啓典の民

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

トランプ大統領シリア

トランプ大統領は、シリアのアサド政権の反政府側市民への毒ガス使用への報復を実行しましたが、これまでシリア情勢の主導権を握っていたロシアとの関係も含めて、果たして複雑な中東情勢に切り込んでいく十分な戦略を持ち合わせているのでしょうか?

1.「同じ啓典の民」としてのキリスト教徒とムスリムの相違
1)初期のキリスト教とイスラムの相違
2)政治的支配者と信仰の関係
2.イスラム的世界秩序と華夷の別の比較
1)「戦争の家」の異教徒の取り扱い
2)異質な存在への対応
3.イスラムにおける国際関係
1)イスラムにおける民族と国家
2)ムハンマドとその後継者の国際的な立場
4.イスラム的世界秩序と西洋の衝撃
1)イスラム的世界秩序の理念
2)西洋の衝撃による激動

1.「同じ啓典の民」としてのキリスト教徒とムスリムの相違

古代キリスト教

それではここで「同じ啓典の民」であるキリスト教徒とムスリムの相違について確認しておきたい。

1)初期のキリスト教とイスラムの相違

キリスト教徒は、イエス・キリストの布教開始以来コンスタンティヌス大帝の改宗まで、三世紀にわたって少数派であり、つねに疑惑の対象であり、またしばしば国家による迫害を受けた。その間にキリスト教徒は独自の組織を広げざるを得ず、抵抗の一環として「教会」を形作った。他方イスラム教の創始者ムハンマドは、自分自身がコンスタンティヌス大帝のようなものだった。彼の在世中にイスラム教徒は政治的にも宗教的にも忠実な信奉者となり、メディナの預言者ムハンマドの共同体は、この預言者自身を地域と人々の統治者と仰ぐ国家となった。ムハンマドの支配者としての活動の記録は「コーラン」と最も古い口述伝承に収められ、現在まで世界中のムスリムの歴史的自己認識の核となっている。(1)
このように体制や国家と宗教との関係が初期のキリスト教徒とムスリムの間では、根本的に相違していた。このためキリスト教においては、国家あるいは敵対する組織に対抗するための「教会組織」が発達しており、宗教としての原体験の段階において抵抗運動的な迫害への耐性が備わっているとも言えよう。

2)政治的支配者と信仰の関係

千夜一夜物語

こうした理由のために預言者ムハンマドとその信奉者にとっては、神かカエサルかという選択は生じなかった。なぜならば支配者=信仰の守護者でもあったからである。しかるに多くのキリスト教徒にとっては、これは罠となる選択であった。ムスリムの教えと体験の中にカエサルは存在しなかった。神は国家の長であり、預言者ムハンマドは神の代理人として教え、支配した。預言者としてのムハンマドには後継者はおらず、イスラムの宗教・政治共同体の最高指導者としてはムハンマドは歴代カリフの始祖だった。このようなカリフの任務は、教義の説明や解釈ではなく、その支持と保護、つまり臣民がこの世で良きムスリムとして人生を送り、来世への準備を整えられるようにすることだった。このような目的のためカリフは、イスラム国家の内部では神から与えられた聖法を維持、擁護し、出来れば国境を広げ全世界にイスラムの光
明を広げることが期待されていた。(2)

2.イスラム的世界秩序と華夷の別の比較

華夷の別

1)「戦争の家」の異教徒の取り扱い

イスラムにおいては、「聖戦」が完遂され全世界的に「戦争の家」が「イスラムの家」と化しても「全人類がムスリムに化する」ことが想定されていたわけではなかった。「戦争の家」の異教徒は、「ハルビー」と呼ばれ交戦相手国の国民のように取り扱われたが、この「ハルビー」は「偶像崇拝者」と「啓典の民」に大別された。このうち偶像崇拝者には「改宗か死か」の選択が迫られたが、「啓典の民」にはムスリムの共同体との契約により被保護民(ズィンミー)として固有の宗教、法、生活習慣を保ちつつ、イスラム法の許容する範囲での自治生活が認められた。(3)

2)異質な存在への対応

イスラム寛容

このようなイスラム的世界秩序観に較べると中華帝国における「華夷の別」のような発想が差別思想ではあるものの、平和的な思想に観えてくる部分もある。中華文明エリアにおいては、「華」が「夷」を武力で教化するようなことは何ら要請されておらず、「夷は華の文化さえ身に付ければ華になる」(4)とされた。とはいえイスラム世界の中においては、「イスラム的寛容」なるものが異質の宗教・民族・価値観を包含しながらも、他の諸地域において異質の価値体系を有する者同士が激しく対立していた状況に比較すると、「相対的に安定した共存関係を実現し維持していた」(5)ことも間違いないところであった。

3.イスラムにおける国際関係

イスラム軍楽隊

1)イスラムにおける民族と国家

イスラムにおける国際関係は、「イスラムの家」と「戦争の家」に属する様々な異教徒の集団との間の関係として捉えられる。また「イスラムの家」も異教徒の諸集団も基本的には「国家」としてではなく「宗教共同体」として捉えられた。これはイスラムが政治と宗教の分化を認
めないことに由来する考え方であり、イスラムとは人間活動のあらゆる分野においてアッラーの命に従うこととされた。またイスラム法も近代的な意味での法律ではなく、あくまで人間活動のあらゆる分野における行動の規範を意味していた。こうして「イスラムの家」に属するムスリムのアイデンティティーの根源は、何よりもムスリムであることに求められた。(6)
このようにイスラムが全てに優先するような考え方からは、民族や国家の概念は後景に退くことになるだろう。イスラム世界においては、近
代に至るまでムスリムか非ムスリムかの違いはあっても民族や国家の区別は無かったというのが、実際のところだったと考えてよいだろう。

2)ムハンマドとその後継者の国際的な立場

ガブリエル

ムスリム共同体の唯一の指導者は、預言者ムハンマドの在世中は、ムハンマドであったが、彼の没後は「地上における預言者ムハンマドの代理人」がつとめることとされた。ムハンマドは、「最後の預言者」とされたので、その後のムスリム共同体の指導者は、あくまでもムハンマドの預言者としての側面ではなく、政治的なリーダーシップの側面を受け継ぐ存在であった。このような指導者はカリフあるいはイマームと呼ばれ、イスラム国際体系の理念においては、「イスラムの家」の唯一の指導者として、イスラムにアイデンティティの根源を持つ構成員を持つ宗教共同体を率いていた。(7)
イスラム共同体は、この世における神の意図が具体化される場所である。彼らを支配するイスラムの統治者は、預言者ムハンマドの後継者であり、預言者が神から預かったメッセージの守護者だった。
「聖法」の維持と適用、その適用範囲の拡大が神から与えられた統治者の義務だった。これを遂行することにあたって原則的には、何の制約も無かった。(8)
イスラムにおけるムハンマドの存在は非常に大きく、歴代のイスラム世界の政治指導者は、ムハンマドの後継者とされたが、ムハンマドの存在は「最後の預言者」として、他の指導者とは画然と区別された。
また政治の構成単位は宗教共同体であって、「宗教」が中心に位置している点が、大きな特徴と言えるだろう。

3)「宗教共同体」間の関係をベースにするイスラム国際体系

ムハンマド

イスラム国際体系の理念においては、「イスラムの家」に対抗する「戦争の家」に属する異教徒も国家や民族で捉えるのではなく宗教共同体として捉えられていた。また「戦争の家」から「イスラムの家」に編入されても集団として存続している場合は、同様に宗教共同体として位置づけられていた。このようにイスラム国際体系の理念は、「宗教共同体」間の関係がベースになっており、「国家」を基本単位とする近代的な国際体系とは異質であった。(9)

4.イスラム的世界秩序と西洋の衝撃

イスラム寺院

1)イスラム的世界秩序の理念

ムスリム国家と異教徒の隣国との間には絶え間ない義務としての戦争状態が続いた。それはいつの日か間違いなく不信仰者に真の信仰を与え、全世界を「イスラムの家」組み入れる勝利で終わるはずだった。同時にイスラム国家と共同体は、啓蒙と真理の宝庫であり、その外側には蛮行と不信が渦巻いている。神がご自身の共同体に与える恩寵はムハンマドの時代から勝利と支配と言う形で証明されてきた。(10)

2)西洋の衝撃による激動

モスク

7世紀にイスラムが勃興して以来、営々として築き上げられてきたこのようなイスラム世界秩序は、その後「西洋の衝撃」の中で動揺し、結果的には西欧型の国民国家体系に組み込まれて解体・崩壊してしまった。他方で中華世界は、乾隆帝時代に確定した清朝最大版図を継承し、「元来の明朝期の中華文明エリアを遥かに超える帝国的枠組み」を堅持して今日に至っている。
次項では「イスラム世界秩序の崩壊」を「オスマン帝国崩壊」の枠組みを援用しながら捉え直し、なぜ「西洋の衝撃」の中で「イスラム世界秩序が崩壊」したのか、について以下のリンクのように検討していく。また「オスマン帝国指導層」あるいはトルコ民族が最終的に選択したトルコ共和国の成立の意味を「帝国としての中華」の在り方と比較しながら考えていきたい。

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国のようなイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

参考文献
(1)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第8章中東諸国家の性格 p200
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第8章中東諸国家の性格 p200
(3)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p18
(4)王柯:「天下」を目指して 農文協 2007 第一章 「天下」のもとでの華夏と四夷 p13
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p19
(6)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p20
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p20-p21
(8)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第16章対応と反発 p427
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p21
(10)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第16章対応と反発 p428

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

スレイマン大帝

ロシアンゲート疑惑の渦中にいるトランプ大統領は、初の外遊先に中東を選びましたが、具体的な中東和平の道筋を示さなかったため関係者間に失望の色も出ているようです。ここでは今後の中東和平のカギとなるオスマン帝国によるイスラム世界秩序安定と崩壊のあり様を検討します。

今回は、主として西洋の衝撃および帝国内の臣民の民族意識の高揚等を主たる要因として取り上げつつ、イスラム世界秩序とオスマン帝国の解体過程を確認していきます。

1.西洋の衝撃はどのような形をとったのか?
1)軍事的政治的脅威以外の要素の影響
2)イスラム世界における民族意識の状況
3)西洋思想の影響による愛国心と民族主義の発揚
2.イスラム世界秩序を体現するオスマン帝国への西洋思想の浸透
1)徐々に浸透する西洋思想
2)バルカン半島の非ムスリム諸国民に浸透する西洋思想
3)ギリシアの独立とその影響の連鎖
3.西洋の衝撃に対応するオスマン帝国側の西洋化改革
1)タンズィマート=オスマン帝国内で本格化する体系的改革
2)明治維新に類似するタンズィマートの方向性
3)タンズィマートの目指したゴール

1.西洋の衝撃はどのような形をとったのか?

1)軍事的政治的脅威以外の西洋の衝撃の影響

オスマン帝国分裂

西洋の衝撃は、外側からの軍事的政治的脅威という要素のみでなく、オスマン帝国の臣民の意識にも影響を与えることとなった。
もともとオスマン帝国においては、各構成員の民族意識は希薄であり、イスラム的な世界帝国の一員として、ムスリム、非ムスリムの両者にとって宗教にアイデンティティの核が存在し、民族や人種は後景に退けられていた。こうした中で、18世紀以降の西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国では、イスラム的世界帝国の概念に揺らぎが生じ、構成員とその所属する集団の枠組みにも徐々に変化の兆しが現れ始めた。(1)

2)イスラム世界における民族意識の状況

カーバ神殿

伝統的なイスラム世界では、キリスト教国と同様に国民と国家はしばしば民族と地域の同義語だった。中東のイスラムの三大民族であるアラブ人とペルシャ人、トルコ人は自分たちの言語や文学、歴史や文化、共通と推測される起源、独特の風俗やしきたりを誇りをもって意識していた。自分たちの出生地への素朴な愛着もあった。郷土愛、地元自慢、郷愁は西欧文学と同じようにイスラム文学でもおなじみのテーマであるが、そこには一切の政治的メッセージは含まれていない。
西欧思想が入ってくる前は、民族や民族の郷土が政治的主体や支配力を持った存在であるという思想が認められも、知られてもいなかった。ムスリムの存在基盤はあくまでも信仰であり、その忠誠心は信仰の名において支配する支配者や王朝に帰属していた。(2)
あくまでもムスリムのアイデンティティにとって信仰が第一義であり、郷土愛や地元への愛着・郷愁はあってもそれは感傷的なもので、政治的な信念や忠誠心にまでつながるようなものでは無かった。これが西欧思想の影響で大きく変化することになったのである。

3)西洋思想の影響による愛国心と民族主義の発揚

イスラム愛国心

愛国心と民族主義は、イスラム世界にとって異質な存在であった。
愛国心とは、単なる出生地への素朴な愛情ではなく政治的なもので、必要とあれば自国への兵役義務を負い、要求があれば政府に金も出すという西欧文明に深く根ざした感情である。英仏米では愛国心は「国内の多様な人種を同じ国民的忠誠心のもとに統一すること」「真の唯一の主権の源は教会でも国家でも無く、国民にあると言う強い確信をもつこと」という二つの思想に結び付いている。また民族主義とは、国家や身分ではなく、「言語」「文化」「共有の出自」などで定義された「民族国家」という概念に繋がる思想であり、日常の現実に当てはまり易く、中東の現実にもぴったり当てはまった。特に民族主義は、中東に紹介されると自由を主張する反体制運動に結び付いた。自由とは外国の支配や分割統治に終止符打つことであり、民族の独立と団結を達成することを意味した。(3)

2.イスラム世界秩序を体現するオスマン帝国への西洋思想の浸透

1)徐々に浸透する西洋思想

ギリシア独立
こうした思想の浸透は、幕末の黒船に似た衝撃がイスラム的世界帝国にも遂に押し寄せてきたということでもあったろうが、この場合の衝撃は極東のビッグバン的なインパクトとしての衝撃よりも、ジワジワとボディブローのように浸透してきたというべきだろう。既述の通りオスマン帝国は西欧諸国と近接しており、通商関係や外交関係の往来は確立していた。こうした中でオスマン帝国への西欧思想の影響はまず バルカンのキリスト教徒臣民の間に浸透していくこととなった。

2)バルカン半島の非ムスリム諸国民に浸透する西洋思想

メフメット二世

西洋の衝撃の主体である西欧諸国は、当時グローバルシステムとなりつつあった近代西欧国際体系のもとで、基本単位としてネーションステートを構成していたが、このネーションステートの構成のアイデンティティの核はいわゆるナショナリズムにより支えられていた。一国民一
民族一国家というような方向性を標榜する近代西欧におけるナショナリズムの影響は、特にバルカン半島の非ムスリム臣民の中にいち早く浸透し、イスラム的世界帝国としてのオスマン帝国の解体を促し、近代西欧の国家のありようをモデルにしたネーションステートを形成していこうという民族独立運動が盛んになっていった。(4)
バルカン半島のキリスト教徒臣民は、「啓典の民」としてムスリム共同体との契約により、人頭税(ジズヤ)や土地税(ハラージ)の支払い
及び一定の行動制限に服することを条件として、保護(ズィンマ)が与えられた被保護民(ズィンミー)として固有の宗教と法と生活習慣を保ちつつ、イスラム法の許容する範囲内で自治生活を営むことが認められていた。(5)
このような「啓典の民」が、自分たちのアイデンティティに目覚める過程でオスマン帝国はその存立基盤を徐々に犯されていくことになっ
た。

3)ギリシアの独立とその影響の連鎖

バルカン独立
特にギリシア人は、オスマン帝国支配下にあっても伝統的に通商や留学を通じて西欧とのつながりが深かったため、他より早く18世紀後半にナショナリズムが高揚し、19世紀にはほぼバルカン全域がナショナリズムに呑み込まれた。
これらの動きはバルカンの諸民族が、主権平等のネーションステートを成立させ、グローバルシステムとしての近代西欧国際体系に積極的に参加していこうとする民族独立運動につながり、1830年のギリシア独立以降は19世紀から20世紀初頭にかけて続々と独立に成功していくことになった。(6)

3.西洋の衝撃に対応するオスマン帝国側の西洋化改革

タンジマート

1)タンズィマート=オスマン帝国内で本格化する体系的改革

西洋の衝撃が、外からの軍事的政治的脅威に加えて、内からのキリスト教徒臣民のナショナリズム覚醒と民族独立運動の発展という脅威として作用してきた中で、18世紀終わり以降にオスマン帝国側においても従来の伝統主義的な小手先の改革を放棄した、本格的な西洋化を目指す体系的な改革が行われ始めた。(7)
オスマン帝国支配層も復古主義的な改革だけでは、これまでに無い多様な危機に対処してオスマン帝国の質的改善に取り組むのに不十分であるという認識にようやく至ったということであろう。
タンズィマートと呼ばれる一連の体系的西洋化に基づく改革は、開明的な実務官僚によって担われたが、彼らは自らもフランス語を中心とする西欧諸国語に通じ、西欧諸国に駐在経験を持つ直接の西欧経験を持つ人々であった。(8)

2)明治維新に類似するタンズィマートの方向性

明治維新

日本の明治維新期においては、伊藤博文をはじめとする元勲クラスの多くの藩閥官僚が西欧への留学経験を持っていた。しかるに、清朝の儒家正統系の科挙官僚や満洲旗人にそのような海外体験を持った存在を目にすることは困難であった。そういう意味では、オスマン帝国のタンズィマートは、その結末はともかくとしてより本質的で西欧の実態を把握した上での根本的な改革を志向する明治維新にも類似する画期的なものであったと受け止められよう。一方で清朝における改革が西洋の発展の本質を十分に理解しないまま行われた、小手先のものにとどまった理由もこのあたりにあるかも知れない。ただし、これは長期的に観れば正解だったとも言えるのではないか。結果的に、「オスマン帝国は、イスラム的な本質を見失って解体崩壊消滅の道を辿った」(9)のに対して、中華帝国は頑迷固陋なまでに西洋との距離を保ち続けながらも結局「従来の中華文明エリアをはるかに超える清朝最大版図を継承して中華帝国としての一体性を維持」することに成功している。また西洋と距離を置くと言う意味では、「天安門事件において明確になった今日の議会制民主主義への中国共産党の独自の認識」(10)にまで行きつくのではないだろうか。

3)タンズィマートの目指したゴール

ケマルパシャ
オスマン帝国のタンズィマート推進者達にとっては、支配組織の合理化を通じて直接の軍事的政治的外圧に対処しつつ、帝国領内の非キリスト教徒臣民のナショナリズムと民族独立運動による帝国解体の危機にいかに対応するかが喫緊の急務であった。この時の対応策として、西洋化の推進者達はオスマン帝国の構成員のアイデンティティを宗教におくイスラム的世界帝国から世俗的多民族国家に転換することを目指した。(11)

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国が確立していたイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

参考文献
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p59
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第17章新しい思想 p458
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第17章新しい思想 p458-p460
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p59-p60
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p18
(6)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p60
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p60-p61
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p61
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p65
(10)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p198
(11)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p61