⭕️袁世凱の功績は辛亥革命の徹底と儒家正統支配システム破壊にある!

2023年6月10日

 

袁世凱の功績は辛亥革命の徹底と中華大一統システム破壊にあるという観点から、袁世凱の歴史的功罪を検討する時に等閑視されがちな、清朝の崩壊=辛亥革命で果たすべきだった体制の根底的な刷新を成し遂げた人物という観点から再検討してみたいと思います。すなわち、清朝崩壊時には以前の中華帝国の王朝交代と様相が異なり、農民大反乱がなかったため社会を根底から覆すような体制の刷新も成し遂げられなかったにもかかわらず、意外にも袁世凱が推進した軍閥的支配=儒家官僚層の一掃が、儒教イデオロギーと儒家官僚の帝国支配システムとしての「中華大一統要件」の喪失に直結し、皇帝と儒家官僚の統治する中華帝国そのもの終焉につながった、という視点から袁世凱の事績について検討していきます。 

袁世凱の歴史的評価

大悪漢扱いされる袁世凱

袁世凱は、儒教的な伝統の色濃い中国の政治世界からすると批判の対象として観られることが多かった。儒教の伝統によれば、歴史は政治に指導を与え、徳のある支配に道徳の具体例を提供するようなものでなければならないという。袁世凱は、まさに大悪漢とも言える存在であり、まさに中国史上においては簒奪者として著名な王莽や曹操に匹敵する人物として取り扱われている。(
確かに袁世凱は、西太后に仕え一時支持していた光緒帝の新政・戊戌の変法を裏切って、その終息に関与したり、清朝崩壊時は臨時大総統になるなど、まさに王朝簒奪者の名に相応しい動きを観せていたことは事実である。

儒教的観点から評価される支配者像

儒教では本来皇帝たるものあるいは支配者たるものは、精神的に聖者であり、外見上は君子であらねばならない。この精神と外見との調和は徳のある支配が支配者の欠点の無い道徳的性格からくるものである、ということを意味する。君子がその国と臣民に幸福をもたらしているとすれば、儒家の歴史家はその君子の外的行動と精神的素養が混然一体となって調和していると解釈する。逆に袁世凱のような大奸賊については、腐敗した徳の無い支配は悪意ある心根から出てくると解釈する。(
儒家からすれば、そのような解釈が出てくるのは理解出来るが、ここでは具体的な行動と政治判断、そのもたらした結果で、袁世凱について検討していきたいと考えている。

共産党の見地から観た袁世凱

それでは、共産党の歴史家は袁世凱についてどのように評価しているのであろうか、ここでは陳伯達の見解を観てみよう。
彼は、「袁は現状を維持し人民を抑圧しようとする反動的地主と買弁階級により注意深く選ばた」と主張し、袁の知力・軍事力、そしてその二面性が彼に一時的な勝利をもたらし、近代中国最初の簒奪者たらしめた(二人目の簒奪者は、蒋介石とのこと)、という。袁世凱は、封建的、買弁的で人気の無い独裁者であり、外国反動派、軍隊、陰謀、金銭、詐欺などに依拠して権力を乱用し人民を支配したが、その支配は長続きせず今や跡形もなくなった。人民のみは永久に生き続けるし、人民こそが袁世凱を倒した、と陳伯達は言う。(
こうしてみてくると儒家と共産主義者の歴史に関する解釈がある程度共通するところが観て取れて興味深い、儒家も共産主義者も道徳的価値観の高いものが生き延びて成功をつかむのであり、袁は利己的貪欲で誇大妄想で信頼するに足りなかったので失敗した、( というわけである。

没落する英雄と天命を得た英雄の相違

これまでの中国の歴史の中でも、三国志に登場してくる同じ袁姓の袁術なども後漢末の群雄割拠の時代に図らずも「伝国璽」を手にして挙兵し、皇帝を称しながら瞬く間に没落した、ということがあった。また朱元璋と覇を争った陳友諒も黄金の皇帝の玉座を得た後に没落の一途を辿ったということもある。翻って劉邦や朱元璋は無一物に近いところから始めて帝位につき数百年の安定した王朝を建設したことも紛れもない事実である。
この差が本人たちの道徳的価値や精神的な徳の高低によるものかは知る由もないが、何らかの天命のようなものも感じられなくもないかもしれない。ただ私個人の考えでは、劉邦や朱元璋が天下人になったのは天命によるだけでなく、それを生かしきる力が備わっていたものと認識している。確かに劉邦は韓信ほどの用兵の才も項羽ほどの武芸の才も備わっていなかったし、元々の部下も樊噲らの無頼とでも言うべきメンバや役人と言っても沛県の下級役人であった蕭何と曹参くらいしかいなかった。ただ劉邦は、ライバルの項羽と違い、優秀で信頼出来る部下には全幅の信頼を寄せ、その実力をいかんなく発揮させて覇業を助けさせる度量と鷹揚さがあったことは間違いないだろう。朱元璋も後に大粛清を行ったが、覇業をなす過程では李善長や胡惟庸などに力を振るわせている。

袁世凱を取り巻く歴史的環境

儒教の原理を前面に出す清議派役人の活動

それでは、袁世凱は具体的にはどのような人物で歴史上どのような影響をもたらし、何故皇帝まで登りつめながら三日天下的な短命政権で終わったかについて考えていきたいと思う。
袁世凱の権力の頂点を目指す動きは、日清戦争での清国の敗北の直後に始まったと言えるが、この時期は中国において儒教国家の崩壊と中国ナショナリズムの勃興が同時に始まっていた。日本に対する敗北により勢力が衰えたとはいえ、儒教の原理を前面に出す清議派の役人達の活動は、1898年には光緒帝の新政・戊戌の変法の一方の柱として力を強めた時期もあった。基本的にこのような清議派の活動は君主が賢明過ぎたり、腐敗し過ぎてしまうと沈黙を守る傾向があるが、危機意識や道義的義憤により刺激された場合は大変な影響力を持つことが多かった。ちなみに、1937年の盧溝橋事件による日中戦争勃発時もこのような「清議」は爆発したという。(

役人が清議を放棄した場合の混乱要因

戊戌の変法の抑圧や義和団事件への清朝廷の関与による悲惨な結末により「清議」は沈黙することとなった。役人が「清議」を捨てるとどのようになるかということについては、これまでも「大一統」を巡る金観濤らの議論で観てきたとおりであり、社会が一体化を用いてひとつの安定した大国を組織するには、必ず以下のいくつかの条件を備える必要がある。

①連絡の機能を担える強力な階層が社会に存在していること
②この階層が統一的信仰を有し(辛亥革命前は儒教、現代は共産主義?)、かつ積極的な統一的国家学説を有していること
③官僚によって管理される郡県制が社会に行われていること
④統一的信仰を持った階層を用いて官僚組織が組織されていること

このような条件が揃わないと「中華帝国大一統」の基本要件が崩れ、帝国の統一が失われて大混乱に至るとの見解である。(6)

袁世凱の立身出世のきっかけ

本論文でも何回か取り上げてきたが、構造的には上記のような「中華大一統」の原理を確保しなければ帝国の統一は失われることになるわけであるが、短期的な一時しのぎとしては帝国の維持に必要なのは軍事力のみでも十分であった。この時点で清国が頼りに出来たのは袁世凱の新軍の軍事力のみという現状であり、ここから袁の急速な立身が現実化していくこととなった。1895年以降の清国において政治的な実力を増した勢力はこの袁世凱の新軍=清朝廷の軍事力であり、立憲派は既に力を失いつつあった。(7)

袁世凱の思想信条と政治的目標

袁世凱の成功と没落の構図

この当時は儒教のイデオロギーが揺らぎ、実質的な力を備えた西欧諸国に対する劣等感や崇拝の念が生じ、勃興しつつはあるがまだ形を整えていない中華ナショナリズムが顕在化しつつある時期であり、このような絶対的イデオロギー不在の状況が「中華大一統」の要件を揺るがし、権威の危機をもたらした。(8)
私の見解では、袁世凱はこのような危機的な状況を掌握し、秩序を再建しようと模索して、奥の手として皇帝まで登りつめながら、自ら行ってきた政策の帰結として、「中華帝国存立の要件」を掘り崩していたが故に、その権力も崩壊したのではないか」、と考えている。まさに「中華帝国大一統」の要件が崩れそうになった時に、それを支えるために袁世凱の軍事力が要請され、自身の政治活動で「中華帝国大一統の要件」が完全に崩れた時に、その役割を終え、「次なる簒奪者に道を譲った」とでも言えようか。

状況適応主義的な柔軟路線

それでは袁世凱は、そもそも何を信じ、どういう将来像を描いていたのであろうか。
袁世凱が反満でないということは、決して民族主義者に同調しなかったという点で明らかであろう。また儒教にしろ、民族主義にしろ十分に内容を理解していたとは思われず、あくまでもイデオロギーとの関係は皮相的なものにとどまっていた。また共和国大総統であった時も共和主義者とは言えず、共和国への忠誠を誓いながら、組織的かつ慎重に共和政的機構を破壊し、自分自身の王朝を作り出すべく努力していた。(9)
結局袁世凱も時代の子であり、明白で適切に定められた価値の不在な変化の時代に合わせただけだったと言えるのではないか。儒教の価値は崩壊しつつあり、民族主義的なナショナリズムの価値が、未だに曖昧でしかない時代には状況に適応するためにはそれしかなかったのではないだろうか。(10)
確かにイデオロギーが確固としていた時代であれば、袁世凱はそれに合わせて行動していたのであろう。例え自分自身が儒家のイデオロギーを把握していなくても儒者を手元に置き、あたかも自分自身が儒家正統イデオロギーの使徒のように振舞ったであろうし、共産党時代であれば毛沢東思想や改革開放の尖兵になったかもしれない。このように、状況適応主義的なところが、袁世凱の強みでもあり限界でもあったのだろう。

農民大反乱不在の辛亥革命の例外性

農民大反乱が発生しなかった理由

ここで私自身が漠然と抱いていた疑問点について考えてみたいと思う。
これまで中華帝国においては、王朝が崩壊する時は基本的に農民大反乱によって、それまでの体制が徹底的に破壊されることが通例であったが、辛亥革命=清朝が瓦解する時にそのような大農民反乱が発生したという状況は無かったようである。
このあたりについては、袁世凱が時代の子として、従っていた前記したような政治的シニシズムが大きな要因であるとも言える。すなわち、農民の間に一般的に政治や体制に関する無関心が広がっていたということである。農民の無知や教育の無さ以前の問題として、無関心とシニシズムこそが原因と結果を織りなしていた。このため清朝は、それ以前の王朝と異なりボロボロになりながらも命脈を保ち、農民反乱により覆されることなく生き延びたと言えよう。1900年代の反乱は、町から始まり農村ではなく大都市に広がっていったが、農村部は沈黙し、どこまでも受け身的であった。(11)

清朝末期に蔓延した政治的無関心やシニシズム

それでは、何故このような無関心やシニシズムが清朝末期に中国農村に蔓延していたかということであるが、「アヘンの蔓延」や「諸外国の侵入により王朝の存在が人民の敵として際立ちにくくなった」などいろいろな理由が考えられるが、このあたりは「王朝循環論の例外」として今後の課題として検討していきたい。
このような農民層の無関心のため革命の民衆的基盤は極めて弱く、革命主体としては多少の知識階級、秘密結社、南方の新軍などから成り立つのみであった。知識階級と秘密結社の関係は常に緊張しており、このもろい連携も1912年秋には崩壊した。(12)

辛亥革命直後の袁世凱台頭の要因

このように辛亥革命の革命主体がもろく、かつ民衆的基盤を持つものでもなかったために、「それらを超える力」さえ証明出来れば容易に時局を支配することが可能な情勢が揃っていたと言えよう。袁世凱はそのような力=武力を掌中に収めており、それを有効に行使することで知識階級を抑えて辛亥革命の成果をつかみ取ることに成功した。人民大衆から遊離した革命の末路として実力のあるところに権力が流れ着いた印象であろうか。

農民大反乱なき辛亥革命後の旧支配階級の一掃

袁世凱配下の軍人による儒教的官僚集団の地方支配者の一掃

それでは、農民大反乱を経過しない辛亥革命においては、地方を含む支配勢力の一掃はどのようになされたのであろうか。
農民大反乱が発生すれば、地方の省や県の支配者達も根こそぎ一掃されることが通例であった。(13)
このあたりに関して辛亥革命について観ていくと、清朝崩壊後の地方権力は基本的には革命派とは言えない軍人を主体とする保守主義者に握られていたことがある。彼らは自分たちの軍隊の存立を守るため文官政治家を追い出し、その地方の富を独占しようとした。袁世凱としてはこのような地方支配者による中間搾取を排除して財源を確保するためにも、中国を自らの息のかかった軍隊で統一してしまう必要性に駆り立てられていた。袁世凱は国民党に対する内戦も含めて、これらの地方勢力との戦いに勝利したが、彼の地方平定のための野戦部隊は守備隊に編制替えされ、その司令官が新たな軍閥となって台頭していった。(14)
これらの一連の動きがもたらした結果は、中華帝国の大一統の歴史に対して衝撃的な結果をもたらしたと言えるかもしれない。
すなわち袁世凱配下の地方司令官達の県や府、省を支配し平定しようとする要求が、中華帝国伝統の儒教的官僚集団の地方支配を終焉させた。これにより伝統的な科挙合格者の文官による全国統治は、軍人に取って代わられてしまった。(15)

儒教イデオロギーによる中国支配の終焉と袁世凱の立身出世

伝統的な儒教イデオロギーによる中華帝国支配は、辛亥革命というよりは、この一連の袁世凱による地方制圧の延長線上で終焉したと言えるのであり、その後中華帝国大一統の条件が揃うのは、1949年の共産党による人民民主主義革命の成立まで待たなければならなかったとも言えるかも知れない。
少なくとも清朝では科挙出身者でも無く、満州人でもないものが政府の要職につくためには、八旗兵か顕著な軍事的能力を持っていなければ有りえなかったのであったが、袁世凱本人は漢人であり、科挙出身者でもなく、儒家的紳士とは言えない存在であった。
このように、儒家正統のイデオロギーが統治原理としての主役の座を降りることで、政策決定過程も説得から強制という形が支配的となっていった。(16)

袁世凱帝政崩壊の要因

袁世凱の帝政が短命に終わった理由の一つとして、このあたりの儒教イデオロギーの統治原理としての地位喪失及び地方権力の科挙官僚から軍人への移行があったのではないだろうか。袁世凱自身は科挙出身者でない漢人の軍人として位人臣を極め、地方の支配権を自ら派遣した軍人に委ねて中華を統一的に支配しようとしたが、この過程で「中華帝国大一統」の基盤を掘り崩していたことに気づかず、武力と権力のみを後ろ盾に帝位を狙い、脆くも短期的な王朝として崩壊の憂き目を観た、と言えるのではないだろうか。

尚、本件でも取り扱っている中華大一統の要件については、以下のリンクでも取り上げています。
中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p276
(2)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p276
(3)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p278
(4)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p279
(5)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p279-p280
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(7)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p280
(8)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p291
(9)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(10)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(11)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(12)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p293
(13)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第四章 特異な修復メカニズム p112
(14)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p295
(15)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p295
(16)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p296