仏教

現代に通じる魏晋南北朝期の中国の混乱要因と北魏による中華大一統再現策の効果の分析!

sangokushi-japan

秦以来の中華領域における国家の特徴は、基本的に「大一統」を実現しているか、少なくとも「大一統」を目指すことを志向しているか、であり「秦」「漢」「隋」「唐」「宋」「元」「明」「清」がそれに該当するだろう。しかるに、この「中華帝国大一統」の伝統には、一つの明確な例外的時代が存在する。それは、魏晋南北朝時代であるが、本項ではこの「中華帝国大一統の例外」の時代を分析することで、「中華帝国大一統」のメカニズムに迫っていきたいと考えている。

1.政治制度・土地制度から観た魏晋南北朝時代の特徴
1)支配エリートの貴族化傾向の増大
2)地主経済から領主経済への移行現象の進行
3)西晋崩壊後の中国の状況
2.魏晋南北朝時代の中国に蔓延する政治・経済・イデオロギー構造
1)魏晋南北朝時代に特有の準安定構造
2)魏晋南北朝時代の準安定構造とヨーロッパや日本の封建社会構造の類似性
3.魏晋南北朝の混乱状況から超安定構造への復帰の動き
1)魏晋南北朝時代の混乱要因の解消に向けた動き
①「少数民族の中国内地への大量移住」の問題
②仏教の中国化の促進
2)北朝による新たな政策の推進
3)魏晋南北朝時代の大一統復活へ向けた歴史的経過

1.政治制度・土地制度から観た魏晋南北朝時代の特徴

魏晋南北朝期に中華帝国大一統の存立基盤が失われた中華領域では、どのような政治的経済的な状況が現出していたのであろうか。

1)支配エリートの貴族化傾向の増大

三国時代
魏晋南北朝の中国でまず目立っていたのが、支配エリートの貴族化傾向が怒涛のように進んだことが挙げられよう。このため、官僚機構が次第に世襲貴族に独占されるようになり、九品中正制が漢以来の官僚選抜のための察挙・徴辟制度に取って代わっていった。このような魏晋時代の門閥貴族勢力の拡大、王権の凋落、門地等級思想の根強さは他の時代には観られない特異な現象であった。(1)
治世の能臣、乱世の奸雄と言われた魏の実質的な創立者の曹操は、自らは実力主義を実行して天下の大半を支配したが、結局は安定的な中華の大一統を果たせず、政治制度的にも社会の混乱の延長線上に過渡的な秩序しか産みだせなかったと言えようか。結局、曹操は中華大一統を実現し、数百年の太平の天下を築いた先輩の劉邦にも後輩の李世民にも及ばず、「簒奪者であり、一代の奸雄に過ぎない」との評価から完全に抜け出すことが出来なかったとも言えるかも知れない。

2)地主経済から領主経済への移行現象の進行

南北朝時代
宗法一体化構造の不全による経済構造への主たる影響としては、地主経済から領主経済への移行現象が挙げられよう。このことは農民の地主に対する身分的従属関係の著しい強化となって跳ね返ってくるのである。特に西晋の滅亡後には、この時代に顕著な領主制に類似する二つの経済組織が出現した。一つは塢堡主経済でもう一つは宗主督護制と呼ばれるものである。前者は、大塢堡主が小塢堡主を支配し、小塢堡主が労働者を支配する形態で、大塢堡主は政権に密着し、貢納関係を形成するというもので西欧や日本の封建性に近いものであった。後者は、合戸制であり戸主である塢堡主や宗主が数十軒から百軒を束ねて、政府への賦役負担を請け負うものでった。こうした中で、塢堡主や宗主などの貴族層は、農民に対して経済的搾取を行うとともに、行政上の管理権も行使していた。
貴族層は占有する土地を治外法権的に支配する権利を持ち、所属する人民を自由に管理する権限を有していたのである。(2)
このようになってしまうともはや中央集権的専制国家というような代物ではなく、単なる弱小貴族の割拠した分裂型領邦制国家とでもいうべきものになってしまうであろう。統一的な強力な常備軍の存在も期待出来ず、新たなる騎馬民族の襲来に対しても十分な国防力をもって対処する術がなかったことも理解出来る。

3)西晋崩壊後の中国の状況

西晋
西晋が匈奴の反乱である永嘉の乱で崩壊した後、江南に避難することもせず、異民族支配も拒否した貴族たちは塢堡塁を建設して自衛しながら、大量の自作農を取り込んで部曲として編成していった。部曲は平時には耕作し、戦時には戦うと言う形で貴族との強い身分的従属関係を有しており、逆に国家の兵役からは免除されていた。このような部曲は、ほとんど農奴同然の立場であり、貴族との従属関係を解消して自作農になるためには、放免されるか自ら身請けするかしかなかった。北方における領主経済はこのような部曲を中心に成り立っていたのである。(3)
南方における状況も大同小異であり、貴族化は絶え間なく増大し、自作農は減少するばかりであった。地主経済の衰退は、蔭客制の発展と軌を一にしていたが、この蔭客制とは、農民が貴族に身を投じて「蔭庇」(庇護)を受けることで、国家への納税や徭役負担を免れようとすることを指す。東晋時代の蔭客数は数万人いた官吏の人数から推定すると15万戸程度存在したとされており、総戸数が60万とすれば四分の一以上が蔭客となっていた。このような領主型経済では、農奴と化した農民への封建的搾取は激甚であり、農業の生産水準は先秦時代を下回っていたとされる。(4)

2.魏晋南北朝時代の中国に蔓延する政治・経済・イデオロギー構造

これらの状況を踏まえて、魏晋南北朝時代の中国封建社会の政治・経済・イデオロギー構造を分析すると、これは既に超安定構造から明確に逸脱した新たな類型が出来あがっていたことが読み取れる。

1)魏晋南北朝時代に特有の準安定構造

老子
魏晋南北朝に中国に成立していた社会構造としては、「領主荘園経済が政治上の門閥貴族制と適応し、国家の分裂が仏教・老荘・玄学のイデオロギー構造に適応する形態」となるだろう。
このような構造は、ほとんど一体化調節の機能を保持していないか、あるいは一体化調節機能がほとんど微弱な状態に陥っているかのいずれかであり、元々保持されていた一体化調節機能が衰弱から消滅に向かうような時期には、このような新システムが、「地主経済・大一統の官僚政治・儒家の正統」と言った本来の封建社会の在り方に取って代わってしまっていたのであった。(5)

2)魏晋南北朝時代の準安定構造とヨーロッパや日本の封建社会構造の類似性

河西回廊
このような準安定構造が、いわゆる典型的な封建社会とされるヨーロッパや日本の封建社会構造に類似しているという指摘は確かに当たっていよう。魏晋南北朝時代には、天下領域全体を覆うように存在する統一権力も交通のネットワークも統治組織も破壊され、領主荘園経済の優勢の下で経済的にも商業や都市は振るわず、関所で隔てられた狭い範囲での流通経済が微小ながら運営されているような状態に止まっていた。北周時代には河西回廊地域では、西域の金銀通貨が使用されたにもかかわらず役所がこれを禁止しなかった例にも観られる通り、魏晋南北朝期においては統一的貨幣制度は、破壊されてしまっていたのである。このような情勢下では、土地兼併の問題よりも、人手不足を解消するための人口の争奪が問題になっていた。(6)

3.魏晋南北朝の混乱状況から超安定構造への復帰の動き

このような超安定構造から観れば、混乱し逸脱したヨーロッパや日本の封建社会並みの群雄割拠的な分裂状態から本来の超安定構造に回帰、移行する流れが芽生えてきたのはなぜであろうか。この要因を探るためには、超安定構造を破壊した撹乱源が克服されているかどうかを知ることが手掛かりになりうるだろう。

1)魏晋南北朝時代の混乱要因の解消に向けた動き

民族融和

①「少数民族の中国内地への大量移住」の問題

魏晋南北朝期の300年間に渡る長期の大分裂を経過する中で、「内地へ移住した少数民族」が漢族の文化を幅広く受容し、新たなる漢族を中心とした民族の大融合が実現していった。

②仏教の中国化の促進

仏教の影響は300年に渡る分裂抗争の中で刺激を受け続けることで、儒学が漢代経学の古臭さや現実への適応性の無さを一掃し、徐々に主導権を発揮し始める中で希薄化していった。さらに仏教はこの時期、中国式に改造され仏・道・儒の融合体である禅宗が誕生することで、儒家正統イデオロギーに対して真っ向から撹乱作用を起こす主体では無くなっていった。(7)

2)北朝による新たな政策の推進


さらにこれに合わせるように準安定構造がより顕著に現れていた南朝ではなく、少数民族の影響をより強く受けてきた北朝により以下のような3つの施策が強力に推進されることにより、「中華帝国大一統」は最終的に再建されることとなった。

①経済構造において均田制を推進して荘園制度を破壊し、身分的従属関係を破壊して、部曲や佃客を解放して自作農とすること
②政治構造においては、門閥貴族の勢力を弱体化し、皇帝と中央政府の絶対的権威を再建し、九品中正制度を廃止して、一体化の実現に資する任官制度を構築すること
③イデオロギー構造においては、儒家が再び正統としての地位を獲得し、広範な知識人が無為・脱俗の消極的態度を改めて積極的に世事に関与することを促し、大一統の組織力となること(8)

3)魏晋南北朝時代の大一統復活へ向けた歴史的経過

北魏222
こうした中で、魏晋南北朝時代は以下のような3つの段階を経て最終的には、宗法一体化構造に立ち戻る経過を辿ったのである。

・「第一段階:後漢滅亡から西晋までの一体化調節機能の喪失時期」
・「第二段階:西晋の滅亡後、南北朝に分裂し、さらに北側は十六国の大乱に陥った準安定構造の時期」
・「第三段階:北魏の建国以降半世紀の準安定構造から宗法一体化構造再建への過渡期」(9)

尚、本稿とも関連する中華大一統の本質については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。

中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

トランプ大統領の不法移民流入制限の根拠は魏晋南北朝時代の中国の混乱が証明する!

参考文献
(1)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p173
(2)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p174
(3)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p174-p175
(4)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p175-p176
(5)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p177
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p177-p178
(7)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p179-p180
(8)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p180
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p181

米中冷戦の渦中に独裁者を目指す習近平の理想は清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服と完璧な帝国統治の再現である!

Great China

新しく中国の事実上の皇帝となった習近平が目指すモデルで、ヒトラーやナポレオンの侵略より遥かに永続的で、トランプ大統領も評価する清朝極盛期の征服活動に関して検討する。
この時の侵略は中国にチベット,ウイグルの少数民族問題を発生させたが、清朝が極盛期に中華帝国領域=中国領土の拡張政策の要因を、蒙古騎馬兵力確保の視点を中心に、中華的価値観とは別個の視点から遂行された状況を明らかにする。

ここでは、2014年3月に訪独した習近平にメルケル独首相が贈った18世紀前半の中国古地図には、掲載されていなかった清朝の領土拡大のあり様を取り上げる。

1.清朝がモンゴル、チベット、新疆への中国領土拡大に着手した要因
 1)モンゴル騎馬兵力との同盟に向けたチベット仏教との関係強化の必要性
 2)清朝皇帝にとっての中華文明以外の価値の戦略的重要性
2.新疆エリアの混乱収拾とモンゴル騎馬兵力安定統治のためのチベットエリアコントロールの重要性
 1)新疆エリアの混乱とチベット仏教勢力の不安定化
 2)モンゴル騎馬兵力安定統治に向けたチベットエリアの混乱の収拾に向けた動き
 3)チベット平定とジュンガル平定による新領土の「新疆」命名
3.清による中国領土拡大過程と支配正統性の根拠の特殊性
 1)「中華文明的価値」に左右されない中国領土拡大方針
 2)モンゴル・チベットエリアにおける支配正統性の根拠
 3)チベット仏教側の支配正統性の原理としての「転輪聖王」

1.清朝がモンゴル、チベット、新疆への中国領土拡大に着手した要因

チベット,ポタラ宮

1)モンゴル騎馬兵力との同盟に向けたチベット仏教との関係強化の必要性

清朝が中国領土の拡大に着手したのは、清がモンゴルの騎馬兵力を同盟に引き込んでいく過程で、必要となったチベット仏教の正統な保護者の座を巡る主導権争いに端を発していると言えよう。
モンゴル高原は当時ダライ・ラマを政教の中心とするゲルク派チベット仏教が席巻しており、モンゴルの王侯貴族が清の皇帝を「ボグド・セツェン・ハーン(神武英明皇帝)」として、モンゴル共同のハーンとしても承認するためには、清の皇帝が文殊菩薩と仏教への帰依に基づいてモンゴル人が信仰するダライラマ及びゲルク派のチベット仏教を名実ともに保護することが大前提となった。
このような状況をうけて、清の皇帝がゲルク派の指導者であるダライラマに対して畏敬と尊崇の念を公式に明らかにする場を設定することが、政治的パフォーマンスとしても必須の課題となり、当時の皇帝ホンタイジは同時代のダライラマ五世を首都盛京に招くべくチベットに親書を送った。ホンタイジの死によりダライラマ五世との会見は実現しなかったが、ホンタイジの後継者たる順冶帝はダライラマ五世に改めて親書を送り、その誠意を伝えた結果、遂にダライラマ五世と順治帝の会見が1652年に北京で実現した。
順治帝はこの時に青海方面までダライラマ五世を出迎えようとしたものの天変地異や政治情勢の緊迫化等のため、結局北京での会談となった。順治帝はダライラマ五世への礼儀を重んじ北京城外まで出迎える等可能な限り礼遇して皇帝とチベット仏教との関係の深さを強調した。尚、北京の北海の白塔はこの時の会見も踏まえて順治帝が建立したと言われる。(1)

2)清朝皇帝にとっての中華文明以外の価値の戦略的重要性

順治帝
清朝皇帝は、このようにモンゴル騎馬兵力を取り込むことの布石の一環としてチベット仏教に接近した。このことは、「儒教・漢字」をベースとする「中華文明」とは異なる価値への清朝のアプローチが戦略的でかつ必須の課題であったことを物語っている。また清朝は、単に「中華文明」に取り込まれる存在と言うだけではなかったということの証左にもなるだろう。

2.新疆エリアの混乱収拾とモンゴル騎馬兵力安定統治のためのチベットエリアコントロールの重要性

モンゴル騎馬軍団

1)新疆エリアの混乱とチベット仏教勢力の不安定化

その後、新疆エリアにおいて西モンゴルの一部族であるジュンガルが台頭し、康煕帝時代から乾隆帝時代にかけて清との抗争を繰り広げるが、この清とジュンガルの争いにチベット仏教も巻き込まれることとなった。すなわち康煕帝時代にジュンガルの指導者ガルダン・ハーンがダライラマ勢力と連携して清に対抗しようとして敗退したが、その後にはダライラマ五世の没後に後継者となったダライラマ六世が放蕩に走ってしまった。これをうけて清とその協力者が「別のダライラマ六世」を擁立したところ、亡くなった「放蕩のダライラマ六世」の生まれ変わりの正統なダライラマ七世を担いだ人々が、清の皇帝に「放蕩のダライラマ六世」廃位取り下げとダライラマ七世の承認を求めるというような事態が発生した。(2)

2)モンゴル騎馬兵力安定統治に向けたチベットエリアの混乱の収拾に向けた動き

モンゴル騎馬軍団222
このように当時のチベット仏教は政治に翻弄されている状況が明らかであるが、同時に清朝皇帝も活仏としてのダライラマの正統性と転生の真実性に振り回されている有りようも認められる。モンゴル騎馬兵力を安定的に統治するためにもチベット仏教を完全にコントロールすることが、重要な政治課題であった清朝皇帝としてはこのような事態は可能な限り素早く収拾することが急務であった。
この時にはジュンガルのツェワン・アラプタンがラサへ侵攻しようとしているという状況が重なり康煕帝としても「ダライラマ六世」を巡る面子の問題とともに、ツェワン・アラプタンの軍事的政治的な脅威に対抗する必要に迫られ、「ゲルク派仏教を保護するのがジュンガルではなく清の皇帝である」ことをモンゴル・チベット全域に知らしめるべくラサに進攻することを決定し、併せて面子の問題は一先ず置いてモンゴル・チベット人の意向に沿う形で「放蕩のダライラマ六世」の復権と「ダライラマ七世」への権威の委譲を承認することとした。1720年の段階で後の雍正帝の皇子時代に推進された清のチベット平定作戦は、成功裡に終結し、モンゴル・チベット人の間で「文殊菩薩皇帝」の権威が確立した。(3)

3)チベット平定とジュンガル平定による新領土の「新疆」命名

ジュンガル平定
このように清朝皇帝によるチベット平定作戦は成功したが、清朝側もダライラマの正統性を巡ってモンゴル・チベット人側の主張を受け入れるという妥協を強いられた。清朝皇帝も上辺だけの介入では通用しないことを把握し、現地の内情を踏まえてチベット仏教信徒の意向を重視しながら果断に武力を行使することで、名実ともに「文殊菩薩皇帝」として敬愛される道を選んだと言えよう。
この後、乾隆帝は雍正帝時代の繁栄と倹約を通じて実現した空前の国庫の充実を背景にジュンガルの残党を徹底的に掃討し、ジュンガル及びタリム盆地のイスラム教徒を完全に清の版図に組み込み、新領土を「新疆」と命名した。(4)

3.清による中国領土拡大過程と支配正統性の根拠の特殊性

十全老人

1)「中華文明的価値」に左右されない中国領土拡大方針

このような過程で清は中国領土の拡大に成功するわけであるが、この領土拡大の過程で「儒教や漢字の優越」と言ったそれまでの「中華文明的価値観」が有効に働いた形跡が、あまり認められないのは紛れもない事実、と言えそうである。あくまでも清はモンゴル・チベット領域を遍く統べるためにゲルク派チベット仏教の保護者の座を目指して軍事的に活動し、必要に応じて政治的妥協も厭わなかったと言えよう。(5)

2)モンゴル・チベットエリアにおける支配正統性の根拠

チベット仏教
すなわち清朝皇帝は、モンゴル・チベットエリアにおいては、中華帝国皇帝の威光に基づき統治したのではなく、この地域の権威者であるチベット仏教の主流派の保護者として振舞うことで正統性を調達したのである。これは清朝皇帝が、明及びそれ以前の狭義の「中華帝国」エリア=中国内地を超越する存在となったために必要不可欠となった新たなる支配の正統性の根拠を巡る動きであった。

3)チベット仏教側の支配正統性の原理としての「転輪聖王」

アショカ王222
チベット仏教の側では、現実の政治的状況の中で具体的な力を持たない仏教勢力の側が生き延びるために権力者の庇護に頼るにあたって、権力者の高潔さや信仰心に関して厳しい基準を設定し、基準を満たした権力者が仏教を保護するために具体的な力を行使することを肯定していた。一般的にはそのような仏教の興隆のために武力を行使する権力者は「正法王」と呼ばれ、その中でも圧倒的な信仰と政治力をもつものは「転輪聖王」と呼ばれた。こうした中で古代インドのアショカ王に対して用いられていた「転輪聖王」の再来として、清の歴代皇帝たちもモンゴル人・チベット人から受け入れられることとなった。(6)
清朝皇帝たちは、そのような仏教を保護する権力者としての資格を得てモンゴル・チベットエリアの人々の支持と畏敬を確保し、それまでの中華帝国が成しえなかった中国領土の新領域への拡大とその長期で安定した支配を実現したと言えよう。

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p141
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p144
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p144-p145
(4)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146