⭕️天安門事件の鎮圧は鄧小平の文革状況への恐怖により過激化した!

2023年6月10日

1949年に成立した中国の現体制にとって最大の黒星として刻印されている天安門事件(=天安門広場における武力行使)の一つの真相としては、走資派としての鄧小平がかつて自らも重大な被害を被った文化大革命のような大混乱の再現を恐れたという一点で、改革開放を牽制し趙紫陽らの失脚を狙う保守派と利害が一致したことがあるとの見立てもありますが、ここでは鄧小平らの改革姿勢やそれに対する国内各層の反応、及び体制の不安定要因等を整理し、天安門事件の背景を考察していきます。

中国共産党統治と伝統的な統治体制の相違点

中国共産党による人民民主主義革命で何が変化したのか?

伝統的な支配と本質をほぼ同じくするかに観受けられる中国共産党支配であるが、以下の3点については従来型の体制と趣を異にするところも生じてきている。(1)
・第一に血縁的原理を退け、才能による指導を基本とする発想が生じた。有力者の血縁と言うだけではカリスマ性が生じず、原理的には学歴・能力・指導力が優先する形となった
・第二に指導者は人民大衆から学ばなければならないという発想が生じた。このような人民大衆重視の姿勢はあくまでも啓蒙専制の枠内のことではあるが、伝統的専制の考え方からするとからすると画期的であり、人民大衆に刺激を与え、政治参加を促し、基層幹部層を厚くすることに役立った。
・第三にカリスマ的な権威の所在を個人から共産党組織に移す努力が行われたが、プロレタリア独裁が本来個人ではなく共産党組織によっておこなわれるはずであったので当然の行き方ではあったが、これは結局は上手くいかなかった。 結局は「毛沢東思想」という個人のカリスマ性に立脚するイデオロギーを組織としての党の権威の上に置くことを余儀なくされ、大躍進から文化大革命に至る混乱の過程で毛沢東自身の権威も共産党の権威も打撃を与えられることとなった。

文革後に鄧小平体制が目指していたもの

そうした中で、改革開放後の鄧小平主導体制下においては、文化大革命後の混乱を収拾するためにも民主と法制の整備が急務となった。このため党はまず選挙の意味を浸透させ、人民大衆の政治参加の実績を積み重ねようとした。また法制の意義についても人民に判り易く説明し、対等の人間同士の関係を合意に基づいて律する法体系を整備していこうとした。(2)
このように、鄧小平体制は、慎重な歩みながら、経済面の改革開放だけでなく、政治面の民主化に関しても取り組みを開始しつつあったことは、注目すべきであろう。

鄧小平体制による民主化に向けた取り組み

文革的混乱を最大限警戒する鄧小平体制

こうした状況を推進するために鄧小平体制においては、慎重に民主と法制漸進の課題に取り組むこととした。これは文革直後ということもあり、タガが外れた場合の人民大衆の暴動や革命起義を恐れる指導者が多かったことにも由来する。(3)
鄧小平本人を始めとして、文革=人民大衆のエネルギーの恐ろしさも身を持って、肌で感じた指導者も多く、民主の行き過ぎによる混乱には人一倍警戒心が強かったことも間違いないところであった。
鄧小平体制の基本的スタンスは伝統的啓蒙の要素を含んだ「指導民主主義」であり、鄧小平はあくまでも政治制度の改革ではなく、指導制度の改革を提起した。文革で傷ついた党の権威を回復し、これを個人のカリスマの的権威の上に置くことを目指した。西側の政治スタイルである三権分立については、混乱を生じ、党の信用が失墜し、安定と団結を損なうものとして排除された。(4)

鄧小平体制での民主化の一定の成果

結局、鄧小平指導下における政治面の改革は、西側先進諸国の民主主義をモデルにするわけではなく、あくまでも中華世界の現実に合わせた特有の制度を構築する形を取らざるを得なかった。
このような鄧小平体制の指導民主主義に基づく改革において、党主席制度が廃止され、1982年憲法においては「組織や個人が憲法や法律を超える特権を持つことを否定」され、幹部の若年化、専門化がはかられ、老幹部の引退が促進されるなどの漸進的な成果が観られた。(5)

鄧小平体制による政治改革に対する国内各層の認識

長老、特権的幹部、先鋭的知識人からのの鄧小平の政治改革への反発

このような六四天安門事件前後に至る鄧小平指導下の政治改革は、必ずしも多くの人民大衆の支持を受けることが出来なかった。
改革によって被害を被る長老や特権的幹部の抵抗は激しかったし、他方で積極的な改革を望む人々は鄧小平の指導民主主義スタイルや「ブルジョア自由化反対」の態度に反発していた。

人民大衆=農民の鄧小平改革への認識

そうした中で人民大衆特に農民は鄧小平改革をどのようにとらえていたのであろうか。
基本的な状況としては、農民は押し並べて共産党員や幹部を昔ほど信用してはいないし幹部の不正を疑う人も多いが、幹部や共産党員が彼らの基準からして「良い人」である限り比較的従順にその指導に従っていたと言えよう。また党員の側でも農民の集団主義や愛郷心を利用してその影響力の浸透を図っており、このような状況下においては正常な生活を営んでいる農民の間からは現在の指導体制に対する批判も起きてこない半面、鄧小平の政治改革に対しても関心のが低いのが実態である。縁者びいきなども農民にとっては当たり前であり、農民の願いは現体制による秩序と安定であって急激な変化を望んでいるわけではない。この段階において農民大衆は人口の90%に達しており、その動向は政権に深い影響を与えたし中央の指導民主主義体制を支えていた。(6)
このように中国共産党やその幹部に対する農民層の支持は、積極的とは言えない状況になっていたが、農民層の政治的な願いが、あくまでも「急激な民主化や大胆な政治改革」とは無縁の「現状の維持と秩序の安定」であった以上は、農民層にとって「現体制の中核である鄧小平指導部への支持」は、実質的な強固なものであった、と言えるだろう。

鄧小平指導部の警戒する体制混乱の要因

流民の増大と反対派の知識人の一体化への懸念

問題は増大しつつある流民であり、彼らは急速な経済改革の進展と局部的な挫折と混乱の中で揺れ動いていた。その数は1989年当時5000万以上と言われ、大半が不安定な状況に置かれ、一部(数百万人)は反権力的な「暴徒予備軍」の状況にあり中央の指導部が重大な警戒心をいだいていた。こうした中では、鄧小平体制から見れば、方励之のような人物の反対意見や多元的流派の存在を認めるべきとの要求は危険なものと映った。これは西側民主主義制度の導入要求であり、同様な改革を求める都市知識人や学生を煽り、指導民主主義の否定から中国伝統の政治スタイルを覆すところまで至る、というのが党中央の判断であった。また方励之の言動に触発され都市流民の反権力衝動や暴徒的エネルギーが点火されれば、軍隊や警察の物理的強制力使用が必要になりかねないとの危機感もあった。(7)

天安門事件に至る鄧小平指導部の体制の脅威への警戒感

天安門事件直前の段階での鄧小平体制にとっての脅威は、数百万人の不安定な状況に置かれた都市流民と西側民主主義を直接導入することを主張する方励之らの知識階級であり、この両者が連動して大規模な暴動が発生した場合には、軍・警察を動員してでも、現体制を維持すると言う必要性が認識されていた、と言えよう。

天安門事件での武力弾圧に至る条件の確認

鄧小平体制で一部容認されていた改革派のスローガン

一方で当初の段階では、鄧小平体制にとって天安門に集結した学生・知識人の「言論の自由と官倒反対」という要求はどうしても受け入れられないものであったわけでもないと想定される。なぜなら、党や政府の指導部も公式には条件付きで「言論の自由」や「官倒反対」を認めている立場であったからである。

天安門事件に直結する状況の整理

とはいえ、「天安門に集結した学生・知識人」の「言論の自由と官倒反対の要求」の帰結が、党や政府の権威を失墜させ党の全国に対する道義的な統制力を危うくするわけにはいかなかった。また少なくとも党の最大支持基盤である農民大衆は党指導部が学生・知識人の要求に歩み寄るような動きを支持しているわけでもなかった。(8)
こうして天安門事件に至る伏線が徐々に形作られていくことになった。

鄧小平による天安門事件での民主化運動の武力弾圧は中国共産党一党独裁体制維持のため必然の帰結である!

天安門事件=体制転覆の危機で表面化した改革開放の象徴としての鄧小平と中国共産党による一党独裁体制の本質!

<参考文献>
(1)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 P107
(2)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p110-p111
(3)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p111
(4)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p111
(5)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p112
(6)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p113-p114
(7)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 P114
(8)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p115