皇帝

米中冷戦の渦中に独裁を目指す習近平は武帝時代の董仲舒のような天才イデオローグの力で中華の価値のグローバルスタンダード化を狙う!

習近平は中華の価値を世界標準のスタンダードと置き換えたがっているように観えるが、果たして董仲舒のように中華の価値の体系化総合化に成功し普遍的な世界観を提起出来るのであろうか?

1.近代化の圧力に晒される大清帝国
1)日中関係の文化的形勢逆転の衝撃
2)清朝への日本の近代的立憲君主制の影響
3)中華伝統の天命思想の放棄=君権に対する憲法の優位の明記
2.天命を喪失した皇帝と中華帝国の末路
1)皇帝が天命を喪失した直後に発生した辛亥革命
2)皇帝権の世俗化完了の意義と中国統治体制の選択肢拡大
3)辛亥革命の成功の要因
3.「天命思想」「天下主義」を喪失した近代中国のアイデンティティ確立の行方
1)毛沢東、鄧小平亡き後の状況
2)新時代の董仲舒出現への期待

西太后

1.近代化の圧力に晒される大清帝国

1)日中関係の文化的形勢逆転の衝撃

日清戦争
近代に入って西欧列強のアジアへの進出が進行する中で、安定した統治を誇ってきた中華帝国も西欧列強の圧力にさらされ始めた。
そうした中で、日中の関係は、日本の明治維新の成功により、文化的な形勢が逆転しはじめ、中華帝国にとって、日本と言う、半ば格下の弟子のような存在と位置づけてきた小国に日清戦争により敗退したことは、歴史的な衝撃波となって、何らかの変革の必要性に迫られることとなった。
特に日本の明治天皇が天命思想とは無縁の近代的立憲君主制の下で国家を統治し、遂に列強の一角である大国ロシアとの大戦争に勝利して、国家的な基盤をより強化するに至った。

2)清朝への日本の近代的立憲君主制の影響

大日本帝国憲法
この段階において、清朝としては、天命思想を欠いた日本の近代立憲君主制に習うことを選択せざるを得ない状況に陥っていた、と言えるであろう。
この間の動きを主たる年号で追うと、以下のようになる。
・1901年に義和団事件の講和として辛丑条約が成立したが、これにより、亡国的な状況への危機感が一層強まった。
・1906年に戴沢が訪日して伊藤博文と面会し、官制改革や憲政施行に向けた動きを準備した。
・1908年に憲法大綱、上事論が公布され、君上大権や臣民の権利義務が規定された。この内容は、大日本帝国憲法を踏襲しており、特に「君上大権」の条文は、ほとんど帝国憲法第一章「天皇」の内容が、そのまま採用されている状況であった。(1)
この時、清朝は日本の大日本帝国憲法をほぼ踏襲する形で、中華帝国皇帝の位置付けを憲法上に規定することで、遂に始皇帝以来の統治体制を放棄し、天命思想を捨て去り、皇帝は聖なる存在としての天子の地位を喪失し、「地上の統治者たる皇帝」にその地位と立場を限定する存在となったのである。

3)中華伝統の天命思想の放棄=君権に対する憲法の優位の明記

欽定憲法大綱
この憲法は、立憲主義による君権強化を目指しており、皇帝の権力と権威を立憲政治で回復することが目指されていたが、立憲主義は君権に対する憲法の優位を明記しており、ここに皇帝の権威の大転換、天との関係の断絶、天子としての存在意義の喪失が明らかになった。君権が天の超越性の支えを失い「ネーション化」したことで帝国の権威を象徴する皇帝の政治的身体が国民共同体の象徴に横滑りしたものであり、中華伝統の天命思想が非常に静かな形ではあるが明確に、1908年の時点で放棄されたと言えよう。(2)

2.天命を喪失した皇帝と中華帝国の末路

1)皇帝が天命を喪失した直後に発生した辛亥革命

辛亥革命

天命を喪失した皇帝は、立憲主義の建前の下に皇帝としての権力と権威を失地回復しようとしていたが、天との関係の断絶、天子としての存在意義の喪失ということの意味は、中華帝国の存続にも影響を与えるような静かなインパクトを有していたと言えよう。こののち、形式上の中華帝国は1911年の辛亥革命による清朝の崩壊で、一旦その幕を閉じることとなるのである。
この後、1911年の武昌起義の直後に立憲確約の「重要信条」が出され君権と憲法との関係が明示された。これにより皇帝の権限は憲法に規定する内容に限定されることが確定し、君権の憲法による制約が一層明確化し、皇帝機関説とでもいうべき法体系が現出した。このような天の原理的超越性の衰弱や喪失でネーション化した君権は、この直後に辛亥革命で倒壊し中華民国が成立することとなった。(3)

2)皇帝権の世俗化完了の意義と中国統治体制の選択肢拡大

蒋介石,毛沢東
確かにこのような皇帝の権威の由来の天との断絶や皇帝の権限や君権の基礎が憲法にあることが、明確化してしまうと中華帝国の最高権力者が皇帝である必要はなくなり、憲法の規定する何らかの地位を持った存在が皇帝に取って代わりうることが明確に示される形勢となっていったと言えようか。そういう意味でも、1908年の皇帝権力の世俗化の影響は、中華帝国の世俗化、統治体制の選択肢の拡大を図らずも準備していたと言うことになるのではないだろうか。

3)辛亥革命の成功の要因

孫文,三民主義
こうしてみると辛亥革命成功の基礎的要因の一つに君権、皇帝権の源泉が天から憲法に世俗化、ネーション化を完了していたことが挙げられることになるだろう。これは謂わば、天命思想、天下主義の国民主義化が、清朝の側からも準備されていたことを表すとも言えよう。(4)
このように誰でも、「憲法上の規定により、国家を統治出来ると言う新たな原則を示し、天命思想の放棄や皇帝権力の世俗化を宣言した」ことのインパクトは、中華帝国の近代化にとって非常に大きな意義を持つ、始皇帝の中華大一統達成にも匹敵する画期的な出来事であったと言えようか。

3.「天命思想」「天下主義」を喪失した近代中国のアイデンティティ確立の行方

1)毛沢東、鄧小平亡き後の状況

習近平

いずれにせよ、政治・文化において辛亥革命前後において「天命思想」「天下主義」と言った「聖なる中心」を近代中国が喪失した中で、「冷戦解体後」に孤高の共産主義国家としての立場を保ちつつも、真に安定した国民的アイデンティティの所在ははっきりしているようには観えない。毛沢東の権威や歴史的存在は大きかったが、その後の中国で毛沢東に比肩しうる権威を誇った鄧小平亡き後、中国はかつてのような確固とした「天命思想」や「天下主義」のような規範・信条を欠くなかで、どのように国家の安定を図っていくのであろうか。(5)
天命思想や天下主義を、その支配の根幹として、確立していた中華帝国であったが、天命思想を放棄し、天下主義が列強の圧迫の下で相対化してしまった今日、中華のアイデンティティがどこにあるのかは、明確になっていない。このことは、亡国に直結しかねない混乱状況や国家建設の要請の下で、容易に自らを省みる余裕の無かった毛沢東時代や鄧小平時代であれば、人々の胸に去来することも少なかったであろうが、習近平時代の今日においては、容易に中華世界を混乱させかねない要因として、燻っているのではなかろうか。

2)新時代の董仲舒出現への期待

董仲舒2
儒教が中華の中核となるイデオロギーとして復活するためには董仲舒(天人合一を政治理論化し、儒教独尊=国教化を確立)のような新たな大成者の出現が必要であろう。(6)
中華の中核としてのイデオロギーの確立は急務であると言えるが、その可能性の一端を担う儒教にしても、現状のままではまだまだ厳しいものがあり、習近平の目指す中華価値の世界標準化をモノとカネの世界だけでなく真に実現するためには、かつての武帝時代の董仲舒並みの現代中国にもマッチした思想体系の総合化を行える理論家の出現が待たれるところである。

尚、本稿の中心課題である中華帝国の成立ちや原理に関しては、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。
中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p123-p124
(2)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p124-p125
(3)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p125
(4)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p125
(5)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p131
(6)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p131

トランプ大統領が非常事態宣言を出しても死守したいメキシコ国境管理のモデルは雍正帝による万里の長城を活用した異民族政策にある!

トランプ大統領

世界最強の超大国の指導者であるトランプ大統領がその実現に苦労しているメキシコ国境での万里の長城による国境管理が、非常に洗練されたスマートな形で清時代に中国では完成した状態で運用されていたことを紹介しています!

1.清朝時代の一国両制の要である藩部統治のあり方
1)モンゴル騎馬軍団の軍事力を確保するための藩部体制の確立
2)支配下の諸民族への懐柔策としての「藩部」体制
3)現地有力者を活用した間接統治を基調とした藩部支配
4)大清帝国の帝国性維持の基盤
2.中国内地と藩部地域との隔離政策の堅持とヒスパニック流入阻止を目指すトランプ大統領
1)大清帝国内部の境界としての万里長城の活用とメキシコ国境を正常化したいトランプ大統領
2)大清帝国の切り札としてのモンゴル騎馬軍団の実力温存策

1.清朝時代の一国両制の要である藩部統治のあり方

清朝は、地域の実情に合わせてきめ細かく統治の有り様を変化させ、効果的な支配を貫徹しようと試みた。「藩部」とはいってもひとくくりには収まりきらない様々な統治形態が採用されていたことが、その証左となるだろう。

1)モンゴル騎馬軍団の軍事力を確保するための藩部体制の確立

藩部要覧
清朝はその生命線である「中国内地の漢族農耕社会の経済力」を直接に掌握しつつ、中国内地を牽制しコントロールするための「モンゴル騎馬軍団の軍事力」を確保すると言う最重要課題を実現した。こうした「拡大された中華帝国」の統治政策の一環として「モンゴル騎馬軍団の軍事力」を継続的に確保するための「藩部」地域への征服活動とその安定した統治の貫徹が至上命題としてクローズアップされたと言えよう。これらの「藩部」地域への統治政策は、「中華」世界としての中国内地に対する科挙官僚による郡県制を基調とする直轄統治とは異なる「間接統治」方式を採用したが、その主眼としては「藩部の清朝配下での実効支配の貫徹」「藩部地域の政治的パワーの体制内での温存と分散」(1)を基調としており、多民族国家としての「現代中国」の淵源をなし、「想定外の事態としての西洋の衝撃」で動揺するまでの安定した中華領域支配を貫徹する有効な政策であったと言えよう。

2)支配下の諸民族への懐柔策としての「藩部」体制

乾隆帝
清朝の「藩部」体制は、ある意味では新たに支配下に加えた諸民族に対する「懐柔策」としての要素も濃厚であった。またその「懐柔策」は、ただ単に「藩部」に対してのみ採用されたとは言えないであろう。中国内地に対する統治も「新たに征服した漢民族」に対する「懐柔策」であったとも観ることが出来よう。
清朝の「中華」懐柔策としては、「中国」に都を構え、皇帝制度、宮廷制度、元号制度、学校・科挙制度、正史、暦などの一連の中国の伝統的政治文化制度を採用し、漢族儒学者を重用して中国の伝統的な中央集権制を実施した(2)ことが挙げられよう。一見「伝統的中華帝国」の後継者然としている清朝であったが、これらの施策は単に「郷に入りては郷に従え」と言うローマ帝国的な方針を実行しただけで「漢族に対しては漢族に相応しい態度で接する」基本方針を貫いただけであったのかもしれない。

3)現地有力者を活用した間接統治を基調とした藩部支配

ヌルハチ
「藩部体制」にもその基本方針として「伝統の継承を認め、慣習を変えない」と言う原則が有り、「現地民族社会の文化や伝統」を維持させることを基調としており、現地 民族集団の有力者を有効に活用して「間接統治」の実をあげ、「伝統社会」や「政治構造」に干渉することを慎重に避けることに特徴が有った。このような行き方の結実として、モンゴルにおいては清朝皇族とモンゴル王公との政略結婚が制度的に行われモンゴルの部族首領がそのまま行政の首長に横滑りする「ジャサク制」が敷かれ、チベットにおいてはダライ・ラマを頂点とする「政教一致」が採用され、新疆においては地元回族の有力者を首長とする「ベク制」が行われたが、これらの施策は「清朝支配下」の諸民族への「懐柔策」としての色彩の濃いものであった。(3)

4)大清帝国の帝国性維持の基盤


清朝当局者の考え方としては、清朝皇帝の下で平和と安定が維持出来るならば、支配下の諸民族はこれまでの「伝統社会」や「政治構造」をそのまま維持して暮らしていくことを許容すると言うものであり、これは中華エリアも含めた「清朝の天下」において長期的な安定した統治を確保した基盤を形成する考え方であったろう。諸民族としては、これまでと同様の生活が清朝皇帝の権威と強力な軍事力で保証されるのであれば、敢えて否定する理由を見出し得ないところであったろう。

2.中国内地と藩部地域との隔離政策の堅持とヒスパニック流入阻止を目指すトランプ大統領

1)大清帝国内部の境界としての万里長城の活用とメキシコ国境を正常化したいトランプ大統領

避暑山荘
「藩部体制」による統治のもう一つの側面として、中国内地と「藩部」地域との文化的交流や商業的な繋がりが制限されたことがあげられよう。藩部の各民族が中華の儒家正統を中心とした文化を学ぶことは禁止され、漢族商人の「藩部」での商業活動は許可制となって厳しく制限されることとなった。「藩部」に関する事務は中央政府の六部と同等の地位を占める「理藩院」で行われたが、「理藩院」の尚書・侍郎は満洲族のみが任命される制度となった(モンゴル族には副大臣級のポストが一つ提供された)。また「モンゴル律例」「欽定回彊則例」「欽定理藩院則例」などの藩部を対象とする特別な法律が制定され、万里長城の外にある熱河が事実上藩部の首都として整備された。(4)

メキシコ国境2

このように清朝極盛期においては、万里の長城の内と外を清朝皇帝が完全に掌握していたので、中国内地と藩部地域との人的交流や商業的な連関、文化的な接触を自由にコントロールすることが可能であったが、翻って現代のアメリカの特に南部国境地域の管理体制はどうであろうか。
少なくともアメリカはアメリカ本国側の管理権を掌握していることは間違いないところであるが、主権の及ばないメキシコ側のコントロールは実際問題不可能であるし、メキシコ側も内政干渉ということでEUのように絶対にアメリカの介入は許さないところではあるだろう。
今回のトランプ大統領のメキシコ国境の壁建設問題に関する発言に対しても、大統領から庶民までメキシコ側の反発は非常に大きいものが感じられる。
また国境を隔ててアメリカ側とメキシコ側で経済的な豊かさや成功可能性という点において、文明圏を隔てるレベルの落差が存在することは間違いないところであろう。
そういう意味では、真剣に南部国境の出入国管理を徹底するためには、まずは国境に現時点で言えば38度線並みの緊張感のある万里の長城を建設して水際で移民の流入を防ぐことが先決であり、その先にメキシコへの必要に応じた経済支援等も含めたタフな二国間交渉を行って、1100万人の不法移民問題も含めて解決の道筋をつけていくしかない、との方向感をトランプ大統領が抱いている、ということにもなろうか。

そのように考えれば、清朝極盛期と現代アメリカでどちらが、自らの版図及びその周辺に実質的なコントロールが出来ているのかを比較すると、意外にも現代アメリカの方が打てる策が少ない、という要素もあるのかもしれない。
そういう意味では、トランプ大統領の「Make America Great Again」の真の目標は、1950年代のアメリカというよりも、直近の歴史的な超大国の中では清朝極盛期の「Great China」の方がイメージに近いような気もする今日この頃である。

2)大清帝国の切り札としてのモンゴル騎馬軍団の実力温存策

アヘン戦争
このような「藩部」地域の「漢化」抑制策及び「中国内地」からの分離政策は、「満洲族」と緊密に連帯する主として騎馬民族集団からなる「藩部」の軍事力を温存することで、「中国内地」を包囲・牽制して「満洲族」を中心とする清朝の支配体制をより一層強固なものとすることにあった、と言える。
こうして清朝は、中国内地を「伝統的な中華帝国大一統」の枠組みで統治しつつ、それを包囲する形で理藩院・藩部体制を構築して「モンゴル族を中心とする騎馬民族集団」を清朝の配下に取り込み、その実力を温存することで永続的な「拡大された中華天下」の支配を貫徹しようとしたのである。
そしてこのような体制は、万里長城が軍事的意味を喪失したようにほぼ想定通りに成功し、乾隆帝の極盛期の後、白蓮教徒の乱で動揺しながらも「乾嘉の文運」を謳われた嘉慶帝の時代を経て、道光帝時代のアヘン戦争に至るのである。

清朝初期にこのような「モンゴル騎馬軍団を活用して漢族を中心とする諸民族を従えることを帝国統治の根幹と成す」と言う大清帝国のグランドデザインが完成されていたとも言えるが、このシナリオには西洋の衝撃と言う要素が抜け落ちていたために、アヘン戦争以降に清朝の支配体制は混迷を極めることとなったと言えよう。
逆に言えば、清朝初期に東アジアをベースにして大清帝国のグランドデザインを構想した同じ顔ぶれが、西洋の脅威も視野に入れた全地球規模のグランドデザインを構築出来ていれば、東西の勢力均衡における西洋の圧倒的な優位の実現にも影響があったかも知れない。

尚、本稿で取り上げた清朝の中華帝国統治方針の戦略性については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服は戦略的な帝国統治政策のモデルケースである!

参考文献
(1)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第四章 最大版図の形成 p202
(2)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第2章 漢民族国家と言う幻想 p35
(3)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第2章 漢民族国家と言う幻想 p35
(4)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第2章 漢民族国家と言う幻想 p36

中国の近代化は辛亥革命ではなく中華天下の再編時点の清帝国の世俗化,皇帝の天命喪失に由来する!!

清朝末期に天命思想、天下主義を基調とする大清帝国の枠組みが解体され、中国が近代的で世俗的な帝国に衣替えされ、国民党,共産党の一党独裁体制の準備が完了していた状況を検証する。 

1.近代以前の中華帝国の枠組み
 1)帝国の権威の源泉とは何か?
 2)「天」の代理人としての皇帝の存在意義
 3)「天の代理人」たる皇帝と人民の関係
2.中華帝国における皇帝と天子の区別
 1)皇帝と天子の使い分け
 2)天命を請けながら皇帝になれなかった「素王」としての孔子の存在
 3)「天命」を請けた皇帝の君主親政の原則の確立
3.易姓革命の論理と天意=人民の意思の政治への反映
 1)中国の暴力革命による王朝交代の伝統
 2)人民の反乱を恐れる絶対権力者=皇帝の不安
 3)孟子の放伐論による易姓革命の正統化
 4)皇帝の絶対権力の横暴を抑制する思想

1.近代以前の中華帝国の枠組み

1)帝国の権威の源泉とは何か?

天壇

中華皇帝の権威の源泉は、「天」であり、政治社会の存立の根拠や地上の王である皇帝の権威も「天」に由来していた。「天子」とは天の子であり天下の中心に位置し、徳行で天の自然な運航、万民の生存と安全への責任を委ねられた至高の存在であった。また皇帝は、天と地、及び人間界を結ぶものであり、地上における具体的な君主権力の象徴的な側面を表していた。(1)
このように皇帝は、「天」の権力の代行者で象徴であり、封建諸侯全てに承認された天の崇拝における至高の儀式が可能なのは天子のみであって、一なる天に対応する至高の君主として必要不可欠の存在であった。(2)

2)「天」の代理人としての皇帝の存在意義

孟子
すなわち、中華帝国におけるあらゆる権威は、「天」に由来し、地上における最高権力者としての「皇帝」の権威も当然ながら「天」に依存していた。「天」の子たる「天子」は、地上における「天」の代理人たる「皇帝」のみが、その立場を誇示することが可能な排他的で、独尊的な地位として取り扱われた。また皇帝は、「天」の「子」としての立場により、至高の存在である「天」と「地」及び「人間界」を結び付けることが要請される、まさに天の代理人としての立場を有していた。
こうした中で皇帝は、荘厳な儀式の執行者として、天空と大地との不可欠な均衡を実現し、天の暴発を抑えることが期待された。この時、もし遺漏ある不正な儀式を執り行えば天が暴発を引き起こすことが予想された。「天の暴発」とは、地上的には王朝交替の革命に他ならない。これは、不徳の天子が退き「天」の「命」が「革め」られることをあらわしていた。(3)

3)「天の代理人」たる皇帝と人民の関係

始皇帝
天空と大地との均衡と言う中に、人民大衆を慰撫することも含まれていると考えるべきであろうか。
確かに「遺漏ある不正な儀式」の地上版とも言うべき「皇帝とその政府の失政」により民が暴発し、王朝交代が起こることは中国では、周期的に発生する事態であったと言えよう。
中国では、秦の始皇帝の中国統一で「封建制」が否定され、郡県制が開始された、この時排他的で独尊の皇帝位が確立した。これは皇帝を中心とした中央集権的官僚機構を通じての人民の直接統治の開始である。一君万民の建前であり、皇帝の絶対権力が皇帝による「天に対する儀礼」で明確化され、天を祭ることは、天子たる皇帝の特権となり、庶民が勝手に天を祭ることは出来なくなった。国内秩序としては、天・皇帝(天子)・人民という構図となり、外国に関しては朝貢国への冊封、臣従が強調された。(4)
そういう意味でも始皇帝の中華大一統の業績は巨大であり、始皇帝により天下思想や統治形態、天子と民との関係と言った基本的な中華帝国の枠組みが確立されたと言っても良いであろう。

2.中華帝国における皇帝と天子の区別

1)皇帝と天子の使い分け

徽宗皇帝

皇帝、天子は中華帝国の最高権力者であるが、名称の取扱いには細かな区別が有った。天子とは受命者の称号であり、天地の神々に自称する場合は祖霊や上帝により認証されることが必要であった。上下方向の祭祀では「天子」を使い、「天」の権威の代行者、表象者が「天子」とされた。また皇帝とは統治者の称号であり、帝国内部の行政や祖先、過去の人物への祭司に関連した名称であって、人間界の祭祀では「皇帝」が使われ、「天命」をうけて世俗世界に君臨する統治者が皇帝とされた。(5)
中華帝国の皇帝は、天下思想に関わる事柄においては、天子と言う名称を使い、民を支配する帝国の具体的な統治者としての顔を現わす時には、皇帝と言う名称を使った。そういう意味で、宗教的な聖なる領域においては、天子として振る舞い、俗界で統治者として振舞う時には皇帝を名乗ると言う二元論的な存在が、中華帝国における皇帝の在り方であった。西欧における皇帝と教皇の並立や日本における天皇と将軍の並立のような二重統治体制は、中華帝国では発生しなかったのである。

2)天命を請けながら皇帝になれなかった「素王」としての孔子の存在

孔子
このように皇帝と天子とは、メダルの表裏であり、分裂することはなく、独裁君主の抽象的身体の別様の表現として一体化していた。
こうした天命・天下観の中で孔子は例外的な特殊な存在であった。儒教では孔子は天命を受けていて天子の資格を認証されてはいたが、結局皇帝の地位は得なかった「素王」と称されている。これは孔子の存在を慎重に取り扱うことで、皇帝権力、権威の絶対性が脅かされないようにすることが重要視されていたことを意味する。こうして孔子は「至聖先師」としてあり、皇帝の権威とは切り離されることでの現在の皇帝の絶対性は維持された。(6)
神格化された過去の人である孔子が、中華帝国皇帝であり、天子たる存在から、具体的なライバルあるいは権威を競うべき相手として取り扱われていることは興味深いが、これは孔子の取り扱いにことさら注意深くならなければならないほど、天子・皇帝の地位が微妙なバランスの上に乗っていたことの証左でもあるだろう。皇帝は常に天以外の何者によっても、その地位や権威を脅かされてはならないのであり、それは儒教の最高権威である孔子の存在すらも、皇帝からはその地位を不安定化させかねない微妙な要素になりうると考えられていたのである。

3)「天命」を請けた皇帝の君主親政の原則の確立

殿試
「天命」を失った皇帝は位を失うとされ、君主親政の原則が取られ、宋代以降は権力の絶対化が進んだ。このため、立憲君主のような君臨すれども統治せず、のような行き方は到底あり得なくなった。
郊祀として、皇帝・天子が有徳の受命者であることを誇示し、権力と権威を一身に体現する聖界俗界の支配者であるという位置付けが強調された。(7)
ここに皇帝は、力と権威の両者を高い次元で併せ持つ至高の存在としての立場を確立し、地上における絶対者の立場を益々固めることとなった。西欧や日本では、皇帝・教皇・天皇の地位や権力は、概ね形骸化し、権威のみを保持する空洞的な存在として祭り上げられることとなったが、逆に中華帝国では時代が下るに従って権力を一身に集中し、明清時代の最終盤に至るまで、皇帝は王朝の唯一で神聖不可侵の実権を維持し続けたのである。

3.易姓革命の論理と天意=人民の意思の政治への反映

1)中国の暴力革命による王朝交代の伝統

宋太宗
中国の王朝交代劇は、暴力革命が大半であり、禅譲も形骸的な印象が強い。中国の皇帝は王朝の終焉を予感しつつ、天意の反映である人事を恐れる存在であった。(8)
日本の統治体制は、天命の革まることの無い、万世一系を建前とする天皇家の皇統をベースとしているが、中国においては宗の太宗・趙匡義は、日本の天皇家のそうした安定性を聴いて、「思わず嘆息」したと伝わっている。このように地上における絶対権力者として並びない権勢を誇る中華帝国皇帝も、いずれ発生する暴力革命の嵐の前では、か弱くはかない永続性に欠けた存在であることを自覚せざるを得なかったのであった。

2)人民の反乱を恐れる絶対権力者=皇帝の不安

明末混乱
中国の天命思想としては、天意とは実は最下層の人民の意思であり、天子が天下に君臨する根拠は実は神ではなく人民の支持にあると言える状況があった。これは権威の還流構造とも言うべきものであり、近代欧州の絶対主義・王権神授説との明確な相違点であった。(9)
このように、絶対権力者である皇帝は、常に民の反乱を恐れざるを得ない存在であり、天意とは実のところ民の意志である、と言う認識が皇帝の心に常に去来していたことは想像に難くない。このあたりの考え方は、西欧が王権神授説の立場をとり、絶対王権の権威の由来を民ではなく、神に基礎を置いたのとは明確に一線を画するところであると言えよう。

3)孟子の放伐論による易姓革命の正統化

孟子,放伐
こうした中で、中国の王朝交替としての易姓革命は、理論的にも正統化されており、孟子の放伐論に無道の君主は賊に等しい存在であり、そのような存在は討伐されて当然であるという民本主義の観念が有った。(10)
そして、皇帝のこのような懸念は、孟子の放伐論により、理論的な根拠を与えられ、西欧の民主主義とは異なるものの、民の意向を常に配慮し、恐れさせるようなあり方を中華帝国を統治する側に植え付けることになったのである。
このように中華においては、最高至上の天は、実は人と合一であり(天人合一)天意は民意・人心であるという思想が有り、これが天命的秩序観の水脈に息づいており、歴代の皇帝権力の正統性を確保するとともに、暴力革命や王朝交替の正統化する論理も提供してきた。(11)

4)皇帝の絶対権力の横暴を抑制する思想

董仲舒
このような天意=民意とし、天人合一を建前とする思想が、中華帝国における統治体制の底流に存在したことは間違いないことであり、このことが皇帝を始めとする統治者の側に一定の緊張感を強いるとともに、極端に無茶な暴政を斥ける契機になっていたことは疑いないことだろう。
中国皇帝の在り方としては、過度の支配が民生を疲弊させるとして、小さな政府を理想とする立場が強調されることもあり、黄老思想のように皇帝がゼロ=虚静となる、無用の用、虚静無為と言った作為に通底する政治的不作為が強調されることもあったが、最終的には董仲舒により「徹底した人為・作為で天下を一元的に支配するのが天理の自然であり、天人合一・天経地義の不動の真理である」と言う立場に落ち着いた。これは人間の中に性として内在する道徳的自然性は「作為」を通じて最もよく発揮される、と言う積極的な人間肯定にも通じる哲学であった。(12)

参考文献
(1)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p113
(2)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p113
(3)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p114
(4)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p114-p116
(5)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p117
(6)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p118
(7)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p118-p119
(8)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p119-p120
(9)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p120
(10)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p120-p121
(11)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p121
(12)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p129