雍正帝

トランプ大統領の移民政策のモデルは雍正帝が大義覚迷録で強調した中外一体,華夷一家,大一統である!

大義覚迷録

アメリカ市民のための適切な国境管理とルールに従わない不法な侵入者への対策、無差別なテロの脅威への積極的な対処などを基調とするトランプ大統領の移民政策は、大義覚迷録で雍正帝が論証した中外一体や華夷一家、大一統を中心とする清朝の異民族支配体制や中華帝国正統支配者としての統治原理をモデルとする。

1.清朝の中華帝国支配者としての地位の正統性をめぐる課題
 1)華夷思想を止揚する論理の構築の必要性
 2)清朝における思想弾圧の限界
 3)雍正帝による教育を主体とした思想改造の試み
2.華夷思想に反駁する清朝の中華帝国支配正統性の論理としての「大義覚迷録」
 1)雍正帝による華夷思想への反駁の切り札=「大義覚迷録」
 2)「大義覚迷録」の体裁とその狙い
 3)「大義覚迷録」に観る華夷思想への反駁の論理
 4)清朝による最大版図実現の強調
 5)天命を請けた清朝皇帝のとるべき道

1.清朝の中華帝国支配者としての地位の正統性をめぐる課題

1)華夷思想を止揚する論理の構築の必要性

科挙試験

康熙帝から雍正帝にかけての時期に清帝国の独裁体制は完備されてきたが、政治思想においては、満州人が中華に対する外夷と漢人から称されれば、清朝皇帝の支配正統性は失われることになりかねない。漢族を中心とする「中華文明世界」の再興を標榜していた明朝の後継として中国内地の統一・支配を達成した清朝にとっては、この明朝期に強化された華夷思想(中華思想)は、とりわけ大きな政治思想上の重大問題となった。(1)
このように清は、その支配体制を確立し、支配領域の拡大に成功しながらも常に「中華帝国の支配者の地位の正統性」を巡っては、特に政治思想を牛耳っている漢人士大夫層との間に緊張関係を孕み続けていたと言えよう。清の支配が安定的に確立するためには、この漢人の「中華思想」をどのように止揚して新たな論理を構築するかが課題となっていた。

2)清朝における思想弾圧の限界

雍正帝22

清朝の支配者である満州人は、出身が漢人から観れば「外夷」であることは事実であり、この事実は清の武力がいかに強くても解決出来ない相談であった。また清朝がどれほど中華としての体制を整備しようとも、漢人の納得は得られないであろう。
「文字の獄」による思想弾圧の効果もあまり上がっているとは言えず、むしろ対象者は拡大する一方であり、力と恐怖による弾圧は継続し過ぎると逆に日常化と慣れにより効果が減少するばかりであった。
また「文字の獄」による連座的な弾圧は深い恨みを増幅するばかりで、国力が低下すれば弾圧そのものも難しくなる。(2)
このような武力による思想弾圧の効果の限界を見据えて、雍正帝はどのような手を打つことになるのであろうか。

3)雍正帝による教育を主体とした思想改造の試み

聖諭広訓

こうした情勢において雍正帝は、主として教育による思想改造を試みようとした。
中華世界の精神的柱となっている儒教は、思想改造の典型であり、その影響が政治・社会まで及んだ世界でも類のない例外的な存在である。宗教に限りなく近いほどの影響力を中国社会の隅々にまで及ぼす、この儒教の影響に類似するような思想を皇帝自ら展開して、上からの思想改造を貫徹することを雍正帝は目指すこととなった。(3)
時間はかかるが、永続的でより深い影響を社会全体に及ぼすべく教育という手段を雍正帝は選択したわけであるが、これは現代中国においても反日教育や愛国教育による体制維持補強策として採用されている施策と類似しているとも言えようか。
人民大衆への思想改造教育としては既に先帝康熙帝が、「聖諭広訓」を作成し、郷村で唱えさせ、中央から強制させる形で民衆の教化を推進していたが、その効果は今一つ上がっていなかった。そこで雍正帝は、民衆の上に居て大きな影響力を持つ読書人や文官などの士大夫層への教化を推進すべく、君臣の道や王朝の大道まで視野に入れた華夷思想を克服する論理を展開しようとした。華夷思想が何世紀にもわたって華から夷に対して突き付けられてきた民族主義的政治思想であるとすれば、夷の側から華に対して正攻法で理論的に反論する政治思想を展開しなければならない。(4)

2.華夷思想に反駁する清朝の中華帝国支配正統性の論理としての「大義覚迷録」

1)雍正帝による華夷思想への反駁の切り札=「大義覚迷録」

大義覚迷録
このような観点に立って、雍正帝は夷の側から華に対して清帝国の中華帝国支配正統性の論理を展開し、それまで「中華世界」で繰り返し説かれてきた華夷思想に反駁する政治思想を確立すべく著したのが「大義覚迷録」であった。
「大義覚迷録」の意味は、雍正帝の大いなる徳によって清朝の正統性に疑義を持つ不逞の輩の迷いを覚まさせる記録ということであり、これは雍正帝が開いた御前裁判の記録となっている。この「裁判」の被告は朱子学の流れを汲み、強い反清思想を唱え、今は亡き呂留良の思想に影響されて、実際に反清運動を展開していた曾静らであり、弁護士はなく、検事も裁判官も雍正帝自らが、その任にあたった。(5)
このような裁判記録は古今東西でも異例であり、いかに西欧の啓蒙専制君主といえども、国民を教化するために自ら裁判を行い、その記録を公表して国民に宣布するというような施策を行っていない。
こうしてみると、実は本当の意味での啓蒙専制君主とは、プロイセンのフリードリヒ大王らではなく、雍正帝のことであるかもしれない。

2)「大義覚迷録」の体裁とその狙い

正大光明

雍正帝が、敢えて上諭として自分の考えを公布することなく、「公平」な裁判記録という体裁を取ったのは、反清運動の当事者に自己主張させた後、雍正帝の理論に屈服させ自己批判させることで、清朝の正統性を認めさせた方がより説得力があり、中華世界の各界各層に受け入れられる可能性が高い、と認識していたのが、その理由である。(6)
確かに絶対的に優位な立場にあるものの独りよがりの理論よりは、反対者と議論して相手が説得され納得した上で自己批判して受け入れられた理論の方が説得力があるだろう。このような手続きを採用する雍正帝の卓見と論理性の高さは、やはり清朝極盛期を現出するに相応しい才能を感じざるを得ないところである。
全四巻からなる同書には、上諭10篇、雍正帝の尋問に対する曾静の供述47条の他、謂わば改心した曾静による自己批判の始末書ともいうべき「帰仁説」などが収められている。(7)

3)「大義覚迷録」に観る華夷思想への反駁の論理

董仲舒

それでは、ここから「大義覚迷録」の内容について検討してみよう。
まず呂留良の思想については、以下のように一刀両断している。
「逆賊呂留良らは夷狄を禽獣のようにみている。かれらは未だにわかろうとしていない。上天は中国内地に有徳のものがいなくなったので、これに嫌気がさして放棄したのである。そのため我々外夷を中国内地の君主にしたのである。逆賊呂留良らの論に従えば、これは中国を皆禽獣とみなすことと同じではないか。どうして、内を中国とし、外を夷狄とするのか。自分をののしるか、人をののしるかに過ぎない。」(8)
これは天命論に従えば、天命の喪失(天子の失格)はただちに皇帝の地位を失う(9)ということになるので、中国内地に有徳のものが居なくなったのであれば、漢人が天命を喪失し、外夷に天命が降って皇帝の座が譲渡される、という議論につながってくるだろう。
このように雍正帝は、中華文明伝統の天命思想を援用しながら華夷思想に反駁を試みている。

4)清朝による最大版図実現の強調

長城

次に中華帝国大一統の領域については、「昔から断絶することなく継承されてきた中国一統の領域は、もともと今のように遠くまで広がっていたわけではない。ただその領域の中にあるもののうち、中国化しようとしなかった者がいると、これを夷狄として排斥してきた。漢、唐、宋の全盛時代に北狄や西戎が代々にわたって辺境の患を成したことがあった。これは彼らが、いまだこれらの王朝に臣下として服従しておらず、彼らの領域やこちらの領域といった区分が存在していたためである。我が清朝が君主となって中国内地に入り、天下に君臨して以来、モンゴルを併合したことで、極辺に居た諸部族はすべて版図に帰服した。これは中国の領土が開拓され、遠くまで広がったことに他ならない。このことは、中国の臣民にとっての大いなる幸以外のなにものでもない。どうしてなおも華夷、中外の区分があるなどと論じる意味があるのであろうか。」(10)とし、新たに天命を請けた外夷出身の清朝のおかげで中華帝国大一統の領域が歴史上空前の広がりを持ち、中華の人々に恩恵をもたらしていることを強調している。
特に明朝が苦しめられたモンゴルを併合した(11)ことの意味は大きく騎馬民族を堰き止める万里の長城の軍事要塞としての意味はもはや無くなっていった。

5)天命を請けた清朝皇帝のとるべき道

天命 皇帝

天命を請けた君主の取るべき道としては、「君主になった者が取るべき道は、まさに民を赤子のように慈しむことである。臣下となった者が取るべき道は、まさに君主に父母のように仕えることである。もしも子供が父母から虐待されれば、当然恨み逆らうであろう。我が清朝における君主は、須らく父母が赤子を慈しむように民に接する道に徹してきた。それにもかかわらず、逆賊らはなおも密かに中傷誹謗の限りを尽くし、君主がその道を知らないと言い続け、いわれのない反抗を続けている。」(12)
このように新たに天命を請けた清朝のもとで、それまでの夷の領域だった外部世界も含めて広大なエリアが、中国の領域に組み込まれ、長城は建設された時点の防衛的な意味を喪失することとなった。このように中華帝国領域内で「華夷一家」が成立してしまえば、清朝の支配の正統性は天命を請け続ける資格があるか否かに還元されるが、清朝の天子の政治は臣民を赤子のように慈しんでいるので、当然ながら天命は維持され続けるとの主張である。夷狄としての満州人皇帝による華に対する政治的反駁は、このように説得力ある形でなされたのである。

尚、雍正帝が大義覚迷録で論証した世界帝国としての本来あるべき異民族統治政策については、以下のリンクでも取り扱っております。
大義覚迷録で雍正帝が表明した異民族統治政策はトランプの大統領令より,遥かに寛容である!

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p134
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p134
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p134
(4)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p232
(5)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p218
(6)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p219
(7)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p220
(8)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p220
(9)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p221-p222
(10)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222
(11)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222
(12)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222

米中冷戦の渦中に独裁者を目指す習近平の理想は清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服と完璧な帝国統治の再現である!

Great China

新しく中国の事実上の皇帝となった習近平が目指すモデルで、ヒトラーやナポレオンの侵略より遥かに永続的で、トランプ大統領も評価する清朝極盛期の征服活動に関して検討する。
この時の侵略は中国にチベット,ウイグルの少数民族問題を発生させたが、清朝が極盛期に中華帝国領域=中国領土の拡張政策の要因を、蒙古騎馬兵力確保の視点を中心に、中華的価値観とは別個の視点から遂行された状況を明らかにする。

ここでは、2014年3月に訪独した習近平にメルケル独首相が贈った18世紀前半の中国古地図には、掲載されていなかった清朝の領土拡大のあり様を取り上げる。

1.清朝がモンゴル、チベット、新疆への中国領土拡大に着手した要因
 1)モンゴル騎馬兵力との同盟に向けたチベット仏教との関係強化の必要性
 2)清朝皇帝にとっての中華文明以外の価値の戦略的重要性
2.新疆エリアの混乱収拾とモンゴル騎馬兵力安定統治のためのチベットエリアコントロールの重要性
 1)新疆エリアの混乱とチベット仏教勢力の不安定化
 2)モンゴル騎馬兵力安定統治に向けたチベットエリアの混乱の収拾に向けた動き
 3)チベット平定とジュンガル平定による新領土の「新疆」命名
3.清による中国領土拡大過程と支配正統性の根拠の特殊性
 1)「中華文明的価値」に左右されない中国領土拡大方針
 2)モンゴル・チベットエリアにおける支配正統性の根拠
 3)チベット仏教側の支配正統性の原理としての「転輪聖王」

1.清朝がモンゴル、チベット、新疆への中国領土拡大に着手した要因

チベット,ポタラ宮

1)モンゴル騎馬兵力との同盟に向けたチベット仏教との関係強化の必要性

清朝が中国領土の拡大に着手したのは、清がモンゴルの騎馬兵力を同盟に引き込んでいく過程で、必要となったチベット仏教の正統な保護者の座を巡る主導権争いに端を発していると言えよう。
モンゴル高原は当時ダライ・ラマを政教の中心とするゲルク派チベット仏教が席巻しており、モンゴルの王侯貴族が清の皇帝を「ボグド・セツェン・ハーン(神武英明皇帝)」として、モンゴル共同のハーンとしても承認するためには、清の皇帝が文殊菩薩と仏教への帰依に基づいてモンゴル人が信仰するダライラマ及びゲルク派のチベット仏教を名実ともに保護することが大前提となった。
このような状況をうけて、清の皇帝がゲルク派の指導者であるダライラマに対して畏敬と尊崇の念を公式に明らかにする場を設定することが、政治的パフォーマンスとしても必須の課題となり、当時の皇帝ホンタイジは同時代のダライラマ五世を首都盛京に招くべくチベットに親書を送った。ホンタイジの死によりダライラマ五世との会見は実現しなかったが、ホンタイジの後継者たる順冶帝はダライラマ五世に改めて親書を送り、その誠意を伝えた結果、遂にダライラマ五世と順治帝の会見が1652年に北京で実現した。
順治帝はこの時に青海方面までダライラマ五世を出迎えようとしたものの天変地異や政治情勢の緊迫化等のため、結局北京での会談となった。順治帝はダライラマ五世への礼儀を重んじ北京城外まで出迎える等可能な限り礼遇して皇帝とチベット仏教との関係の深さを強調した。尚、北京の北海の白塔はこの時の会見も踏まえて順治帝が建立したと言われる。(1)

2)清朝皇帝にとっての中華文明以外の価値の戦略的重要性

順治帝
清朝皇帝は、このようにモンゴル騎馬兵力を取り込むことの布石の一環としてチベット仏教に接近した。このことは、「儒教・漢字」をベースとする「中華文明」とは異なる価値への清朝のアプローチが戦略的でかつ必須の課題であったことを物語っている。また清朝は、単に「中華文明」に取り込まれる存在と言うだけではなかったということの証左にもなるだろう。

2.新疆エリアの混乱収拾とモンゴル騎馬兵力安定統治のためのチベットエリアコントロールの重要性

モンゴル騎馬軍団

1)新疆エリアの混乱とチベット仏教勢力の不安定化

その後、新疆エリアにおいて西モンゴルの一部族であるジュンガルが台頭し、康煕帝時代から乾隆帝時代にかけて清との抗争を繰り広げるが、この清とジュンガルの争いにチベット仏教も巻き込まれることとなった。すなわち康煕帝時代にジュンガルの指導者ガルダン・ハーンがダライラマ勢力と連携して清に対抗しようとして敗退したが、その後にはダライラマ五世の没後に後継者となったダライラマ六世が放蕩に走ってしまった。これをうけて清とその協力者が「別のダライラマ六世」を擁立したところ、亡くなった「放蕩のダライラマ六世」の生まれ変わりの正統なダライラマ七世を担いだ人々が、清の皇帝に「放蕩のダライラマ六世」廃位取り下げとダライラマ七世の承認を求めるというような事態が発生した。(2)

2)モンゴル騎馬兵力安定統治に向けたチベットエリアの混乱の収拾に向けた動き

モンゴル騎馬軍団222
このように当時のチベット仏教は政治に翻弄されている状況が明らかであるが、同時に清朝皇帝も活仏としてのダライラマの正統性と転生の真実性に振り回されている有りようも認められる。モンゴル騎馬兵力を安定的に統治するためにもチベット仏教を完全にコントロールすることが、重要な政治課題であった清朝皇帝としてはこのような事態は可能な限り素早く収拾することが急務であった。
この時にはジュンガルのツェワン・アラプタンがラサへ侵攻しようとしているという状況が重なり康煕帝としても「ダライラマ六世」を巡る面子の問題とともに、ツェワン・アラプタンの軍事的政治的な脅威に対抗する必要に迫られ、「ゲルク派仏教を保護するのがジュンガルではなく清の皇帝である」ことをモンゴル・チベット全域に知らしめるべくラサに進攻することを決定し、併せて面子の問題は一先ず置いてモンゴル・チベット人の意向に沿う形で「放蕩のダライラマ六世」の復権と「ダライラマ七世」への権威の委譲を承認することとした。1720年の段階で後の雍正帝の皇子時代に推進された清のチベット平定作戦は、成功裡に終結し、モンゴル・チベット人の間で「文殊菩薩皇帝」の権威が確立した。(3)

3)チベット平定とジュンガル平定による新領土の「新疆」命名

ジュンガル平定
このように清朝皇帝によるチベット平定作戦は成功したが、清朝側もダライラマの正統性を巡ってモンゴル・チベット人側の主張を受け入れるという妥協を強いられた。清朝皇帝も上辺だけの介入では通用しないことを把握し、現地の内情を踏まえてチベット仏教信徒の意向を重視しながら果断に武力を行使することで、名実ともに「文殊菩薩皇帝」として敬愛される道を選んだと言えよう。
この後、乾隆帝は雍正帝時代の繁栄と倹約を通じて実現した空前の国庫の充実を背景にジュンガルの残党を徹底的に掃討し、ジュンガル及びタリム盆地のイスラム教徒を完全に清の版図に組み込み、新領土を「新疆」と命名した。(4)

3.清による中国領土拡大過程と支配正統性の根拠の特殊性

十全老人

1)「中華文明的価値」に左右されない中国領土拡大方針

このような過程で清は中国領土の拡大に成功するわけであるが、この領土拡大の過程で「儒教や漢字の優越」と言ったそれまでの「中華文明的価値観」が有効に働いた形跡が、あまり認められないのは紛れもない事実、と言えそうである。あくまでも清はモンゴル・チベット領域を遍く統べるためにゲルク派チベット仏教の保護者の座を目指して軍事的に活動し、必要に応じて政治的妥協も厭わなかったと言えよう。(5)

2)モンゴル・チベットエリアにおける支配正統性の根拠

チベット仏教
すなわち清朝皇帝は、モンゴル・チベットエリアにおいては、中華帝国皇帝の威光に基づき統治したのではなく、この地域の権威者であるチベット仏教の主流派の保護者として振舞うことで正統性を調達したのである。これは清朝皇帝が、明及びそれ以前の狭義の「中華帝国」エリア=中国内地を超越する存在となったために必要不可欠となった新たなる支配の正統性の根拠を巡る動きであった。

3)チベット仏教側の支配正統性の原理としての「転輪聖王」

アショカ王222
チベット仏教の側では、現実の政治的状況の中で具体的な力を持たない仏教勢力の側が生き延びるために権力者の庇護に頼るにあたって、権力者の高潔さや信仰心に関して厳しい基準を設定し、基準を満たした権力者が仏教を保護するために具体的な力を行使することを肯定していた。一般的にはそのような仏教の興隆のために武力を行使する権力者は「正法王」と呼ばれ、その中でも圧倒的な信仰と政治力をもつものは「転輪聖王」と呼ばれた。こうした中で古代インドのアショカ王に対して用いられていた「転輪聖王」の再来として、清の歴代皇帝たちもモンゴル人・チベット人から受け入れられることとなった。(6)
清朝皇帝たちは、そのような仏教を保護する権力者としての資格を得てモンゴル・チベットエリアの人々の支持と畏敬を確保し、それまでの中華帝国が成しえなかった中国領土の新領域への拡大とその長期で安定した支配を実現したと言えよう。

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p141
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p144
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p144-p145
(4)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146

米中冷戦に突入した習近平の独裁は清朝の軍機処の現代版としての中国共産党中央政治局常務委員会が基盤である!

天安門楼上

軍機処

習近平は遂に2018年3月5日に開催された全国人民代表大会で国家主席の任期撤廃を盛り込んだ憲法修正案を発表し、実質的な中華帝国皇帝への道を歩み始めました。ここでは清朝の最高意思決定機関である軍機処の権限とその役割が、現代の中国共産党中央政治局常務員会に脈々と受け継がれていることを清朝極盛期の統治方式から解明していきます。

1.清朝皇帝のチベット仏教保護者としての意識
1)清朝皇帝と従来の中華皇帝の意識の比較
2)清朝皇帝の文化的立ち位置
3)清朝に服属したモンゴル人やチベット人の中華文明への意識
4)モンゴル・チベット・新疆に君臨する清朝皇帝の立場
2.清朝による中国内地以外の新領域支配の実相
1)中国内地以外の新領域の支配状況
2)大一統の原則と礼部、藩部の統治論理
3)清朝の対外関係の論理
3.清朝皇帝の視点から捉える最大版図を実現した中華帝国の実像
1)中華帝国の拡大により鼎立する支配地域の状況
2)清朝皇帝にとっての軍機処の存在意義

1.清朝皇帝のチベット仏教保護者としての意識

1)清朝皇帝と従来の中華皇帝の意識の比較

文殊菩薩
清の皇帝はチベット仏教を保護する「神武英明皇帝」あるいは「文殊菩薩皇帝」としてモンゴル、チベット人から尊敬と服従を確保(1)し、それまでの漢人による中華帝国が成しえなかった空前の中国領土の拡大を実現したが、皇帝自身はチベット仏教に対してどのような認識と位置付けをいだいていたであろうか。
本来中華皇帝は「儒家正統と漢字を中心とする中華文明」の中心として存在し、周辺の文化・風俗に対してはランクの異なるものとして接するのが常であったと思量されるが、果たして清の皇帝はどうであったのか。
清の皇帝が漢文でモンゴル人やチベット人のためのチベット仏教の保護を説明する時は、「易経」からの出典による「神道を以て教を設ける」と言うフレーズを用いるケースが多く、これだけを観れば清朝の皇帝も従来の中華帝国の皇帝同様に「チベット仏教に対する尊崇は、見せかけであり、辺境の民を手なずけるための方便である」と言うようにも読み取れる。(2)
とはいえ、このような観方は「中華」寄りの観方であり、実際のところ清朝皇帝の胸の内がどのあたりにあったかということは、もう少し慎重に検討していく必要があるだろう。
またこのことは、清朝の支配構造やその政権基盤も含めて再確認していく必要があることは言うまでも無い。

2)清朝皇帝の文化的立ち位置

チベット仏教
一方で見方を変えれば、ここでいう「神道」とはチベット仏教のことであり、その力でモンゴル人、チベット人を教化し、平和と安定をもたらしているとすれば、元来の中華文明たる「儒家正統・漢字文化」に依拠する必要もなく、独自の世界観で自足することを認めているとも受け取れるだろう。(3)
こちらの方が、実際に近いのかもしれない。清朝は中華文明エリアとしての中国内地とそれ以外の地域を藩部として区別して支配したが、支配構造だけでなく文化的にも両者を並列的に捉えていたのではないだろうか。
いずれにせよ、清に服属した一般のモンゴル人やチベット人がこの後「儒家正統や漢字文化」を中華文明の精髄としてチベット仏教文化より優れたものとして受け入れたという形跡は観掛けられない。(4)

3)清朝に服属したモンゴル人やチベット人の中華文明への意識

八旗
清朝の支配者の感覚は一先ず置くとしても、モンゴル人やチベット人の側では、中華文明に対して、自分たちの誇るチベット仏教文化が劣っているという認識は皆無であったようである。「中華」と言う概念そのものがモンゴル語、チベット語、ウイグル・カザフ族が用いるトルコ語東部方言には未だに翻訳されていないという。(5)

4)モンゴル・チベット・新疆に君臨する清朝皇帝の立場

五族共和
それでは、中華文明に平伏したわけでもない新領土のモンゴル・チベット・新疆の人々に清朝皇帝が、服従と尊敬を勝ち得て一定の平和を築けたのは何故なのか。答えは既に記述してきたとおり、清の皇帝が新領土に対して中華文明の代表たる「儒家正統・漢字文化」を体現した存在として君臨するのではなく、全く別の顔で「文殊菩薩皇帝」「神武英明皇帝」たるチベット仏教の保護者として現れ「中華文明を押し付けるのではなく、個別の宗教文化を尊重し、保護育成を図った=教を尊重した」(6)ことによるのだろう。すなわち、清の皇帝は中華文明の代表でもなければ、チベット仏教の保護者というだけでもなく、実質的に展開した版図においてそれぞれの文明・文化を尊重し、平和と安定を保証するような存在を目指したのではなかったか。そしてその保証を得るためには版図の住人は、「皇帝の支配を受け入れさえすればよい」(7)のであった。
このように考えると清の帝国としての統治が中華文明と辺境との境界であった「万里の長城」の存在を前時代の遺物に変えてしまう空前の広がりと安定を確保した理由の一端が垣間見えるような気がするのである。

2.清朝による中国内地以外の新領域支配の実相

それでは、ここからは清朝の「中国内地」以外の地域支配について確認していきたい。

1)中国内地以外の新領域の支配状況

大清帝国

清の支配する漢人の「中国内地」以外の地域支配の在り方、枠組みは以下のように各地の実情に合わせて木目細かく設定されていた。
・「旗地」:八旗の旗人に分配された所領
・「盟旗」:モンゴルの王侯が軍事的な義務(定期的な狩猟訓練への供奉)⇒北京への参勤交代(年班)と引き替えに牧民と牧地への支配を認められたもの
・ダライラマ政権とそれに寄進された土地
・「ラマ旗」:チベット仏教寺院領が独立の旗となったもの
・「土司」「千戸長」「百戸長」:チベット高原東部等の各地の部族の長を西南の非漢人地域同様に認知し、小規模な地域支配が認められたもの
・クムル、トルファン:ジュンガル駆逐において清に協力したトルコ系ムスリム王の領地
・新疆のオアシス:イリ将軍の軍事支配の下で各地のトルコ系ムスリム有力者をハーキーム・ベグに任命

上記のエリアと皇帝との関係は、科挙官僚ではなく八旗の軍人を多用して維持されており、明らかに中国内地の漢人地域とは異なる統治が遂行されていた。(8)

2)大一統の原則と礼部、藩部の統治論理

朝貢
ここに取り上げた内容は、これまで中華大一統の原則として取り上げてきている金観濤の「大一統四原則」(9)を大きく逸脱していて興 味深い。また清朝がこのような多種多様な地域をまとめ上げ、拡大版「大一統」を安定的に実現してきた論理について確認しておく必要があるだろう。
また朝鮮や琉球などの朝貢国一般が「礼部」に管轄され儒家正統的な「礼」が、清と朝貢国を結合する原則となっていたが、新領土に関しては「理藩院」の管轄であり「藩部」と総称されており、その関係の基本にはチベット仏教やイスラムの教えを皇帝が保護するという認識が色濃く打ち出され、儀礼や文書に反映された。またロシアやネパールとの関係も朝貢国を取り扱う「礼部」ではなく「理藩院」が管轄していた。(10)

3)清朝の対外関係の論理

理藩院
このように清朝は、国内統治のみならず、対外関係に関しても儒家正統をベースとする「中華」文明の強い影響下の地域とそれ以外の地域で区別していたことがわかる。清朝は国内における「大一統」の維持に関しだけでなく、対外関係においても単なる「中華」の延長線上にはとどまらない「別の顔を持った帝国」としての幅の広さを示していたと言えよう。
このように「礼部」が管轄する「儒家正統・漢字文化・科挙官僚・朝貢国」の伝統中華文明エリアと「理藩院」が管轄する「チベット仏教・イスラム・八旗軍人・現地独自支配の尊重」の新領土エリアが、いわゆる「東南の弦月」「北西の弦月」として清の皇帝の権威と威令の下で異なる統治原理で服属し(11)、長期にわたり安定した清による平和を享受した源泉となった。

3.清朝皇帝の視点から捉える最大版図を実現した中華帝国の実像

1)中華帝国の拡大により鼎立する支配地域の状況

新疆モスク

このような状況を観れば、支配する領域の各地に対して最適な支配機構を誂えることに心を砕いた清朝皇帝が、「儒家正統・漢字文化・科挙官僚」をベースとする中華文明エリア=中国内地のみを清朝の中枢的なエリアとは認識していなかった、と想定出来るのではなかろうか。中華文明エリア=中国内地も藩部としての新領土エリアも等しく清朝皇帝の支配体制の下にあり、「チベット仏教」「イスラム」「儒家正統」というそれぞれの「神道」を以て教を設ける」対象として、それぞれ「モンゴル・チベットエリア」「新疆エリア」「中華文明エリア=中国内地」が存在したというのが、清朝皇帝から観た実像に近かったのではなかろうか。

2)清朝皇帝にとっての軍機処の存在意義


雍正帝の創設した軍機処は、「礼部」と「理藩院」の両者を有機的に結合し、縦割りを排して、清朝全体を見渡しつつ「迅速かつ効果的」な統治を実現するために必要不可欠な役割を担うこととなった。(12)
ここまで観てくると既に明らかなように清朝皇帝にとっての「神道」とは、「チベット仏教」「イスラム教」だけでなく「儒家正統」といえども、その中にスッポリと収まるような膨大な器の容器であったことが観えてくる。
清朝皇帝はこのように「神道を以って、教を設け」つつ、自らは超然と「軍機処」という、清朝内のあらゆる「神道」を超越する最高意思決定機関を通して全てを支配しようとしていた、と言うことになろう。
そのように考えれば、現代の中国共産党中央政治局常務委員会と清朝における軍機処の位置づけの類似性が一層浮かび上がってくる、と言えるだろう。

尚、本稿とも関連する清朝の中華帝国統治方針に関しては、以下のリンクでも取り扱っております。
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服は戦略的な帝国統治政策のモデルケースである!
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆侵略による永続的な中華帝国最大版図拡大実現の背景!

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p150
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p150-p151
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(4)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p153
(7)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p154
(8)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p156
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(10)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p157
(11)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p157
(12)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p158

トランプの移民難民関連の政策方針が目指す理想は大義覚迷録で雍正帝が表明した異民族統治政策にある!

トランプ大統領の移民政策は、アメリカの国論を分断し混乱を助長しつつも、アメリカファーストの理念に照らせばテロや犯罪の増大・治安悪化の脅威の前では市民の安全安心のために必要不可欠と想定されますが、そのモデルは大義覚迷録で雍正帝が表明した中華帝国としての国家像や実態としての清朝の異民族支配状況及び現代に至る拡大された中華領域大一統の貫徹にも直結する共通性が感じられます。

1.清朝極盛期の皇帝による平和の理想の実現
1)清朝皇帝による華夷一家と中外一体の実現
2)辛亥革命以降の中華エリア統治原理と大義覚迷録の連関性
3)「大義覚迷録」の思想の本質と清朝皇帝による平和の実相
2.華夷一家を実現した清朝最大版図統治の複雑性と今日性
1)「華夷一家」の実現から「華夷融合」に至る道筋の険しさ
2)「中華帝国大一統の原理」の適用領域を超える清朝最大版図を支配するための原理

1.清朝極盛期の皇帝による平和の理想の実現

1)清朝皇帝による華夷一家と中外一体の実現

順治帝

清朝極盛期に実現した拡大した中華天下の状況は「中外一体」とも表現された。それでは、「中外一体」とは、どのような意味であろうか。雍正帝の政治思想である「華 夷一家」との関係はどのようになるのだろうか。
「中外一体」という表現は、もともと「中国」であったか「外国」であったかを問わず、いまや皇帝の実力と公正な支配に服して平和を享受する人々はすべて臣民で平等であり、一君万民であることを強調するために唱えられたと考えられる。(1)
雍正帝は、漢民族のエリートに向けて自らの思想を説明する場合も、満州人自身は夷狄であることを否定せず、満州人は漢人から観て「外人」「外国人」であることも認めていた。とはいえ、文化的な出自と人間性や実力との間にはあまり関連性はなく、「華」が儒学や漢字を産み出したからと言って、「華」が「外国」に優越しているという発想自体には特に何の実証的な根拠もないことは、「外国人」たる満州人が「華」を支配し、中国の領土を拡大し、極盛期を現出していることで明らかであった。一人の皇帝のもとで平和を享受する人々を出自の違いで差別する理由も必要も無いというのが、雍正帝の考え方であった。(2)
歴史的にも元は確かに清と同様に「夷狄」が「中華」を支配したが、雍正帝の言うように親が赤子を育てるように丁寧な政治を漢人に対して行ったかというと、大きな相違があったと言えるだろう。元は、西域の色目人を重用し、同じ中国内地でも華北の金の領土の出身者は漢人、最後に服従した華中以南の南宋エリア出身者を南人あるいは蛮子として、法制上は最下級の人民として扱った、ということもある。(3)

2)辛亥革命以降の中華エリア統治原理と大義覚迷録の連関性

明領域

翻って考えてみれば、現在の中華人民共和国の領土が、外モンゴル以外は実質的に清朝の極盛期の版図を引き継いでいるわけであり、この「華夷一家」たる「大義覚迷録」の思想の延長線上に近現代の中国が存在しているとも言えるであろう。(4)
もし近現代の中国がいわゆる「華」にあくまでも拘ったとすれば、その領域的な広がりの限界は、「儒学と漢字をベースとする漢人エリア」にとどまり、せいぜいが満州を除く明朝版図=中国内地を統治するのみであったのではなかろうか。
そういう意味では、雍正帝は清末から辛亥革命以降の「中華民族」概念や「国民国家」中国の概念を先取りしていたのかもしれない。
清朝極盛期の漢人士大夫層が、そのような概念に思い至るのが困難であったのは想像に難くないが、その後も梁啓超の議論が出てくるまでは、有効な「中華の大一統の具体的な理念」が漢人士大夫側から提出されることは無かったと言えよう。(5)

3)「大義覚迷録」の思想の本質と清朝皇帝による平和の実相

清朝皇帝

ここで漢人士大夫層の「華夷思想」に対抗する「大義覚迷録」の政治思想を支える実質的な「清朝皇帝による平和」と「清朝の成功」とは何かを具体的に明らかにしておきたい。

①清朝の支配者である満州人の側に武勇と実力が備わっており、かつ華美や贅沢から離れて質素倹約に努め、政治と軍事の主導権を維持するに相応しい、徳のある存在であり続けること
②反満思想や民族差別が存在しない「真の平等の楽園」が本当に実現していると思われるような状況が現実に存在していること
③清の皇帝のもとで「儒学、漢字を中心とする華」だけでなく、チベット仏教やイスラムなどの宗教的・文化的存在が保護されるとともに、それぞれの存在が独自の有りようを維持し続けることが可能であること(6)

少なくとも、これらの「大義覚迷録」の精神を支える条件は、雍正帝から乾隆帝にかけての清朝極盛期にはかなりの程度満たされており、清朝皇帝が「中外一体」の史上空前の版図を「華夷一家」の精神で安定して支配する基盤を提供し続けたと言えよう。

2.華夷一家を実現した清朝最大版図統治の複雑性と今日性

1)「華夷一家」の実現から「華夷融合」に至る道筋の険しさ

万里の長城

それでは、「華夷一家」として同じ清朝という新たな枠組みを作りだした「中外一体の体現者としての大清帝国」において、「華夷一家」の先に「華夷融合」のようなことは図られたのであろうか?
漢人による民族差別の源流には、「華」の儒学・漢字の文化が「夷」に圧倒的に勝っているという信念があった。このような民族差別を止揚するためには「華」と「夷」は一家として、同じ「清朝」に暮らすといえども、「夷」としての満州人やモンゴル人は、それぞれの固有の 宗教・文化を維持し続けることが必須との認識が雍正帝や乾隆帝には強かった。(7)
このような清朝皇帝の基本方針に基づいてどのような政策が採用されたかと言えば、「清朝による平和」のおかげで軍事的意味を失った万里長城を「華」と「夷」を分け隔てる文化的な境界線として再利用するということであった。
別記するようにモンゴル騎馬軍団の軍事力を帝国安定の基盤と考えていた清朝皇帝達は、モンゴル人が「華」に染まって文弱化し、モンゴルの文化や宗教の保護者として大ハンに推戴されて成立した大清国の基盤が揺らぐことを看過出来るわけもなかった。
こうして万里長城に軍事的に頼り切っていた明とは違った意味で、「中外一体」「華夷一家」を実現した清朝皇帝も万里長城に頼って「中」と「外」、「華」と「夷」の関係の固定化をはかる必要に迫られてしまったのである。(8)

2)「中華帝国大一統の原理」の適用領域を超える清朝最大版図を支配するための原理

歴代長城

このように考えてくると金観濤の定式化した「大一統の原理」は、あくまでも明及びそれ以前の「儒学・漢字・漢人を基盤にした儒教文化圏たる中華世界」エリア=中国内地を対象としており、清朝が新たに中華帝国の版図に付け加えた「夷」の世界たる「藩部」は別の論理で統治されざるを得ないということにもなろうか。そしてこれは今日の中華人民共和国では、「省」と「自治区」の違いとして現れ、特にチベットや新疆においては民族問題を内包していると言えよう。
すなわち「中華帝国」は、「清の極盛期」において「儒教と漢字をベースにする漢人エリア=中国内地」と言う枠組みを超えて、一方に漢人の中華文明エリア=中国内地を中核として保ちつつ、「清の皇帝の庇護の下で、その支配さえ受け入れれば、特定の文化的価値を押し付けることはなく、既存の文化や社会の安定は全力で保証する」、という方向性を見出して、中国領土の拡大とその安定的な統治を長期的な視野と規模で実現したと言えるだろう。
ただし、これは「大清帝国極盛期の歴史的枠組みの中での安定と平和」を実現したものであるが、この論理が現在の「帝国としての中国」の論理に直結しているか否か、また近代における危機の中で「帝国としての中国」が分裂と崩壊を免れた真因となったのかどうかについては、別項にて十分な検討が必要である。

尚、大義覚迷録で雍正帝が示した寛容で世界帝国に相応しい異民族統治方針については、以下のリンクでも詳しく取り上げています。
大義覚迷録で雍正帝が強調した中外一体,華夷一家はトランプ大統領の非寛容な移民政策と正反対である!

参考文献
(1)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p118
(2)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立p224
(3)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第二章 民族統合・建国から大清国の成立 p104
(4)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第二章 民族統合・建国から大清国の成立 p224
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p172
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p172
(7)宮崎市定:世界の歴史6 宋と元 中央公論社 1975 元王朝の興亡 p400
(8)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p174