⭕️清朝極盛期の万里の長城とトランプのメキシコ国境壁建設の比較!

2023年6月12日

清朝極盛期の万里の長城と現代の超大国であるアメリカのメキシコ国境壁建設の比較という観点から、本来国家存立の基盤として当然なされるべき国境管理に苦労する、世界最強の超大国が取り組もうとしている、メキシコ国境での国境管理に類似した状況を、極めて洗練されたスマートな形で完璧に成功させた、中国、清朝極盛期の万里の長城による異民族管理政策を検証していきます。

清朝時代の一国両制の要としては、藩部統治というのがあり、その手法において清朝は、地域の実情に合わせてきめ細かく統治の有り様を変化させ、効果的な支配を貫徹しようと試みました。
「藩部」とはいっても、ひとくくりには収まりきらない様々な統治形態が採用されていたことが、その証左となるでしょう。

・・・

清朝の支配体制の根幹となる藩部体制の確立

清朝はその生命線である「中国内地の漢族農耕社会の経済力」を直接に掌握しつつ、中国内地を牽制しコントロールするための「モンゴル騎馬軍団の軍事力」を確保する、と言う最重要課題を実現しました。
そして、次の課題としては、こうした「拡大された中華帝国」の統治政策の一環として、「モンゴル騎馬軍団の軍事力」を継続的に確保するための「藩部」地域への征服活動と、その安定した統治の貫徹が至上命題としてクローズアップされることになりました。

・・・

これらの「藩部」地域への統治政策は、「中華」世界としての中国内地に対する科挙官僚による郡県制を基調とする直轄統治とは異なる、「間接統治」方式を採用しましたが、その主眼としては「藩部の清朝配下での実効支配の貫徹」「藩部地域の政治的パワーの体制内での温存と分散」を基調としていました。
このような統治方式は、多民族国家としての「現代中国」の淵源をなしており、「想定外の事態としての西洋の衝撃」で動揺するまでの、安定した中華領域支配を貫徹する有効な政策であったと言えるでしょう。

・・・

支配下の諸民族への懐柔策としての「藩部」体制

清朝の「藩部」体制は、ある意味では新たに支配下に加えた諸民族に対する「懐柔策」としての要素も濃厚でした。
またその「懐柔策」は、ただ単に「藩部」に対してのみ採用された、とは言えないところもありました。

・・・

すなわち、中国内地に対する統治そのものも、「新たに征服した漢民族」に対する「懐柔策」であった、とも観ることが出来たのです。
清朝の「中華」懐柔策としては、「中国」に都を構え、皇帝制度、宮廷制度、元号制度、学校・科挙制度、正史、暦などの、一連の中国の伝統的政治文化制度を採用し、漢族儒学者を重用して、中国の伝統的な中央集権制を実施したことが挙げられます。
このようにしてみると、一見「伝統的中華帝国」の後継者のようのも見える清朝でしたが、これらの施策は単に「郷に入りては郷に従え」と言う、ローマ帝国的な方針を実行しただけで、「漢族に対しては漢族に相応しい態度で接する」という基本方針を貫いただけだったかも知れないのです。

現行支配体制を温存した間接統治を基調とする藩部支配

「藩部体制」にも、その基本方針として「伝統の継承を認め、慣習を変えない」と言う原則が有り、「現地民族社会の文化や伝統」を維持させることを基調としており、現地 民族集団の有力者を有効に活用して「間接統治」の実をあげ、「伝統社会」や「政治構造」に干渉することを慎重に避けることに特徴が有りました。
このような行き方の結実として、モンゴルにおいては、清朝皇族とモンゴル王公との政略結婚が制度的に行われ、モンゴルの部族首領がそのまま行政の首長に横滑りする「ジャサク制」が敷かれ、チベットにおいてはダライ・ラマを頂点とする「政教一致」が採用され、新疆においては地元回族の有力者を首長とする「ベク制」が行われましたが、これらの施策は「清朝支配下」の諸民族への「懐柔策」としての色彩が濃いものであった、と言えます。

大清帝国の帝国性維持の基盤

清朝当局者の考え方としては、清朝皇帝の下で平和と安定が維持出来るならば、支配下の諸民族はこれまでの「伝統社会」や「政治構造」をそのまま維持して暮らしていくことを許容する、と言うものであり、これは中華エリアも含めた「清朝の天下」において、長期的な安定した統治を確保した基盤を形成する考え方であった、ということになります。
清朝支配下の諸民族としては、これまでと同様の生活が清朝皇帝の権威と強力な軍事力で保証されるのであれば、敢えてそれを否定する理由を見出し得ないところだったでしょう。

・・・

大清帝国内部の文明圏の境界としての万里長城の活用

「藩部体制」による統治のもう一つの側面として、中国内地と「藩部」地域との文化的交流や商業的な繋がりが制限されたことがあげられます。

藩部の各民族が中華の儒家正統を中心とした文化を学ぶことは禁止され、漢族商人の「藩部」での商業活動は許可制となって厳しく制限されることとなりました。

・・・

「藩部」に関する事務は中央政府の六部と同等の地位を占める「理藩院」で行われましたが、「理藩院」の尚書・侍郎は満洲族のみが任命される制度となっていました。
ちなみに、モンゴル族には副大臣級のポストが一つ提供されていた、ということです。
また「モンゴル律例」「欽定回彊則例」「欽定理藩院則例」などの藩部を対象とする特別な法律が制定され、万里長城の外にある熱河が事実上藩部の首都として整備されました。

このように清朝極盛期においては、万里の長城の内と外を清朝皇帝が完全に掌握していたので、中国内地と藩部地域との人的交流や商業的な連関、文化的な接触を自由にコントロールすることが可能でした。

・・・

メキシコ国境を正常化したいトランプ主義者

翻って現代のアメリカの特に南部国境地域の管理体制はどうなっているでしょうか?
少なくともアメリカはアメリカ本国側の管理権を掌握していることは間違いないところでしょうが、主権の及ばないメキシコ側のコントロールは実際問題不可能であるし、メキシコ側も内政干渉ということで絶対にアメリカの介入は許さないところでしょう。
そういう中で、トランプ主義者はバイデン政権発足前までメキシコ国境の壁建設を推進していましたが、この時でも大統領から庶民までメキシコ側の反発は非常に大きいものが感じられました。

ともかくアメリカの南部国境に関しては、国境を隔ててアメリカ側とメキシコ側で経済的な豊かさや成功可能性という点において、文明圏を隔てるレベルの落差が存在することは間違いないところでしょう。

・・・

そういう意味では、真剣に南部国境の出入国管理を徹底するためには、まずは国境に現時点で言えば38度線並みの緊張感のある、万里の長城を建設して水際で移民の流入を防ぐことが先決であり、その先にメキシコへの必要に応じた経済支援等も含めたタフな二国間交渉を行って、1100万人規模と言われる不法移民問題も含めて、解決の道筋をつけていくしかない、という状況はバイデン政権になってもあまり変化していないのでは無いでしょうか。

そのように考えれば、清朝極盛期と現代アメリカでどちらが、自らの版図及びその周辺との関係性について、実質的なコントロールが出来ているのかを比較すると、意外にも清朝極盛期の方が現代アメリカよりうまくやっている、という要素もあるのかもしれません。
そういう意味では、トランプ主義者のスローガンである「Make America Great Again」の真の目標は、1950年代のアメリカというよりも、直近の歴史的な超大国の中では清朝極盛期の「Great China」の方がイメージに近いような気もしないでもないところです。

・・・

大清帝国支配体制のグランドデザインと西洋の衝撃

ところで、清朝極盛期の「藩部」地域の「漢化」抑制策及び「中国内地」からの分離政策は、「満洲族」と緊密に連帯する主として騎馬民族集団からなる、「藩部」の軍事力を温存することで、「中国内地」を包囲・牽制して、「満洲族」を中心とする清朝の支配体制をより一層強固なものとすることにあった、と言えるでしょう。
こうして清朝は、中国内地を「伝統的な中華帝国大一統」の枠組みで統治しつつ、それを包囲する形で理藩院・藩部体制を構築して、「モンゴル族を中心とする騎馬民族集団」を清朝の配下に取り込み、その実力を温存することで、永続的な「拡大された中華天下」の支配を貫徹しようとした、ということになります。
そしてこのような体制は、万里長城が軍事的意味を喪失したように、ほぼ想定通りに成功し、乾隆帝の極盛期の後、白蓮教徒の乱で動揺しながらも、「乾嘉の文運」を謳われた嘉慶帝の時代を経て、道光帝時代の「想定外の西洋の衝撃」としてのアヘン戦争に至る、ということになりました。

・・・

清朝初期に、このような「モンゴル騎馬軍団を活用して、漢族を中心とする諸民族を従えることを帝国統治の根幹と成す」と言う、大清帝国のグランドデザインが完成されていたとも言えそうですが、このシナリオには西洋の衝撃と言う要素が抜け落ちていたために、アヘン戦争以降に清朝の支配体制は混迷を極めることになりました。
逆に言えば、清朝初期に東アジアをベースにして大清帝国の盤石の支配体制のグランドデザインを構想した同じ顔ぶれが、西洋の脅威も視野に入れた全地球規模のグランドデザインを構築出来ていれば、東西の勢力均衡における西洋の圧倒的な優位の実現にも、大きな影響があったかも知れません。