ナショナリズム

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

スレイマン大帝

ロシアンゲート疑惑の渦中にいるトランプ大統領は、初の外遊先に中東を選びましたが、具体的な中東和平の道筋を示さなかったため関係者間に失望の色も出ているようです。ここでは今後の中東和平のカギとなるオスマン帝国によるイスラム世界秩序安定と崩壊のあり様を検討します。

今回は、主として西洋の衝撃および帝国内の臣民の民族意識の高揚等を主たる要因として取り上げつつ、イスラム世界秩序とオスマン帝国の解体過程を確認していきます。

1.西洋の衝撃はどのような形をとったのか?
1)軍事的政治的脅威以外の要素の影響
2)イスラム世界における民族意識の状況
3)西洋思想の影響による愛国心と民族主義の発揚
2.イスラム世界秩序を体現するオスマン帝国への西洋思想の浸透
1)徐々に浸透する西洋思想
2)バルカン半島の非ムスリム諸国民に浸透する西洋思想
3)ギリシアの独立とその影響の連鎖
3.西洋の衝撃に対応するオスマン帝国側の西洋化改革
1)タンズィマート=オスマン帝国内で本格化する体系的改革
2)明治維新に類似するタンズィマートの方向性
3)タンズィマートの目指したゴール

1.西洋の衝撃はどのような形をとったのか?

1)軍事的政治的脅威以外の西洋の衝撃の影響

オスマン帝国分裂

西洋の衝撃は、外側からの軍事的政治的脅威という要素のみでなく、オスマン帝国の臣民の意識にも影響を与えることとなった。
もともとオスマン帝国においては、各構成員の民族意識は希薄であり、イスラム的な世界帝国の一員として、ムスリム、非ムスリムの両者にとって宗教にアイデンティティの核が存在し、民族や人種は後景に退けられていた。こうした中で、18世紀以降の西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国では、イスラム的世界帝国の概念に揺らぎが生じ、構成員とその所属する集団の枠組みにも徐々に変化の兆しが現れ始めた。(1)

2)イスラム世界における民族意識の状況

カーバ神殿

伝統的なイスラム世界では、キリスト教国と同様に国民と国家はしばしば民族と地域の同義語だった。中東のイスラムの三大民族であるアラブ人とペルシャ人、トルコ人は自分たちの言語や文学、歴史や文化、共通と推測される起源、独特の風俗やしきたりを誇りをもって意識していた。自分たちの出生地への素朴な愛着もあった。郷土愛、地元自慢、郷愁は西欧文学と同じようにイスラム文学でもおなじみのテーマであるが、そこには一切の政治的メッセージは含まれていない。
西欧思想が入ってくる前は、民族や民族の郷土が政治的主体や支配力を持った存在であるという思想が認められも、知られてもいなかった。ムスリムの存在基盤はあくまでも信仰であり、その忠誠心は信仰の名において支配する支配者や王朝に帰属していた。(2)
あくまでもムスリムのアイデンティティにとって信仰が第一義であり、郷土愛や地元への愛着・郷愁はあってもそれは感傷的なもので、政治的な信念や忠誠心にまでつながるようなものでは無かった。これが西欧思想の影響で大きく変化することになったのである。

3)西洋思想の影響による愛国心と民族主義の発揚

イスラム愛国心

愛国心と民族主義は、イスラム世界にとって異質な存在であった。
愛国心とは、単なる出生地への素朴な愛情ではなく政治的なもので、必要とあれば自国への兵役義務を負い、要求があれば政府に金も出すという西欧文明に深く根ざした感情である。英仏米では愛国心は「国内の多様な人種を同じ国民的忠誠心のもとに統一すること」「真の唯一の主権の源は教会でも国家でも無く、国民にあると言う強い確信をもつこと」という二つの思想に結び付いている。また民族主義とは、国家や身分ではなく、「言語」「文化」「共有の出自」などで定義された「民族国家」という概念に繋がる思想であり、日常の現実に当てはまり易く、中東の現実にもぴったり当てはまった。特に民族主義は、中東に紹介されると自由を主張する反体制運動に結び付いた。自由とは外国の支配や分割統治に終止符打つことであり、民族の独立と団結を達成することを意味した。(3)

2.イスラム世界秩序を体現するオスマン帝国への西洋思想の浸透

1)徐々に浸透する西洋思想

ギリシア独立
こうした思想の浸透は、幕末の黒船に似た衝撃がイスラム的世界帝国にも遂に押し寄せてきたということでもあったろうが、この場合の衝撃は極東のビッグバン的なインパクトとしての衝撃よりも、ジワジワとボディブローのように浸透してきたというべきだろう。既述の通りオスマン帝国は西欧諸国と近接しており、通商関係や外交関係の往来は確立していた。こうした中でオスマン帝国への西欧思想の影響はまず バルカンのキリスト教徒臣民の間に浸透していくこととなった。

2)バルカン半島の非ムスリム諸国民に浸透する西洋思想

メフメット二世

西洋の衝撃の主体である西欧諸国は、当時グローバルシステムとなりつつあった近代西欧国際体系のもとで、基本単位としてネーションステートを構成していたが、このネーションステートの構成のアイデンティティの核はいわゆるナショナリズムにより支えられていた。一国民一
民族一国家というような方向性を標榜する近代西欧におけるナショナリズムの影響は、特にバルカン半島の非ムスリム臣民の中にいち早く浸透し、イスラム的世界帝国としてのオスマン帝国の解体を促し、近代西欧の国家のありようをモデルにしたネーションステートを形成していこうという民族独立運動が盛んになっていった。(4)
バルカン半島のキリスト教徒臣民は、「啓典の民」としてムスリム共同体との契約により、人頭税(ジズヤ)や土地税(ハラージ)の支払い
及び一定の行動制限に服することを条件として、保護(ズィンマ)が与えられた被保護民(ズィンミー)として固有の宗教と法と生活習慣を保ちつつ、イスラム法の許容する範囲内で自治生活を営むことが認められていた。(5)
このような「啓典の民」が、自分たちのアイデンティティに目覚める過程でオスマン帝国はその存立基盤を徐々に犯されていくことになっ
た。

3)ギリシアの独立とその影響の連鎖

バルカン独立
特にギリシア人は、オスマン帝国支配下にあっても伝統的に通商や留学を通じて西欧とのつながりが深かったため、他より早く18世紀後半にナショナリズムが高揚し、19世紀にはほぼバルカン全域がナショナリズムに呑み込まれた。
これらの動きはバルカンの諸民族が、主権平等のネーションステートを成立させ、グローバルシステムとしての近代西欧国際体系に積極的に参加していこうとする民族独立運動につながり、1830年のギリシア独立以降は19世紀から20世紀初頭にかけて続々と独立に成功していくことになった。(6)

3.西洋の衝撃に対応するオスマン帝国側の西洋化改革

タンジマート

1)タンズィマート=オスマン帝国内で本格化する体系的改革

西洋の衝撃が、外からの軍事的政治的脅威に加えて、内からのキリスト教徒臣民のナショナリズム覚醒と民族独立運動の発展という脅威として作用してきた中で、18世紀終わり以降にオスマン帝国側においても従来の伝統主義的な小手先の改革を放棄した、本格的な西洋化を目指す体系的な改革が行われ始めた。(7)
オスマン帝国支配層も復古主義的な改革だけでは、これまでに無い多様な危機に対処してオスマン帝国の質的改善に取り組むのに不十分であるという認識にようやく至ったということであろう。
タンズィマートと呼ばれる一連の体系的西洋化に基づく改革は、開明的な実務官僚によって担われたが、彼らは自らもフランス語を中心とする西欧諸国語に通じ、西欧諸国に駐在経験を持つ直接の西欧経験を持つ人々であった。(8)

2)明治維新に類似するタンズィマートの方向性

明治維新

日本の明治維新期においては、伊藤博文をはじめとする元勲クラスの多くの藩閥官僚が西欧への留学経験を持っていた。しかるに、清朝の儒家正統系の科挙官僚や満洲旗人にそのような海外体験を持った存在を目にすることは困難であった。そういう意味では、オスマン帝国のタンズィマートは、その結末はともかくとしてより本質的で西欧の実態を把握した上での根本的な改革を志向する明治維新にも類似する画期的なものであったと受け止められよう。一方で清朝における改革が西洋の発展の本質を十分に理解しないまま行われた、小手先のものにとどまった理由もこのあたりにあるかも知れない。ただし、これは長期的に観れば正解だったとも言えるのではないか。結果的に、「オスマン帝国は、イスラム的な本質を見失って解体崩壊消滅の道を辿った」(9)のに対して、中華帝国は頑迷固陋なまでに西洋との距離を保ち続けながらも結局「従来の中華文明エリアをはるかに超える清朝最大版図を継承して中華帝国としての一体性を維持」することに成功している。また西洋と距離を置くと言う意味では、「天安門事件において明確になった今日の議会制民主主義への中国共産党の独自の認識」(10)にまで行きつくのではないだろうか。

3)タンズィマートの目指したゴール

ケマルパシャ
オスマン帝国のタンズィマート推進者達にとっては、支配組織の合理化を通じて直接の軍事的政治的外圧に対処しつつ、帝国領内の非キリスト教徒臣民のナショナリズムと民族独立運動による帝国解体の危機にいかに対応するかが喫緊の急務であった。この時の対応策として、西洋化の推進者達はオスマン帝国の構成員のアイデンティティを宗教におくイスラム的世界帝国から世俗的多民族国家に転換することを目指した。(11)

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国が確立していたイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

参考文献
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p59
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第17章新しい思想 p458
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第17章新しい思想 p458-p460
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p59-p60
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p18
(6)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p60
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p60-p61
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p61
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p65
(10)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p198
(11)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p61

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

オスマン帝国における近代化の動きは、帝国の根底を揺るがす徹底的過ぎる改革だったともいわれており、明治維新のように伝統を維持しつつ国家体制を変革することに失敗したために、帝国及びイスラム世界秩序の双方ともに崩壊することになった、との認識がある。

1.バルカン非ムスリム諸国民の独立とイスラム世界秩序=オスマン帝国の行く末
1)徹底的過ぎる改革がもたらす事態
2)危機に対処するオスマン帝国の柔軟性と根本的改革の遂行
3)バルカン喪失後のオスマン帝国の課題
2.バルカン非ムスリム諸国家喪失後の生き残り策を模索するオスマン帝国
1)帝国解体の危機への二様の対処策としてのイスラム的世界秩序回帰と近代国際体系への参加
2)ムスリム臣民内のアラブ民族意識の芽生えとトルコ主義の拡大
3.西洋の衝撃によるオスマン帝国の解体の流れ
1)ナショナリズムの高揚とイスラム的世界秩序の崩壊
2)オスマン帝国の疑似国民国家化への志向とその崩壊過程
3)イスラム世界の自己完結性の喪失とオスマン帝国のトルコネーションステート化

1.バルカン非ムスリム諸国民の独立とイスラム世界秩序=オスマン帝国の行く末

1)徹底的過ぎる改革がもたらす事態

ペレストロイカ
イスラム的世界帝国と言うのは、オスマン帝国の存立基盤であった。もっと広くとらえればイスラム世界一体化の成立基盤でもあったのではなかろうか。もともとイスラム的世界秩序の理念においては、「イスラムの家」の政治的統一が前提とされ、ムスリムの諸国家から構成される国際体系は全く想定していなかった(1)と言う点から観ても、徹底的過ぎる改革が帝国の存立基盤を犯して、逆に帝国の崩壊に導いてしまったのかもしれない。近年ではソ連を崩壊に導く遠因となったペレストロイカなども、このような例に当てはまるだろう。
ペレストロイカは、体制変換モデルを提起しながら、以下のような三重の矛盾を内包していたという。

①ペレストロイカは、ソビエト共産党の一党ヘゲモニーの堅持を意図しながら、市民社会の登場と成熟を前提とし、その歴史的所産であることを強調し続けていた。
②ペレストロイカが、社会主義経済システムの枠内での経済活性化の道を模索しながら、他方で資本主義的制度の多様な導入を画策していた。
③ペレストロイカは、本質的には国家=党の支配の中央集権的なメカニズムとしての「帝国」を維持しようとしながら、民主化・分権化を強調し、共和国主権を求める絶え間ない動きを引き出してしまった。(2)

このように改革の姿勢が、「帝国」の存立基盤を動揺させ、世論の大勢がそこになびいてしまうと、そういう動きをとどめることは困難であ
ろう。

2)危機に対処するオスマン帝国の柔軟性と根本的改革の遂行

ロマノフ王朝
とはいえオスマン帝国は、ソビエト社会主義共和国連邦のように突如として崩壊するようなことは無かった。あらゆる予想を裏切って、オスマン帝国はスペイン帝国、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国、ポーランド選挙王国、神聖ローマ帝国、ブルボン王朝、ナポレオン王国、権力ある存在としての教皇庁やロマノフ王朝、ハプスブルグ帝国、ホーエンツォレルン帝国よりも長生きした。(3)
イスラム的世界帝国の根幹レベルからの改革を目指すと言う方針のもとで、1839年に「ギュルハネ勅書」が、1856年には「改革の勅
令」が出され、オスマン帝国の臣民は、その宗教に関わらずほぼ平等の権利を有することとなった。オスマン主義と呼ばれるこの方針は、イ
スラム的な伝統的帝国概念を根底から覆し、世俗的多民族国家としてのオスマン帝国の延命を目指す画期的なものであったが、ムスリム臣民には浸透したものの、非ムスリムのバルカン諸民族のナショナリズムや民族独立運動を抑え込むことには失敗し、オスマン帝国のイスラム的世界帝国から世俗的多民族国家への転換に至る道は閉された。(4)

3)バルカン喪失後のオスマン帝国の課題

ムスリム

このようにオスマン帝国は自らイスラム的世界帝国の本質を放棄し、世俗的多民族国家への転換を図りながらも、このような方針の直接の要因となったバルカン諸国をつなぎとめることには失敗してしまった。これにより、非ムスリムのキリスト教徒を主体とするバルカンの喪失がほぼ既定事実化してくると、今度はオスマン帝国にとってムスリム臣民を如何にしてつなぎとめて、帝国を維持していくかが課題となってくる。

2.バルカン非ムスリム諸国家喪失後の生き残り策を模索するオスマン帝国

1)帝国解体の危機への二様の対処策としてのイスラム的世界秩序回帰と近代国際体系への参加

正統カリフ時代
非ムスリムのバルカン諸民族の独立と外圧の高まりの中でオスマン帝国はその存立のためにいくつかの方策を探ったが、その一つは伝統的なイスラム的国際体系観に回帰し、イスラム世界の統一と全ムスリムの団結により危機に対処することであった。スルタン・カリフ制の理論を援用しつつ、オスマン帝国の君主としてのスルタンが同時に地上における預言者ムハンマドの代理人であるカリフとして、全世界のムスリムの指導者として君臨する、との考え方である。いま一つの方策はトルコ民族のナショナリズムを拠り所に近代的国際体系に参加し、ネーションステートの一員になるという考え方であり、これには大トルコ民族主義とアナトリアを中心とするネーションステートを形成しようとするトルコ主義とがあったが、これはトルコ主義へと徐々に収斂していった。(5)

2)ムスリム臣民内のアラブ民族意識の芽生えとトルコ主義の拡大

アナトリア

オスマン帝国におけるムスリム臣民は、トルコ人だけではない。元々オスマン帝国はイスラム世界の辺境の一帝国に過ぎなかった(6)ので
あり、マホメットの出自やメッカ・メジナの周辺民族を想起すれば、アラブ人の動きをここで確認しておく必要があるだろう。
ムスリム意識からトルコ人意識が出てき始めていた19世紀後半にはムスリム臣民のうちアラブ人にもアラブ人意識が芽生え、アラブ・ナショナリズムへと結実していくこととなった。このようなアラブナショナリズムの形成はイスラム世界の伝統的秩序観に決定的な亀裂をもたらした。またこれが近代西欧に由来するナショナリズムへの志向に対抗する、イスラム世界の伝統への回帰としてのパン・イスラム主義の発展を阻害する要素となった。(7)
同じムスリムのアラブ人からも離反されては、オスマン帝国の取るべき道は、アナトリアを中心とするネーション・ステートの形成をベースとするトルコ主義に収斂せざるを得なくなるだろう。

3.西洋の衝撃によるオスマン帝国の解体に向けた奔流

1)ナショナリズムの高揚とイスラム的世界秩序の崩壊

イスラム世界帝国

このように18世紀以降の西洋の衝撃によりイスラム世界における伝統的国際体系は、徐々に掘り崩されイスラム的世界帝国としてのオスマン帝国は解体に追い込まれていった。こうした世界帝国崩壊の過程で、ナショナリズムの高揚と主権平等のネーションステート形成に向けた流れが奔流のように噴出した。(8)

2)オスマン帝国の疑似国民国家化への志向とその崩壊過程

中華帝国
オスマン帝国はかつて民族と宗教の多様性のダイナミズムを誇る世界帝国としてイスラム世界及びバルカン半島を支配していたわけであるが、「西洋の衝撃」を受けてその多元的な支配構造を「疑似国民国家」化して西欧のリードする新しい世界システムに適応しようとした。
このような「疑似国民国家」に変質したのはオスマン帝国だけではなく、「中華帝国」も同時期に同じ様な対応を取っていた。(9)
「中華帝国」では「天の思想あるいは天下主義がいつのまにか明確な輪郭をともなった国民主義へと変質していた」。(10)ここで言う「天=天下」が中華エリアのベースであったが、清の時代に藩部を取り込んで大幅に拡大した「天下としての中華エリア」=「清朝最大版図」が、そのまま「国家領域」として受け入れられ、「天下の民」=「国民」=「中華民族」と捉えなおされることで非常に自然な形で「疑似国民国家」中華民国が誕生したと言えよう。そしてこの延長線上に現在の中華人民共和国も位置づけられるだろう。
他方オスマン帝国は、非ムスリムを抱え込んだイスラム的世界帝国の位置付けを、まずバルカン半島の非ムスリムの独立で喪失し、ムスリムを包括するイスラム的世界帝国の位置付けをアラブ民族主義の台頭で放棄し、究極的にはアナトリアをベースとするトルコ主義に純化した国民国家を選択することで、あらゆる「帝国」としての歴史に訣別したと言えよう。

3)イスラム世界の自己完結性の喪失とオスマン帝国のトルコネーションステート化

トルコ共和国

こうしてイスラム世界は、「西洋の衝撃」を被ることで、それまでの自己完結性を喪失して、グローバルシステムとしての近代国際体系の一部に組み込まれ、「中東」と呼ばれる一地域として再編成されることとなった。そうした動きの中で記述の通りオスマン帝国の中核たるトルコ民族もアナトリアを中心にトルコナショナリズムによって世俗的な近代西欧の方式をベースとしたトルコ共和国というネーションステートを成立させ今日に至っている。

尚、「西洋の衝撃」が、オスマン帝国に与えた影響を西欧キリスト教文明に対峙したイスラム世界帝国としてのオスマン帝国という見地から分析した以下のリンクもご参照ください。

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国のようなイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

<参考文献>
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p25
(2)進藤榮一:ポストペレストロイカの世界像 筑摩書房 1992 ペレストロイカの本質 p61-p63
(3)アラン・パーマー:オスマン帝国衰亡史 中央公論社 1998 第三章チューリップ時代とその後 p57
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p61-p62
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p62-p63
(6)鈴木董:帝国とは何か 岩波書店 1997 多様性と開放性の帝国 p160
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p64
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p64
(9)山内昌之:帝国と国民 岩波書店 2004 序章 ひきさかれた帝国 p14
(10)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997  中国皇帝と天皇  p125-p126