⭕️雍正帝が大義覚迷録で明らかにした異民族統治政策!

2023年6月10日

トランプ大統領の移民政策は、アメリカの国論を分断し混乱を助長しつつも、アメリカファーストと言うトランプ自身の選挙公約の基本理念に照らせばテロや犯罪の増大・治安悪化の脅威の前では市民の安全安心のために必要不可欠と想定されるといってよいでしょう。
ちなみに、トランプ大統領のそのような基本的な国家の成り立ちを維持するための模範的なモデルケースは、大義覚迷録で雍正帝が表明した中華帝国としての国家像や実態としての清朝の異民族支配状況及び現代に至る拡大された中華領域大一統の貫徹に見い出されるのではないか、と言うのが私の見立てになります。
そういう意味で、トランプ大統領も国境管理すらままならないのは、苛立ちを隠しきれないということになりましょうか。

清朝極盛期の皇帝による平和の理想の実現

清朝皇帝による華夷一家と中外一体の実現

清朝極盛期に実現した拡大した中華天下の状況は「中外一体」とも表現された。それでは、「中外一体」とは、どのような意味であろうか。雍正帝の政治思想である「華 夷一家」との関係はどのようになるのだろうか。
「中外一体」という表現は、もともと「中国」であったか「外国」であったかを問わず、いまや皇帝の実力と公正な支配に服して平和を享受する人々はすべて臣民で平等であり、一君万民であることを強調するために唱えられたと考えられる。(1)
雍正帝は、漢民族のエリートに向けて自らの思想を説明する場合も、満州人自身は夷狄であることを否定せず、満州人は漢人から観て「外人」「外国人」であることも認めていた。とはいえ、文化的な出自と人間性や実力との間にはあまり関連性はなく、「華」が儒学や漢字を産み出したからと言って、「華」が「外国」に優越しているという発想自体には特に何の実証的な根拠もないことは、「外国人」たる満州人が「華」を支配し、中国の領土を拡大し、極盛期を現出していることで明らかであった。一人の皇帝のもとで平和を享受する人々を出自の違いで差別する理由も必要も無いというのが、雍正帝の考え方であった。(2)
歴史的にも元は確かに清と同様に「夷狄」が「中華」を支配したが、雍正帝の言うように親が赤子を育てるように丁寧な政治を漢人に対して行ったかというと、大きな相違があったと言えるだろう。元は、西域の色目人を重用し、同じ中国内地でも華北の金の領土の出身者は漢人、最後に服従した華中以南の南宋エリア出身者を南人あるいは蛮子として、法制上は最下級の人民として扱った、ということもある。(3)

辛亥革命以降の中華エリア統治原理と大義覚迷録の連関性

翻って考えてみれば、現在の中華人民共和国の領土が、外モンゴル以外は実質的に清朝の極盛期の版図を引き継いでいるわけであり、この「華夷一家」たる「大義覚迷録」の思想の延長線上に近現代の中国が存在しているとも言えるであろう。(4)
もし近現代の中国がいわゆる「華」にあくまでも拘ったとすれば、その領域的な広がりの限界は、「儒学と漢字をベースとする漢人エリア」にとどまり、せいぜいが満州を除く明朝版図=中国内地を統治するのみであったのではなかろうか。
そういう意味では、雍正帝は清末から辛亥革命以降の「中華民族」概念や「国民国家」中国の概念を先取りしていたのかもしれない。
清朝極盛期の漢人士大夫層が、そのような概念に思い至るのが困難であったのは想像に難くないが、その後も梁啓超の議論が出てくるまでは、有効な「中華の大一統の具体的な理念」が漢人士大夫側から提出されることは無かったと言えよう。(5)

「大義覚迷録」の思想の本質と清朝皇帝による平和の実相

ここで漢人士大夫層の「華夷思想」に対抗する「大義覚迷録」の政治思想を支える実質的な「清朝皇帝による平和」と「清朝の成功」とは何かを具体的に明らかにしておきたい。
①清朝の支配者である満州人の側に武勇と実力が備わっており、かつ華美や贅沢から離れて質素倹約に努め、政治と軍事の主導権を維持するに相応しい、徳のある存在であり続けること
②反満思想や民族差別が存在しない「真の平等の楽園」が本当に実現していると思われるような状況が現実に存在していること
③清の皇帝のもとで「儒学、漢字を中心とする華」だけでなく、チベット仏教やイスラムなどの宗教的・文化的存在が保護されるとともに、それぞれの存在が独自の有りようを維持し続けることが可能であること(6)
少なくとも、これらの「大義覚迷録」の精神を支える条件は、雍正帝から乾隆帝にかけての清朝極盛期にはかなりの程度満たされており、清朝皇帝が「中外一体」の史上空前の版図を「華夷一家」の精神で安定して支配する基盤を提供し続けたと言えよう。

華夷一家を実現した清朝最大版図統治の複雑性と今日性

「華夷一家」の実現から「華夷融合」に至る道筋の険しさ

それでは、「華夷一家」として同じ清朝という新たな枠組みを作りだした「中外一体の体現者としての大清帝国」において、「華夷一家」の先に「華夷融合」のようなことは図られたのであろうか?
漢人による民族差別の源流には、「華」の儒学・漢字の文化が「夷」に圧倒的に勝っているという信念があった。このような民族差別を止揚するためには「華」と「夷」は一家として、同じ「清朝」に暮らすといえども、「夷」としての満州人やモンゴル人は、それぞれの固有の 宗教・文化を維持し続けることが必須との認識が雍正帝や乾隆帝には強かった。(7)
このような清朝皇帝の基本方針に基づいてどのような政策が採用されたかと言えば、「清朝による平和」のおかげで軍事的意味を失った万里長城を「華」と「夷」を分け隔てる文化的な境界線として再利用するということであった。
別記するようにモンゴル騎馬軍団の軍事力を帝国安定の基盤と考えていた清朝皇帝達は、モンゴル人が「華」に染まって文弱化し、モンゴルの文化や宗教の保護者として大ハンに推戴されて成立した大清国の基盤が揺らぐことを看過出来るわけもなかった。
こうして万里長城に軍事的に頼り切っていた明とは違った意味で、「中外一体」「華夷一家」を実現した清朝皇帝も万里長城に頼って「中」と「外」、「華」と「夷」の関係の固定化をはかる必要に迫られてしまったのである。(8)

「中華帝国大一統の原理」の適用領域を超える清朝最大版図を支配するための原理

このように考えてくると金観濤の定式化した「大一統の原理」は、あくまでも明及びそれ以前の「儒学・漢字・漢人を基盤にした儒教文化圏たる中華世界」エリア=中国内地を対象としており、清朝が新たに中華帝国の版図に付け加えた「夷」の世界たる「藩部」は別の論理で統治されざるを得ないということにもなろうか。そしてこれは今日の中華人民共和国では、「省」と「自治区」の違いとして現れ、特にチベットや新疆においては民族問題を内包していると言えよう。
すなわち「中華帝国」は、「清の極盛期」において「儒教と漢字をベースにする漢人エリア=中国内地」と言う枠組みを超えて、一方に漢人の中華文明エリア=中国内地を中核として保ちつつ、「清の皇帝の庇護の下で、その支配さえ受け入れれば、特定の文化的価値を押し付けることはなく、既存の文化や社会の安定は全力で保証する」、という方向性を見出して、中国領土の拡大とその安定的な統治を長期的な視野と規模で実現したと言えるだろう。
ただし、これは「大清帝国極盛期の歴史的枠組みの中での安定と平和」を実現したものであるが、この論理が現在の「帝国としての中国」の論理に直結しているか否か、また近代における危機の中で「帝国としての中国」が分裂と崩壊を免れた真因となったのかどうかについては、別項にて十分な検討が必要である。

尚、大義覚迷録で雍正帝が示した寛容で世界帝国に相応しい異民族統治方針については、以下のリンクでも詳しく取り上げています。
大義覚迷録で雍正帝が強調した中外一体,華夷一家はトランプ大統領の非寛容な移民政策と正反対である!

参考文献
(1)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p118
(2)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立p224
(3)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第二章 民族統合・建国から大清国の成立 p104
(4)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第二章 民族統合・建国から大清国の成立 p224
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p172
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p172
(7)宮崎市定:世界の歴史6 宋と元 中央公論社 1975 元王朝の興亡 p400
(8)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p174