農民大反乱

辛亥革命ではなく袁世凱が終焉させた儒教イデオロギーと儒家官僚による大一統=帝国支配システム!

袁世凱

袁世凱の評価とその帝政崩壊の要因、および軍閥的支配=儒家官僚層の一掃による儒教イデオロギーと儒家官僚の帝国支配システムとしての「中華大一統要件」の喪失と混乱について検討する。 

1.袁世凱の歴史的評価
 1)大悪漢扱いされる袁世凱
 2)儒教的観点から評価される支配者像
 3)共産党の見地から観た袁世凱
 4)没落する英雄と天命を得た英雄の相違
2.袁世凱を取り巻く歴史的環境
 1)儒教の原理を前面に出す清議派役人の活動
 2)役人が清議を放棄した場合の混乱要因
 3)袁世凱の立身出世のきっかけ
3.袁世凱の思想信条と政治的目標
 1)袁世凱の成功と没落の構図
 2)状況適応主義的な柔軟路線
4.農民大反乱不在の辛亥革命の例外性
 1)農民大反乱が発生しなかった理由
 2)清朝末期に蔓延した政治的無関心やシニシズム
 3)辛亥革命直後の袁世凱台頭の要因
5.農民大反乱なき辛亥革命後の旧支配階級の一掃
 1)袁世凱配下の軍人による儒教的官僚集団の地方支配者の一掃
 2)儒教イデオロギーによる中国支配の終焉と袁世凱の立身出世
 3)袁世凱帝政崩壊の要因

1.袁世凱の歴史的評価

袁世凱11

1)大悪漢扱いされる袁世凱

袁世凱は、儒教的な伝統の色濃い中国の政治世界からすると批判の対象として観られることが多かった。儒教の伝統によれば、歴史は政治に指導を与え、徳のある支配に道徳の具体例を提供するようなものでなければならないという。袁世凱は、まさに大悪漢とも言える存在であり、まさに中国史上においては簒奪者として著名な王莽や曹操に匹敵する人物として取り扱われている。(1)
確かに袁世凱は、西太后に仕え一時支持していた光緒帝の新政・戊戌の変法を裏切って、その終息に関与したり、清朝崩壊時は臨時大総統になるなど、まさに王朝簒奪者の名に相応しい動きを観せていたことは事実である。

2)儒教的観点から評価される支配者像

孔子

儒教では本来皇帝たるものあるいは支配者たるものは、精神的に聖者であり、外見上は君子であらねばならない。この精神と外見との調和は徳のある支配が支配者の欠点の無い道徳的性格からくるものである、ということを意味する。君子がその国と臣民に幸福をもたらしているとすれば、儒家の歴史家はその君子の外的行動と精神的素養が混然一体となって調和していると解釈する。逆に袁世凱のような大奸賊については、腐敗した徳の無い支配は悪意ある心根から出てくると解釈する。(2)
儒家からすれば、そのような解釈が出てくるのは理解出来るが、ここでは具体的な行動と政治判断、そのもたらした結果で、袁世凱について検討していきたいと考えている。

3)共産党の見地から観た袁世凱

中国共産党見解

それでは、共産党の歴史家は袁世凱についてどのように評価しているのであろうか、ここでは陳伯達の見解を観てみよう。
彼は、「袁は現状を維持し人民を抑圧しようとする反動的地主と買弁階級により注意深く選ばた」と主張し、袁の知力・軍事力、そしてその二面性が彼に一時的な勝利をもたらし、近代中国最初の簒奪者たらしめた(二人目の簒奪者は、蒋介石とのこと)、という。袁世凱は、封建的、買弁的で人気の無い独裁者であり、外国反動派、軍隊、陰謀、金銭、詐欺などに依拠して権力を乱用し人民を支配したが、その支配は長続きせず今や跡形もなくなった。人民のみは永久に生き続けるし、人民こそが袁世凱を倒した、と陳伯達は言う。(3)
こうしてみてくると儒家と共産主義者の歴史に関する解釈がある程度共通するところが観て取れて興味深い、儒家も共産主義者も道徳的価値観の高いものが生き延びて成功をつかむのであり、袁は利己的貪欲で誇大妄想で信頼するに足りなかったので失敗した、(4)というわけである。

4)没落する英雄と天命を得た英雄の相違

劉邦

これまでの中国の歴史の中でも、三国志に登場してくる同じ袁姓の袁術なども後漢末の群雄割拠の時代に図らずも「伝国璽」を手にして挙兵し、皇帝を称しながら瞬く間に没落した、ということがあった。また朱元璋と覇を争った陳友諒も黄金の皇帝の玉座を得た後に没落の一途を辿ったということもある。翻って劉邦や朱元璋は無一物に近いところから始めて帝位につき数百年の安定した王朝を建設したことも紛れもない事実である。
この差が本人たちの道徳的価値や精神的な徳の高低によるものかは知る由もないが、何らかの天命のようなものも感じられなくもないかもしれない。ただ私個人の考えでは、劉邦や朱元璋が天下人になったのは天命によるだけでなく、それを生かしきる力が備わっていたものと認識している。確かに劉邦は韓信ほどの用兵の才も項羽ほどの武芸の才も備わっていなかったし、元々の部下も樊噲らの無頼とでも言うべきメンバや役人と言っても沛県の下級役人であった蕭何と曹参くらいしかいなかった。ただ劉邦は、ライバルの項羽と違い、優秀で信頼出来る部下には全幅の信頼を寄せ、その実力をいかんなく発揮させて覇業を助けさせる度量と鷹揚さがあったことは間違いないだろう。朱元璋も後に大粛清を行ったが、覇業をなす過程では李善長や胡惟庸などに力を振るわせている。

2.袁世凱を取り巻く歴史的環境

袁世凱333

1)儒教の原理を前面に出す清議派役人の活動

それでは、袁世凱は具体的にはどのような人物で歴史上どのような影響をもたらし、何故皇帝まで登りつめながら三日天下的な短命政権で終わったかについて考えていきたいと思う。
袁世凱の権力の頂点を目指す動きは、日清戦争での清国の敗北の直後に始まったと言えるが、この時期は中国において儒教国家の崩壊と中国ナショナリズムの勃興が同時に始まっていた。日本に対する敗北により勢力が衰えたとはいえ、儒教の原理を前面に出す清議派の役人達の活動は、1898年には光緒帝の新政・戊戌の変法の一方の柱として力を強めた時期もあった。基本的にこのような清議派の活動は君主が賢明過ぎたり、腐敗し過ぎてしまうと沈黙を守る傾向があるが、危機意識や道義的義憤により刺激された場合は大変な影響力を持つことが多かった。ちなみに、1937年の盧溝橋事件による日中戦争勃発時もこのような「清議」は爆発したという。(5)

2)役人が清議を放棄した場合の混乱要因

文官,中国

戊戌の変法の抑圧や義和団事件への清朝廷の関与による悲惨な結末により「清議」は沈黙することとなった。役人が「清議」を捨てるとどのようになるかということについては、これまでも「大一統」を巡る金観濤らの議論で観てきたとおりであり、社会が一体化を用いてひとつの安定した大国を組織するには、必ず以下のいくつかの条件を備える必要がある。

①連絡の機能を担える強力な階層が社会に存在していること
②この階層が統一的信仰を有し(辛亥革命前は儒教、現代は共産主義?)、かつ積極的な統一的国家学説を有していること
③官僚によって管理される郡県制が社会に行われていること
④統一的信仰を持った階層を用いて官僚組織が組織されていること

このような条件が揃わないと「中華帝国大一統」の基本要件が崩れ、帝国の統一が失われて大混乱に至るとの見解である。(6)

3)袁世凱の立身出世のきっかけ

袁世凱334
本論文でも何回か取り上げてきたが、構造的には上記のような「中華大一統」の原理を確保しなければ帝国の統一は失われることになるわけであるが、短期的な一時しのぎとしては帝国の維持に必要なのは軍事力のみでも十分であった。この時点で清国が頼りに出来たのは袁世凱の新軍の軍事力のみという現状であり、ここから袁の急速な立身が現実化していくこととなった。1895年以降の清国において政治的な実力を増した勢力はこの袁世凱の新軍=清朝廷の軍事力であり、立憲派は既に力を失いつつあった。(7)

3.袁世凱の思想信条と政治的目標

万里の長城

1)袁世凱の成功と没落の構図

この当時は儒教のイデオロギーが揺らぎ、実質的な力を備えた西欧諸国に対する劣等感や崇拝の念が生じ、勃興しつつはあるがまだ形を整えていない中華ナショナリズムが顕在化しつつある時期であり、このような絶対的イデオロギー不在の状況が「中華大一統」の要件を揺るがし、権威の危機をもたらした。(8)
私の見解では、袁世凱はこのような危機的な状況を掌握し、秩序を再建しようと模索して、奥の手として皇帝まで登りつめながら、自ら行ってきた政策の帰結として、「中華帝国存立の要件」を掘り崩していたが故に、その権力も崩壊したのではないか」、と考えている。まさに「中華帝国大一統」の要件が崩れそうになった時に、それを支えるために袁世凱の軍事力が要請され、自身の政治活動で「中華帝国大一統の要件」が完全に崩れた時に、その役割を終え、「次なる簒奪者に道を譲った」とでも言えようか。

2)状況適応主義的な柔軟路線

袁世凱335

それでは袁世凱は、そもそも何を信じ、どういう将来像を描いていたのであろうか。
袁世凱が反満でないということは、決して民族主義者に同調しなかったという点で明らかであろう。また儒教にしろ、民族主義にしろ十分に内容を理解していたとは思われず、あくまでもイデオロギーとの関係は皮相的なものにとどまっていた。また共和国大総統であった時も共和主義者とは言えず、共和国への忠誠を誓いながら、組織的かつ慎重に共和政的機構を破壊し、自分自身の王朝を作り出すべく努力していた。(9)
結局袁世凱も時代の子であり、明白で適切に定められた価値の不在な変化の時代に合わせただけだったと言えるのではないか。儒教の価値は崩壊しつつあり、民族主義的なナショナリズムの価値が、未だに曖昧でしかない時代には状況に適応するためにはそれしかなかったのではないだろうか。(10)
確かにイデオロギーが確固としていた時代であれば、袁世凱はそれに合わせて行動していたのであろう。例え自分自身が儒家のイデオロギーを把握していなくても儒者を手元に置き、あたかも自分自身が儒家正統イデオロギーの使徒のように振舞ったであろうし、共産党時代であれば毛沢東思想や改革開放の尖兵になったかもしれない。このように、状況適応主義的なところが、袁世凱の強みでもあり限界でもあったのだろう。

4.農民大反乱不在の辛亥革命の例外性

辛亥革命

1)農民大反乱が発生しなかった理由

ここで私自身が漠然と抱いていた疑問点について考えてみたいと思う。
これまで中華帝国においては、王朝が崩壊する時は基本的に農民大反乱によって、それまでの体制が徹底的に破壊されることが通例であったが、辛亥革命=清朝が瓦解する時にそのような大農民反乱が発生したという状況は無かったようである。
このあたりについては、袁世凱が時代の子として、従っていた前記したような政治的シニシズムが大きな要因であるとも言える。すなわち、農民の間に一般的に政治や体制に関する無関心が広がっていたということである。農民の無知や教育の無さ以前の問題として、無関心とシニシズムこそが原因と結果を織りなしていた。このため清朝は、それ以前の王朝と異なりボロボロになりながらも命脈を保ち、農民反乱により覆されることなく生き延びたと言えよう。1900年代の反乱は、町から始まり農村ではなく大都市に広がっていったが、農村部は沈黙し、どこまでも受け身的であった。(11)

2)清朝末期に蔓延した政治的無関心やシニシズム

西太后

それでは、何故このような無関心やシニシズムが清朝末期に中国農村に蔓延していたかということであるが、「アヘンの蔓延」や「諸外国の侵入により王朝の存在が人民の敵として際立ちにくくなった」などいろいろな理由が考えられるが、このあたりは「王朝循環論の例外」として今後の課題として検討していきたい。
このような農民層の無関心のため革命の民衆的基盤は極めて弱く、革命主体としては多少の知識階級、秘密結社、南方の新軍などから成り立つのみであった。知識階級と秘密結社の関係は常に緊張しており、このもろい連携も1912年秋には崩壊した。(12)

3)辛亥革命直後の袁世凱台頭の要因

辛亥革命
このように辛亥革命の革命主体がもろく、かつ民衆的基盤を持つものでもなかったために、「それらを超える力」さえ証明出来れば容易に時局を支配することが可能な情勢が揃っていたと言えよう。袁世凱はそのような力=武力を掌中に収めており、それを有効に行使することで知識階級を抑えて辛亥革命の成果をつかみ取ることに成功した。人民大衆から遊離した革命の末路として実力のあるところに権力が流れ着いた印象であろうか。

5.農民大反乱なき辛亥革命後の旧支配階級の一掃

孫文

1)袁世凱配下の軍人による儒教的官僚集団の地方支配者の一掃

それでは、農民大反乱を経過しない辛亥革命においては、地方を含む支配勢力の一掃はどのようになされたのであろうか。
農民大反乱が発生すれば、地方の省や県の支配者達も根こそぎ一掃されることが通例であった。(13)
このあたりに関して辛亥革命について観ていくと、清朝崩壊後の地方権力は基本的には革命派とは言えない軍人を主体とする保守主義者に握られていたことがある。彼らは自分たちの軍隊の存立を守るため文官政治家を追い出し、その地方の富を独占しようとした。袁世凱としてはこのような地方支配者による中間搾取を排除して財源を確保するためにも、中国を自らの息のかかった軍隊で統一してしまう必要性に駆り立てられていた。袁世凱は国民党に対する内戦も含めて、これらの地方勢力との戦いに勝利したが、彼の地方平定のための野戦部隊は守備隊に編制替えされ、その司令官が新たな軍閥となって台頭していった。(14)
これらの一連の動きがもたらした結果は、中華帝国の大一統の歴史に対して衝撃的な結果をもたらしたと言えるかもしれない。
すなわち袁世凱配下の地方司令官達の県や府、省を支配し平定しようとする要求が、中華帝国伝統の儒教的官僚集団の地方支配を終焉させた。これにより伝統的な科挙合格者の文官による全国統治は、軍人に取って代わられてしまった。(15)

2)儒教イデオロギーによる中国支配の終焉と袁世凱の立身出世

儒教

伝統的な儒教イデオロギーによる中華帝国支配は、辛亥革命というよりは、この一連の袁世凱による地方制圧の延長線上で終焉したと言えるのであり、その後中華帝国大一統の条件が揃うのは、1949年の共産党による人民民主主義革命の成立まで待たなければならなかったとも言えるかも知れない。
少なくとも清朝では科挙出身者でも無く、満州人でもないものが政府の要職につくためには、八旗兵か顕著な軍事的能力を持っていなければ有りえなかったのであったが、袁世凱本人は漢人であり、科挙出身者でもなく、儒家的紳士とは言えない存在であった。
このように、儒家正統のイデオロギーが統治原理としての主役の座を降りることで、政策決定過程も説得から強制という形が支配的となっていった。(16)

3)袁世凱帝政崩壊の要因

帝政崩壊

袁世凱の帝政が短命に終わった理由の一つとして、このあたりの儒教イデオロギーの統治原理としての地位喪失及び地方権力の科挙官僚から軍人への移行があったのではないだろうか。袁世凱自身は科挙出身者でない漢人の軍人として位人臣を極め、地方の支配権を自ら派遣した軍人に委ねて中華を統一的に支配しようとしたが、この過程で「中華帝国大一統」の基盤を掘り崩していたことに気づかず、武力と権力のみを後ろ盾に帝位を狙い、脆くも短期的な王朝として崩壊の憂き目を観た、と言えるのではないだろうか。

尚、本件でも取り扱っている中華大一統の要件については、以下のリンクでも取り上げています。
中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p276
(2)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p276
(3)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p278
(4)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p279
(5)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p279-p280
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(7)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p280
(8)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p291
(9)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(10)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(11)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(12)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p293
(13)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第四章 特異な修復メカニズム p112
(14)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p295
(15)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p295
(16)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p296

毛沢東が蒋介石を打倒し共産党一党独裁体制で中国全土を支配するために直面した革命課題の解明!

国共内戦に勝利した中国共産党が、中国における社会主義革命を遂行するにあたって直面した課題について検討する。

1.中国共産党が革命後に直面した課題
 1)国民党から引き継いだ中国の現状の打開
 2)中国共産党独自の国民国家建設方針
2.中国の現状を打開するための革命主体の組織化
 1)中国共産党による新たな革命主体の選択
 2)無限のエネルギーを保持する農民層の国民国家建設への動員
3.中華民国時代の中国の現状と打開すべき革命課題の整理
 1)中華民国時代の中国の現状
 2)中華民国時代の中国の現状を打破するための革命課題

1.中国共産党が革命後に直面した課題

毛沢東,蒋介石

1)国民党から引き継いだ中国の現状の打開

1949年10月1日に、天安門楼閣上において、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言し、ここから中華世界は、中国共産党主導下に新たなる歴史を刻み始めることとなった。
中国社会主義革命を実現した中国共産党が、まず直面した革命課題は、実際のところ、前政権である中国国民党が直面していた課題と同様であり、中華世界における国民国家の建設と国民党が果たせなかった政治課題の実現にあった。(1)
革命直後の中華世界の状況は、国民党統治下の中国の現状をそのまま引き継いでいたわけであり、そこからどのような未来図を描くかは、毛沢東を始めとする共産党指導部の方針次第であった、と言えよう。

2)中国共産党独自の国民国家建設方針

蒋介石,宋美齢
このように中国共産党の目指すものは、基本的に国民党と同様であり、政治環境に関しても大差ない状態で、共産党が中華世界を引き継ぐことになった。国民国家建設に、最終的に失敗した国民党による未完の国民革命を完遂するにあたって、共産党は国民党による国民国家建設主体とは異なる、新たな革命主体と革命方法を模索して、組織化することで、国民国家建設の新たな地平を切り開こうとした。(2)
共産党は、国民党の轍を踏むわけにはいかなかったが、既に国民党が失敗した革命方法を、いろいろと咀嚼する中で、新たな革命方式を編み出していったのではないかとも考えられる。

2.中国の現状を打開するための革命主体の組織化

長征

1)中国共産党による新たな革命主体の選択

新たな革命主体に関して言えば、国民党主体から共産党主体に変革されたが、このことは、国民国家建設を巡る大きな構造的な変化とは言い得ないところであった。すなわち、国民党も共産党も上からの国家建設、改造を目指したと言う見地からは、同様と言える状況であった。国民党による国家建設と共産党のそれとの最大の相違点は、後者が農民階級の変革エネルギーの革命状況への反映や組織化に成功したことが大きかった。(3)
共産党の農村への浸透は当初は、自ら選択した方針と言うよりは、上海をはじめとする都市部において、国民党との抗争に敗北したため、やむを得ず選択された一面が大きかった。しかし、その後の展開を考えると、革命根拠地の農村への移転と毛沢東の柔軟な指導の合体が、成立したことにより、中国革命の推進力が得られたと言っても過言ではなかった。

2)無限のエネルギーを保持する農民層の国民国家建設への動員

農民反乱
中国においては、王朝崩壊時に常に農民の大反乱が発生し、旧王朝の残滓を徹底的に破壊しつくすのが常であったが、共産党もそのような無限とも言えるような農民層のエネルギーを巧みに汲み取って、革命闘争に注入することに成功したのである。
さらに、共産党は国民党に無い国民国家建設手法として、社会主義的な手法を採用し、国民革命遂行の有効な達成手段として活用することを試みたのであった。
     

3.中華民国時代の中国の現状と打開すべき革命課題の整理

太平天国の乱

それでは、国民党が中華民国時代に成し遂げられなかった中国の現状とそれを打破するための革命課題を以下に列挙する。

1)中華民国時代の中国の現状

①欧米の帝国主義列強により、侵略の対象となったことによる、反植民地状態の恒常化
②清朝以来の身分制の残存や市民階級の未成熟、欧米列強からの人種差別的な支配の甘受
③清朝以来の分散経済の残存や欧米列強による半植民地による収奪による人民の貧困化
④清朝の中央集権体制が瓦解したことによる群雄割拠的な状況の招来
⑤清朝の中央集権的軍中枢掌握の崩壊による構造的内戦状態の膠着化
⑥党による上からの支配による人民大衆の政治的疎外と国民意識の未分化

2)中華民国時代の中国の現状を打破するための革命課題

自力更生

①独立の達成:欧米列強による反植民地化状況を打開と独立した主権国家の再建
②自主自立自由の実現:自主独立の気概を持つ市民階級の創生と自由自立した市民による市民社会の構築
③経済的富国化:反植民地状態から自立した経済体制の確立と工業化による産業強化の実現
④領域支配の貫徹:領域内における統一的な支配と中央集権化した国家体制の確立
⑤領域内における平和:軍中枢の中央支配の確立と唯一の国軍確立による軍閥割拠状態の解消
⑥人民の政治参加:人民大衆の政治的自覚の覚醒と政治参加による国民国家意識の創生(4)

  

参考文献
(1)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p359
(2)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p359
(3)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p359
(4)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p360

毛沢東が文化大革命を断行した目的は中華王朝崩壊時の農民大反乱のエネルギーを活用した国家大改革再現である!

毛沢東,文化大革命

毛沢東が完成しつつあった人民中国の国家体制を文化大革命で根底から覆し、劉少奇や鄧小平を排除して国家を転覆させた目的は、現代版農民大反乱による国家機構の大変革の断行にあった!

1.文化大革命の真の目的
1)「原理的な社会主義」回復のための闘争
2)現存する秩序を破壊し新世界を建設する革命運動
2.文化大革命を推進するための具体的な方策
1)党官僚機構打倒のための熱狂的な大衆動員
2)文化大革命と王朝交代期の農民大反乱の類似性
3.王朝崩壊期の農民大反乱の現代版としての文化大革命
1)既存社会秩序の徹底的再編
2)文化大革命の現代版「農民大反乱」的性格の分析
4.文化大革命で目指された毛沢東の理想社会像と現代中国の状況
1)毛沢東の構想する文化大革命後の中国社会の理想像
2)中華帝国の「農民大反乱」と現代中国の「文化大革命」の共通的性格

1.文化大革命の真の目的

黄巾の乱

1)「原理的な社会主義」回復のための闘争

文化大革命開始以降の初期の段階で徐々にエスカレートしていく毛沢東の「調整政策」に対する反応を観ていくと、文革が毛沢東個人の権力回復闘争だったという側面が希薄に感じられてくる。明らかに毛沢東は、理想とする「原理的な社会主義の概念」を確固として持っており、「調整政策」及び「その推進者」が、そのような「社会主義の在り方」から大きく逸脱しつつあるので、自らの信念に基づいて闘争を開始した、という要素が濃厚にあったのではなかろうか。
このあたりについては、系統的な文革研究の第一人者である王年一も「根本的に言えば、毛沢東は明らかに党中央の後継者をすげ替えたり、中央の第一線を否定したりすることのみを求めたのではなく、それ以上にもっとも純粋でもっとも美しい社会主義社会を準備する条件を作り出そうとして、天下大乱を求め、徹底的にブルジョア反動路線を批判するよう提起した」と述べている。(1)

2)現存する秩序を破壊し新世界を建設する革命運動

フランス革命

さらに1966年5月に毛沢東が林彪に与えた書簡「五・七指示」によれば、毛沢東が劉少奇はじめ中国共産党の多くの指導者を打倒し、各級の組織を破壊してまでも、文化大革命を発動した真の目的は、「旧世界を破壊することを通じて新世界を建設すること」にあったとしている。また1966年5月の「通知」によれば、文化大革命は、「一つの階級が一つの階級を覆す政治大革命」をおこすことであり、その目的は「現存している全ての秩序を破壊する」ことにあるとされていた。(2)

2.文化大革命を推進するための具体的な方策

大衆動員

1)党官僚機構打倒のための熱狂的な大衆動員

こうして「党内の一部の実権派」、さらには党中央にすら発生した「修正主義者」の一掃が、毛沢東にとって社会主義中国の死活的な課題として浮かび上がりつつあった。とはいえ、現実の中国においては、党官僚機構が全ての権限を掌握している中で、そのような課題をどのように解決していけるのか。そのためには、思想・イデオロギーの領域において世論を喚起し、大衆的批判の強烈な圧力の中で党機構の改編を目指すほかなかった。(3)

2)文化大革命と王朝交代期の農民大反乱の類似性

紅衛兵
ここで提起された「問題が蓄積した社会を糺すために、天下大乱を希求し、徹底的な闘争を遂行する」あるいはより鮮明な「旧世界を破壊することを通じて新世界を建設すること」「現存している全ての秩序を破壊する」という「文化大革命の真の目的」と「その解決手法」は、まさに中華世界における「農民大反乱による王朝交代の本質」に相通じるところがあったのではなかろうか。文化大革命により共産党幹部は中央から地方まで大半が地位を追われ(17)、各級の組織は破壊された(4)わけであり、国家組織は根底から揺るがされた。
金観濤によれば、全国的範囲の組織的反乱を実現し、分散性を克服するには、二つの条件が必要であり、その一つが反乱者の共通の目標の設定であり、二つ目が反乱者が相互に連絡できる条件がありタイミング良く集中できなければならない(5)が、当時の中国では「毛沢東の用語」により敵は「ブルジョア司令部」「走資派」「実権派」と明確にされており、反乱者の共通の敵が共産党の全国組織そのものであることが容易に認識出来た。また大規模な農民反乱においては、革命の組織的中核を必要とする(6)が、文革においても「造反派」「紅衛兵」がその機能を十二分に担うこととなった。

3.王朝崩壊期の農民大反乱の現代版としての文化大革命

劉少奇迫害222

1)既存社会秩序の徹底的再編

「ブルジョア司令部」の存在が大衆レベルにおいて認識され始め、劉少奇・鄧小平をも含めた「党内の一部実権派」がその権限を停止され、中央から地方に至るまで「奪権」が引き続き遂行された。
このような奪権闘争は、単に中央・地方の党レベルにとどまらず、実はそうした次元を遥かに超えた社会のあらゆるレベルの権力の問題を噴出させ、しかも同時に中国に内在し蓄積されつつあった様々な社会的葛藤・矛盾、さらには中国の伝統的政治風土のもつある側面を一気に「奪権」という課題へまとわりつかせることとなった。(7)

2)文化大革命の現代版「農民大反乱」的性格の分析

文化大革命5555

中国封建社会においては、儒家を用いて官僚機構を組織し郡県制に基づいて国家の管理を行う、と言う特有の宗法一体化構造が機能していた(8)が、現代中国においては儒家は退いたものの共産党が党員により形成された郡県制の官僚機構を組織し、社会主義イデオロギーに基づき国家の管理を行う、と言う一党独裁体制が貫徹されている。また中国封建社会は宗法一体構造の維持と存続のため「強制御」を有するが、これは「中央の号令を直ちに下達し、各地の状況報告を収集する情報伝達システムを作り上げること、および強制御の執行ネットワークを作り上げること」「システムの実情が理想の平衡状態から乖離した時、中枢をコントロールして柔軟でかつ迅速な反応を行わせ、調節とコントロールを実行すること」という二つの側面がある。(9)中国の共産党が強制御の前者に該当する役割を果たしていることも間違いないところであろう。文化大革命が、そのような党国体制及び官僚機構に向けられた「天下大乱」(1)であったとすれば、これはまさに「農民大反乱」の現代版と言えるのではなかろうか。

4.文化大革命で目指された毛沢東の理想社会像と現代中国の状況

1)毛沢東の構想する文化大革命後の中国社会の理想像

長征

毛沢東は、文化大革命後の中華世界の構想として、「分業を無くし」「差別を無くし」「商品・貨幣を無くす」道を探し求め、結果的に「分業が無く・商品が無い自然経済」と「差別が無い平均主義」が結びついた空想社会主義的な道を模索することとなった。これは流石に生産力の高度の発展と言う前提を無視しており、容易に実現し得るものではなかった。要するに毛沢東は、延安時代の経験を絶対化していた節があり、戦争時代の軍事共産主義生活の成功経験が、分業・商品・差別の撤廃から共産主義に移行する問題までの最適解と考えていたのである。(10)

2)中華帝国の「農民大反乱」と現代中国の「文化大革命」の共通的性格

農民大反乱
別の観方をすれば、毛沢東は中国の農村をベースに空想社会主義的な世界像を描いていたが、現実の現代中国は周恩来・鄧小平が指導する国務院を中心に工業化を進めており、そこでは分業・専門化が進行する中で、近代的な科学技術立国のプランが現実化しつつあった。文革においては、このような社会的・経済的な基盤の違いから来る対立も一要素をなしていたと言えるだろう。(11)
そして、毛沢東の考えた中国の農村をベースにした空想的社会主義路線に、将来展望が見出されないということになれば、やはり中国の行き方としては、かつては「調整政策」と呼ばれ、現在は「改革開放」政策と呼ばれる路線に収斂するのが歴史的帰結だったのではなかろうか。
また中華帝国の伝統の観点からしても、農民大反乱で腐敗堕落した秩序が刷新された後は、清廉潔白だがその構造は、反乱前と本質的な違いの観られない新体制が速やかに秩序を回復して、新たな王朝を開始するという状況(12)も、今日の中国でほぼ似たように繰り返されているような気がするのである。

米中冷戦状況下の習近平の政治目標は文化大革命期の毛沢東個人崇拝と中華帝国皇帝専制体制再現である!

毛沢東が文化大革命で標的にした劉少奇、鄧小平ら実権派、走資派の何が問題にされたのか?

尚、本稿とも関連するアメリカファーストとアメリカ版文化大革命の連関性と中国における民意の直接的な一環としての文化大革命的な動きについて、以下のリンクでも詳しく取り上げています。
トランプのアメリカファースト路線でヒトラーの予言したアメリカの文化大革命的混乱状況が完成する!

<参考文献>
(1)加々美光行:歴史の中の文化大革命 岩波書店 2001 序章 文化大革命をどう見るか p27
(2)安藤正士:現代中国 歴史と近代化 岩波書店 1989 Ⅶ 文化大革命の諸問題 p236-p237
(3)野村浩一:現代中国 現代中国の政治世界 岩波書店 1989 Ⅰ 現代中国政治の展開と動態 p27
(4)安藤正士:現代中国 歴史と近代化 岩波書店 1989 Ⅶ 文化大革命の諸問題 p236
(5)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第三章 大動乱と社会の崩壊 p102
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第三章 大動乱と社会の崩壊 p103
(7)野村浩一:現代中国 現代中国の政治世界 岩波書店 1989 Ⅰ 現代中国政治の展開と動態 p31-p32
(8)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p23
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第四章 特異な修復メカニズム p111
(10)安藤正士:現代中国 歴史と近代化 岩波書店 1989 Ⅶ 文化大革命の諸問題 p240
(11)安藤正士:現代中国 歴史と近代化 岩波書店 1989 Ⅶ 文化大革命の諸問題 p240-p241
(12)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第四章 特異な修復メカニズム p111

天安門事件に至る中国の国内状況及び中国共産党一党独裁=鄧小平体制の支持基盤の解明!

天安門事件、趙紫陽

天安門事件に至るまでに行われた鄧小平指導部の改革やそれに対する国内各層の反応、及び体制の不安定要因等を整理する。

1.中国共産党統治と伝統的な統治体制の相違点
1)中国共産党による人民民主主義革命で何が変化したのか?
2)文革後に鄧小平体制が目指していたもの
2.鄧小平体制による民主化に向けた取り組み
1)文革的混乱を最大限警戒する鄧小平体制
2)鄧小平体制での民主化の一定の成果
3.鄧小平体制による政治改革に対する国内各層の認識
1)長老、特権的幹部、先鋭的知識人からのの鄧小平の政治改革への反発
2)人民大衆=農民の鄧小平改革への認識
4.鄧小平指導部の警戒する体制混乱の要因
1)流民の増大と反対派の知識人の一体化への懸念
2)天安門事件に至る鄧小平指導部の体制の脅威への警戒感
5.天安門事件での武力弾圧に至る条件の確認
1)鄧小平体制で一部容認されていた改革派のスローガン
2)天安門事件に直結する状況の整理

1.中国共産党統治と伝統的な統治体制の相違点

中国共産党1

1)中国共産党による人民民主主義革命で何が変化したのか?

伝統的な支配と本質をほぼ同じくするかに観受けられる中国共産党支配であるが、以下の3点については従来型の体制と趣を異にするところも生じてきている。(1)

・第一に血縁的原理を退け、才能による指導を基本とする発想が生じた。有力者の血縁と言うだけではカリスマ性が生じず、原理的には学歴・能力・指導力が優先する形となった
・第二に指導者は人民大衆から学ばなければならないという発想が生じた。このような人民大衆重視の姿勢はあくまでも啓蒙専制の枠内のことではあるが、伝統的専制の考え方からするとからすると画期的であり、人民大衆に刺激を与え、政治参加を促し、基層幹部層を厚くすることに役立った。
・第三にカリスマ的な権威の所在を個人から共産党組織に移す努力が行われたが、プロレタリア独裁が本来個人ではなく共産党組織によっておこなわれるはずであったので当然の行き方ではあったが、これは結局は上手くいかなかった。 結局は「毛沢東思想」という個人のカリスマ性に立脚するイデオロギーを組織としての党の権威の上に置くことを余儀なくされ、大躍進から文化大革命に至る混乱の過程で毛沢東自身の権威も共産党の権威も打撃を与えられることとなった。

2)文革後に鄧小平体制が目指していたもの

鄧小平,大平正芳

そうした中で、改革開放後の鄧小平主導体制下においては、文化大革命後の混乱を収拾するためにも民主と法制の整備が急務となった。このため党はまず選挙の意味を浸透させ、人民大衆の政治参加の実績を積み重ねようとした。また法制の意義についても人民に判り易く説明し、対等の人間同士の関係を合意に基づいて律する法体系を整備していこうとした。(2)
このように、鄧小平体制は、慎重な歩みながら、経済面の改革開放だけでなく、政治面の民主化に関しても取り組みを開始しつつあったことは、注目すべきであろう。

2.鄧小平体制による民主化に向けた取り組み

鄧小平,趙紫陽,胡耀邦

1)文革的混乱を最大限警戒する鄧小平体制

こうした状況を推進するために鄧小平体制においては、慎重に民主と法制漸進の課題に取り組むこととした。これは文革直後ということもあり、タガが外れた場合の人民大衆の暴動や革命起義を恐れる指導者が多かったことにも由来する。(3)
鄧小平本人を始めとして、文革=人民大衆のエネルギーの恐ろしさも身を持って、肌で感じた指導者も多く、民主の行き過ぎによる混乱には人一倍警戒心が強かったことも間違いないところであった。
鄧小平体制の基本的スタンスは伝統的啓蒙の要素を含んだ「指導民主主義」であり、鄧小平はあくまでも政治制度の改革ではなく、指導制度の改革を提起した。文革で傷ついた党の権威を回復し、これを個人のカリスマの的権威の上に置くことを目指した。西側の政治スタイルである三権分立については、混乱を生じ、党の信用が失墜し、安定と団結を損なうものとして排除された。(4)

2)鄧小平体制での民主化の一定の成果

八大元老

結局、鄧小平指導下における政治面の改革は、西側先進諸国の民主主義をモデルにするわけではなく、あくまでも中華世界の現実に合わせた特有の制度を構築する形を取らざるを得なかった。
このような鄧小平体制の指導民主主義に基づく改革において、党主席制度が廃止され、1982年憲法においては「組織や個人が憲法や法律を超える特権を持つことを否定」され、幹部の若年化、専門化がはかられ、老幹部の引退が促進されるなどの漸進的な成果が観られた。(5)

3.鄧小平体制による政治改革に対する国内各層の認識

八大元老2

1)長老、特権的幹部、先鋭的知識人からのの鄧小平の政治改革への反発

このような六四天安門事件前後に至る鄧小平指導下の政治改革は、必ずしも多くの人民大衆の支持を受けることが出来なかった。
改革によって被害を被る長老や特権的幹部の抵抗は激しかったし、他方で積極的な改革を望む人々は鄧小平の指導民主主義スタイルや「ブルジョア自由化反対」の態度に反発していた。

2)人民大衆=農民の鄧小平改革への認識

中国農民

そうした中で人民大衆特に農民は鄧小平改革をどのようにとらえていたのであろうか。
基本的な状況としては、農民は押し並べて共産党員や幹部を昔ほど信用してはいないし幹部の不正を疑う人も多いが、幹部や共産党員が彼らの基準からして「良い人」である限り比較的従順にその指導に従っていたと言えよう。また党員の側でも農民の集団主義や愛郷心を利用してその影響力の浸透を図っており、このような状況下においては正常な生活を営んでいる農民の間からは現在の指導体制に対する批判も起きてこない半面、鄧小平の政治改革に対しても関心のが低いのが実態である。縁者びいきなども農民にとっては当たり前であり、農民の願いは現体制による秩序と安定であって急激な変化を望んでいるわけではない。この段階において農民大衆は人口の90%に達しており、その動向は政権に深い影響を与えたし中央の指導民主主義体制を支えていた。(6)
このように中国共産党やその幹部に対する農民層の支持は、積極的とは言えない状況になっていたが、農民層の政治的な願いが、あくまでも「急激な民主化や大胆な政治改革」とは無縁の「現状の維持と秩序の安定」であった以上は、農民層にとって「現体制の中核である鄧小平指導部への支持」は、実質的な強固なものであった、と言えるだろう。

4.鄧小平指導部の警戒する体制混乱の要因

流民

1)流民の増大と反対派の知識人の一体化への懸念

問題は増大しつつある流民であり、彼らは急速な経済改革の進展と局部的な挫折と混乱の中で揺れ動いていた。その数は1989年当時5000万以上と言われ、大半が不安定な状況に置かれ、一部(数百万人)は反権力的な「暴徒予備軍」の状況にあり中央の指導部が重大な警戒心をいだいていた。こうした中では、鄧小平体制から見れば、方励之のような人物の反対意見や多元的流派の存在を認めるべきとの要求は危険なものと映った。これは西側民主主義制度の導入要求であり、同様な改革を求める都市知識人や学生を煽り、指導民主主義の否定から中国伝統の政治スタイルを覆すところまで至る、というのが党中央の判断であった。また方励之の言動に触発され都市流民の反権力衝動や暴徒的エネルギーが点火されれば、軍隊や警察の物理的強制力使用が必要になりかねないとの危機感もあった。(7)

2)天安門事件に至る鄧小平指導部の体制の脅威への警戒感

劉暁波

天安門事件直前の段階での鄧小平体制にとっての脅威は、数百万人の不安定な状況に置かれた都市流民と西側民主主義を直接導入することを主張する方励之らの知識階級であり、この両者が連動して大規模な暴動が発生した場合には、軍・警察を動員してでも、現体制を維持すると言う必要性が認識されていた、と言えよう。

5.天安門事件での武力弾圧に至る条件の確認

胡耀邦,胡錦涛

1)鄧小平体制で一部容認されていた改革派のスローガン

一方で当初の段階では、鄧小平体制にとって天安門に集結した学生・知識人の「言論の自由と官倒反対」という要求はどうしても受け入れられないものであったわけでもないと想定される。なぜなら、党や政府の指導部も公式には条件付きで「言論の自由」や「官倒反対」を認めている立場であったからである。

2)天安門事件に直結する状況の整理

胡耀邦,趙紫陽

とはいえ、「天安門に集結した学生・知識人」の「言論の自由と官倒反対の要求」の帰結が、党や政府の権威を失墜させ党の全国に対する道義的な統制力を危うくするわけにはいかなかった。また少なくとも党の最大支持基盤である農民大衆は党指導部が学生・知識人の要求に歩み寄るような動きを支持しているわけでもなかった。(8)
こうして天安門事件に至る伏線が徐々に形作られていくことになった。

鄧小平による天安門事件での民主化運動の武力弾圧は中国共産党一党独裁体制維持のため必然の帰結である!

天安門事件=体制転覆の危機で表面化した改革開放の象徴としての鄧小平と中国共産党による一党独裁体制の本質!

<参考文献>
(1)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 P107
(2)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p110-p111
(3)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p111
(4)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p111
(5)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p112
(6)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p113-p114
(7)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 P114
(8)宇野重昭:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の民主主義 p115