自然な形で「疑似国民国家」中華民国が誕生したと言えます。
そしてこの延長線上に、現在の中華人民共和国も位置づけられるでしょう。
他方オスマン帝国は、非ムスリムを抱え込んだイスラム的世界帝国の位置付けを、まずバルカン半島の非ムスリムの独立で喪失し、ムスリムを包括するイスラム的世界帝国の位置付けを、アラブ民族主義の台頭で放棄し、究極的にはアナトリアをベースとするトルコ主義に純化した国民国家を選択することで、あらゆる「帝国」としての歴史に訣別したと言うことになりました。
こうしてイスラム世界は、「西洋の衝撃」を被ることで、それまでの自己完結性を喪失して、グローバルシステムとしての近代国際体系の一部に組み込まれ、「中東」と呼ばれる一地域として再編成されることとなりました。
そうした動きの中でこれまで述べてきた通り、オスマン帝国の中核たるトルコ民族も、アナトリアを中心にトルコナショナリズムによって、世俗的な近代西欧の方式をベースとした、トルコ共和国というネーションステートを成立させ、今日に至っている。