辛亥革命

国民党中華民国を率いる蒋介石が毛沢東の中国共産党に敗れた理由は外モンゴル放棄による中華大一統否定と正統性喪失にある!

孫文

孫文らの標榜した西洋的近代国家概念と辛亥革命後の中国的国家観、民族観を検討する。

1.辛亥革命前後の国家観の変容
 1)孫文らの標榜する民族革命
 2)辛亥革命以前の革命家の国家意識
 3)辛亥革命後の五族共和論への転換
2.中華世界分裂回避の論理
 1)漢族単一民族国家観の放棄
 2)清朝の帝国の原理の再認識
 3)中華大一統、中華天下意識の復活
3.中華民族国家理念の構築
 1)中華民族による一民族一国家の論理
 2)「大義覚迷録」の原理の援用
 3)漢族を中核とする「中華民族国家」
4.中華民国の中華世界支配の施策
 1)モンゴル、チベットの直轄化
 2)蒋介石による中華民族一元論
 3)外モンゴル放棄と中華大一統の原理への抵触

1.辛亥革命前後の国家観の変容

孫文2

1)孫文らの標榜する民族革命

清朝打倒を目指す孫文らの革命派が、満族支配の状況からの漢族の国家回復を目指すにあたって標榜した民族革命のシンボルとしては、「漢族」ではなく「中華」が強調されれていた。革命家の民族的文脈において、「漢」は「中華」そして「中国人」と同じものであったにもかかわらず、「中華」にこだわった理由は、「漢族」が「中華文明圏」としての独自の歴史と文化、そして生活領域をもつ偉大な「民族的」共同体であることを強調し、清朝の中国支配の不法性と漢民族国家の正統性を「中華」という呼び方で一層鮮明にすることにあった。(1)
章炳麟は、1907年の「中華民国解」で次のように述べている。「華と言い、夏と言い、漢と言い、互いに三つの意味を持ち合う。漢を族名にしてもそこに邦国の意味があり、華を国名にしても、そこに種族の意味もある。これに(未来の中国国家に)中華民国と名付けるわけである」。ここの「漢族」と「中華」の国家が同じサイズであり、換言すれば「中華国家」は、事実上漢族による「単一民族国家」であった。(2)
 

2)辛亥革命以前の革命家の国家意識

モンゴル帝国
このように辛亥革命以前の段階での清朝打倒を目指す革命家の意識には、新国家は「漢族」中心の「単一民族国家」がイメージされていた。すなわちこれは「漢族」による「中華世界」の回復を志向するものであり、事実上「漢化」の力学が革命原理として提起されていた。
しかし、清朝最大版図は従来の「中華文明エリア」を大幅に上回る規模であり、清朝の領域内には漢民族以外にもモンゴル族、チベット族、新疆エリアのムスリム等多数の民族が混在していた。もし新たな革命が純粋な単一民族国家を真剣に目指すとなれば、その領域は清朝最大版図ではなく、せいぜいが明朝最大版図から満洲を除く程度が関の山であり、モンゴル、チベット、新疆、満洲は「中華国家」から離れて独立させざるを得ない可能性があったと想定される。

3)辛亥革命後の五族共和論への転換

西太后
しかるに、1911年に辛亥革命の後に発足した中華民国は、「単一民族国家」志向では無く、「五族共和」を標榜する方向に変化しており、孫文自身も辛亥革命後に「漢・満・蒙・回・西の五族が一つとなって、独裁を排し、共和を建設する」「民国は五族を合わせて成立したものであり、全ての五族民衆は兄弟である」と述べた。(3)
まさにカメレオンのような変身ぶりであるが、このような方針転換の理由は何であろうか。漢族の「単一民族国家」と言う発想では、何が都合が悪かったのであろうか。

2.中華世界分裂回避の論理

五族共和

1)漢族単一民族国家観の放棄

このように革命前の「単一民族国家」志向から革命後に「五族共和」に方向性が変化した理由の一つは、革命の成功により満族に対する反感が急速に緩和したことや「単一民族国家」と言う行き方が中国の現実から遊離していることが明確化したためである、と言えよう。また在野の評論家的立場から国家政治の中心となってきた革命派としては、領土の分裂を回避したいとの意識が生じ、清朝の政治構造の基本であった「五族」をベースにしないと清朝の版図を維持して「共和制」を導入することが困難なことがはっきりしたことによる、と観て良いだろう。いま一つの理由としては、辛亥革命後に辺境の蒙・西・回の社会で一斉に独立運動が発生し、領土の分裂が現実化してくることで、中華民国の原理に「一民族一国家」という国民国家の基本理念を採用すると、そのまま中華世界の分裂に直結することが明確化したためでもあった。(4)

2)清朝の帝国の原理の再認識

順治帝

このような変化は、ある意味では、清朝の「帝国の原理」をそのまま継続していかないと、「多民族国家としての清朝最大版図エリアの大一統」が崩壊することに権力の座についた革命派がようやく気付いたことによる、と言えるだろう。雍正帝の「大義覚迷録」の精神は、ここに「中華民国」の多民族国家としての大一統の原理を提供することになったと言えようか。
このような考え方に立って蒙古・西蔵の事務を主管とする「蒙蔵事務局」(後に「蒙蔵院」)が設置され、蒙古・西蔵(新疆は既に省制に組み込まれ直轄化していた)に対して、清朝の「理藩院」の延長線上での民族統治政策が実施されたが、これは「皇朝」の統治が「共和」に代わったものの「中華世界の大一統」が中華民国においても清朝同様に前提とされていたことが了解される。(5)

3)中華大一統、中華天下意識の復活

中華天下

このように観てくると、中華民国の政治に清朝の「中華大一統」を標榜する統治方式が大きな影響を与えていることが明瞭になってくる。漢族国家の復興を掲げて遂行された辛亥革命により出現した政権の眼前には、清朝により大幅に拡大された「中華天下」があり、その拡大された中華エリアを有効に統治するためには、単に漢族至上主義を振り回すだけでは無理があった、と言えよう。
 

3.中華民族国家理念の構築

中華民族

1)中華民族による一民族一国家の論理

その後、孫文は「五族共和」の理念が、民族独立を志向する漢族以外の民族に「独立運動」の正統性を与えかねないと気付くに至り、「五族共和」に替わる中華民国の原理として、「中華民族」による「一民族一国家」としての「中華民族国家の」理念を強調し、「国民国家の理論に基づく近代国家建設の推進」と「多民族国家清朝の版図の継承」の両方を実現しようとした。(6)
ここで強調された「中華」は、辛亥革命以前に満州族を駆逐するために「漢族による単一民族国家」を建設する正統性を訴えるシンボルとしてのものではなく、満州族を含む「五族」を団結させ融和するためのシンボルとしての「中華」であった。(7)

2)「大義覚迷録」の原理の援用

大義覚迷録
この「中華」は、「漢民族だけの狭い中華」ではなく、またしても「大義覚迷録」の精神による「華夷一家」としての「中華」であり、「五族」が融和することで形成される「新たな民族」としての「中華」であった。それでは、中華民国においてはこのような「中華」はどのように実現されると考えられていたのか。
孫文によれば、「民族の同化」がその答えであり、「チベット・モンゴル・回・満は、みな自衛能力を持っていない。民族主義を高揚させ、チベット・モンゴル・回・満を我が漢民族に同化させ、一つの最大民族国家建設することは、漢族の自決に基づくものである」「我が党としては、民族主義においてはなお努力すべきで、必ずチベット・モンゴル・回・満を我が漢族に同化させ、併せて一大民族主義をもつ国家を成し遂げさせる」ということであった。(8)

3)漢族を中核とする「中華民族国家」

少数民族問題
ただし、ここで強調された「中華民族国家」の中身は、事実上「漢民族国家」に他ならず、「中華民族」も「漢族」が中核との認識であり、「漢族にとっての利害」が「中華民族にとっての利害」に一致するとの思い込みが強かった。このため中華民国国民政府にとって「中華民族国家」とは「漢民族国家」に他ならないという意識を超えることは困難であったと言えよう。(9)
孫文及びその後継者の考え方は、辛亥革命前は「五族を中華から排除」していたが、辛亥革命後は「五族を中華に同化」させる方針に変わったということであろう。孫文らは「西欧発祥の近代的国民国家体制」と「中華大一統としての多民族統一国家」の矛盾に対する回答として、このような行き方を採用したわけであるが、ここに「現在の中国の民族問題」の淵源の一つがありそうである。

4.中華民国の中華世界支配の施策

ダライラマ

1)モンゴル、チベットの直轄化

このような理念の変化に基づき、「中華民族国家化」すなわち「漢化」「五族の漢民族への同化」の過程が、「国民国家」形成に直結すると言う観点から1928年に蒙古、西蔵両地域を全て省制に移行させ「直轄化」「内地化」を推進することとした。ここに具体的な統治政策において、清朝の基本方針であった「藩部」の設置や五族の多様性を維持した「大一統」から、「内地化」「漢化」をベースとした「同化による大一統」に基本的な方針が変化したと言えよう。(10)
「中華天下」が外部からの侵略や併合の圧力を受け続ける中では、既に清朝期に新疆が省とされ「内地化」「中国化」が開始されていたことも考えると、このような中央集権的な施策はやむを得ないかもしれない。尚、現在の中華人民共和国では、これらの蒙古、西蔵、新疆はそれぞれ自治区となっており、省制は採用されていない。

2)蒋介石による中華民族一元論

蔣介石
このような行き方は、辛亥革命以降の旧「藩部」である「蒙古」「西蔵」「新疆」で顕在化してきた「中華世界からの離脱」を目指す動きへの対抗として実施された側面も強かった。その後蒋介石は1929年に「中華民族一元論」を唱え始め、「中華民族」とは「黄帝子孫に属する同一の宗族」であり、いわゆる五族を含めて既に中華民族として一体化、一元化した存在である、と主張したが、これは旧「藩部」の独立の動きを阻止し、「中華民族としての大一統」を維持するために人為的な政策的見地から集権化を進めざるを得なかったため、と理解される。

3)外モンゴル放棄と中華大一統の原理への抵触

国共内戦
国民党政権は、既に1927年に外モンゴルの「独立」を容認しているが、このことは国民党政権が「中華大一統」の原理を根底では把握していなかった証左ではなかろうか。(11)
中華民族一元論にしても「中華と夷狄の共存及び多くの夷狄を版図に組み込むことこそが中華帝国の存在理由である、と言う天下思想の原理」(12)への本質的な理解が欠けている、ということかもしれない。
このような国民党政権あるいは蒋介石の「中華大一統」に対する本質的なレベルでの理解の欠如が、中国共産党あるいは毛沢東の「中華大一統」に対する理解度の深さに敗れる過程が、この後の中国国民党の台湾への下野や、中国共産党の大陸支配に至る一つの要因を為した可能性もある。

尚、本稿でも取り上げた中華大一統や天下思想については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。
中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p41-p42
(2)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p42-p43
(3)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p43
(4)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p43-p44
(5)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p51
(6)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p45
(7)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p210
(8)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p214
(9)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p46-p47
(10)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p52
(11)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p53-p54
(12)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p207

辛亥革命ではなく袁世凱が終焉させた儒教イデオロギーと儒家官僚による大一統=帝国支配システム!

袁世凱

袁世凱の評価とその帝政崩壊の要因、および軍閥的支配=儒家官僚層の一掃による儒教イデオロギーと儒家官僚の帝国支配システムとしての「中華大一統要件」の喪失と混乱について検討する。 

1.袁世凱の歴史的評価
 1)大悪漢扱いされる袁世凱
 2)儒教的観点から評価される支配者像
 3)共産党の見地から観た袁世凱
 4)没落する英雄と天命を得た英雄の相違
2.袁世凱を取り巻く歴史的環境
 1)儒教の原理を前面に出す清議派役人の活動
 2)役人が清議を放棄した場合の混乱要因
 3)袁世凱の立身出世のきっかけ
3.袁世凱の思想信条と政治的目標
 1)袁世凱の成功と没落の構図
 2)状況適応主義的な柔軟路線
4.農民大反乱不在の辛亥革命の例外性
 1)農民大反乱が発生しなかった理由
 2)清朝末期に蔓延した政治的無関心やシニシズム
 3)辛亥革命直後の袁世凱台頭の要因
5.農民大反乱なき辛亥革命後の旧支配階級の一掃
 1)袁世凱配下の軍人による儒教的官僚集団の地方支配者の一掃
 2)儒教イデオロギーによる中国支配の終焉と袁世凱の立身出世
 3)袁世凱帝政崩壊の要因

1.袁世凱の歴史的評価

袁世凱11

1)大悪漢扱いされる袁世凱

袁世凱は、儒教的な伝統の色濃い中国の政治世界からすると批判の対象として観られることが多かった。儒教の伝統によれば、歴史は政治に指導を与え、徳のある支配に道徳の具体例を提供するようなものでなければならないという。袁世凱は、まさに大悪漢とも言える存在であり、まさに中国史上においては簒奪者として著名な王莽や曹操に匹敵する人物として取り扱われている。(1)
確かに袁世凱は、西太后に仕え一時支持していた光緒帝の新政・戊戌の変法を裏切って、その終息に関与したり、清朝崩壊時は臨時大総統になるなど、まさに王朝簒奪者の名に相応しい動きを観せていたことは事実である。

2)儒教的観点から評価される支配者像

孔子

儒教では本来皇帝たるものあるいは支配者たるものは、精神的に聖者であり、外見上は君子であらねばならない。この精神と外見との調和は徳のある支配が支配者の欠点の無い道徳的性格からくるものである、ということを意味する。君子がその国と臣民に幸福をもたらしているとすれば、儒家の歴史家はその君子の外的行動と精神的素養が混然一体となって調和していると解釈する。逆に袁世凱のような大奸賊については、腐敗した徳の無い支配は悪意ある心根から出てくると解釈する。(2)
儒家からすれば、そのような解釈が出てくるのは理解出来るが、ここでは具体的な行動と政治判断、そのもたらした結果で、袁世凱について検討していきたいと考えている。

3)共産党の見地から観た袁世凱

中国共産党見解

それでは、共産党の歴史家は袁世凱についてどのように評価しているのであろうか、ここでは陳伯達の見解を観てみよう。
彼は、「袁は現状を維持し人民を抑圧しようとする反動的地主と買弁階級により注意深く選ばた」と主張し、袁の知力・軍事力、そしてその二面性が彼に一時的な勝利をもたらし、近代中国最初の簒奪者たらしめた(二人目の簒奪者は、蒋介石とのこと)、という。袁世凱は、封建的、買弁的で人気の無い独裁者であり、外国反動派、軍隊、陰謀、金銭、詐欺などに依拠して権力を乱用し人民を支配したが、その支配は長続きせず今や跡形もなくなった。人民のみは永久に生き続けるし、人民こそが袁世凱を倒した、と陳伯達は言う。(3)
こうしてみてくると儒家と共産主義者の歴史に関する解釈がある程度共通するところが観て取れて興味深い、儒家も共産主義者も道徳的価値観の高いものが生き延びて成功をつかむのであり、袁は利己的貪欲で誇大妄想で信頼するに足りなかったので失敗した、(4)というわけである。

4)没落する英雄と天命を得た英雄の相違

劉邦

これまでの中国の歴史の中でも、三国志に登場してくる同じ袁姓の袁術なども後漢末の群雄割拠の時代に図らずも「伝国璽」を手にして挙兵し、皇帝を称しながら瞬く間に没落した、ということがあった。また朱元璋と覇を争った陳友諒も黄金の皇帝の玉座を得た後に没落の一途を辿ったということもある。翻って劉邦や朱元璋は無一物に近いところから始めて帝位につき数百年の安定した王朝を建設したことも紛れもない事実である。
この差が本人たちの道徳的価値や精神的な徳の高低によるものかは知る由もないが、何らかの天命のようなものも感じられなくもないかもしれない。ただ私個人の考えでは、劉邦や朱元璋が天下人になったのは天命によるだけでなく、それを生かしきる力が備わっていたものと認識している。確かに劉邦は韓信ほどの用兵の才も項羽ほどの武芸の才も備わっていなかったし、元々の部下も樊噲らの無頼とでも言うべきメンバや役人と言っても沛県の下級役人であった蕭何と曹参くらいしかいなかった。ただ劉邦は、ライバルの項羽と違い、優秀で信頼出来る部下には全幅の信頼を寄せ、その実力をいかんなく発揮させて覇業を助けさせる度量と鷹揚さがあったことは間違いないだろう。朱元璋も後に大粛清を行ったが、覇業をなす過程では李善長や胡惟庸などに力を振るわせている。

2.袁世凱を取り巻く歴史的環境

袁世凱333

1)儒教の原理を前面に出す清議派役人の活動

それでは、袁世凱は具体的にはどのような人物で歴史上どのような影響をもたらし、何故皇帝まで登りつめながら三日天下的な短命政権で終わったかについて考えていきたいと思う。
袁世凱の権力の頂点を目指す動きは、日清戦争での清国の敗北の直後に始まったと言えるが、この時期は中国において儒教国家の崩壊と中国ナショナリズムの勃興が同時に始まっていた。日本に対する敗北により勢力が衰えたとはいえ、儒教の原理を前面に出す清議派の役人達の活動は、1898年には光緒帝の新政・戊戌の変法の一方の柱として力を強めた時期もあった。基本的にこのような清議派の活動は君主が賢明過ぎたり、腐敗し過ぎてしまうと沈黙を守る傾向があるが、危機意識や道義的義憤により刺激された場合は大変な影響力を持つことが多かった。ちなみに、1937年の盧溝橋事件による日中戦争勃発時もこのような「清議」は爆発したという。(5)

2)役人が清議を放棄した場合の混乱要因

文官,中国

戊戌の変法の抑圧や義和団事件への清朝廷の関与による悲惨な結末により「清議」は沈黙することとなった。役人が「清議」を捨てるとどのようになるかということについては、これまでも「大一統」を巡る金観濤らの議論で観てきたとおりであり、社会が一体化を用いてひとつの安定した大国を組織するには、必ず以下のいくつかの条件を備える必要がある。

①連絡の機能を担える強力な階層が社会に存在していること
②この階層が統一的信仰を有し(辛亥革命前は儒教、現代は共産主義?)、かつ積極的な統一的国家学説を有していること
③官僚によって管理される郡県制が社会に行われていること
④統一的信仰を持った階層を用いて官僚組織が組織されていること

このような条件が揃わないと「中華帝国大一統」の基本要件が崩れ、帝国の統一が失われて大混乱に至るとの見解である。(6)

3)袁世凱の立身出世のきっかけ

袁世凱334
本論文でも何回か取り上げてきたが、構造的には上記のような「中華大一統」の原理を確保しなければ帝国の統一は失われることになるわけであるが、短期的な一時しのぎとしては帝国の維持に必要なのは軍事力のみでも十分であった。この時点で清国が頼りに出来たのは袁世凱の新軍の軍事力のみという現状であり、ここから袁の急速な立身が現実化していくこととなった。1895年以降の清国において政治的な実力を増した勢力はこの袁世凱の新軍=清朝廷の軍事力であり、立憲派は既に力を失いつつあった。(7)

3.袁世凱の思想信条と政治的目標

万里の長城

1)袁世凱の成功と没落の構図

この当時は儒教のイデオロギーが揺らぎ、実質的な力を備えた西欧諸国に対する劣等感や崇拝の念が生じ、勃興しつつはあるがまだ形を整えていない中華ナショナリズムが顕在化しつつある時期であり、このような絶対的イデオロギー不在の状況が「中華大一統」の要件を揺るがし、権威の危機をもたらした。(8)
私の見解では、袁世凱はこのような危機的な状況を掌握し、秩序を再建しようと模索して、奥の手として皇帝まで登りつめながら、自ら行ってきた政策の帰結として、「中華帝国存立の要件」を掘り崩していたが故に、その権力も崩壊したのではないか」、と考えている。まさに「中華帝国大一統」の要件が崩れそうになった時に、それを支えるために袁世凱の軍事力が要請され、自身の政治活動で「中華帝国大一統の要件」が完全に崩れた時に、その役割を終え、「次なる簒奪者に道を譲った」とでも言えようか。

2)状況適応主義的な柔軟路線

袁世凱335

それでは袁世凱は、そもそも何を信じ、どういう将来像を描いていたのであろうか。
袁世凱が反満でないということは、決して民族主義者に同調しなかったという点で明らかであろう。また儒教にしろ、民族主義にしろ十分に内容を理解していたとは思われず、あくまでもイデオロギーとの関係は皮相的なものにとどまっていた。また共和国大総統であった時も共和主義者とは言えず、共和国への忠誠を誓いながら、組織的かつ慎重に共和政的機構を破壊し、自分自身の王朝を作り出すべく努力していた。(9)
結局袁世凱も時代の子であり、明白で適切に定められた価値の不在な変化の時代に合わせただけだったと言えるのではないか。儒教の価値は崩壊しつつあり、民族主義的なナショナリズムの価値が、未だに曖昧でしかない時代には状況に適応するためにはそれしかなかったのではないだろうか。(10)
確かにイデオロギーが確固としていた時代であれば、袁世凱はそれに合わせて行動していたのであろう。例え自分自身が儒家のイデオロギーを把握していなくても儒者を手元に置き、あたかも自分自身が儒家正統イデオロギーの使徒のように振舞ったであろうし、共産党時代であれば毛沢東思想や改革開放の尖兵になったかもしれない。このように、状況適応主義的なところが、袁世凱の強みでもあり限界でもあったのだろう。

4.農民大反乱不在の辛亥革命の例外性

辛亥革命

1)農民大反乱が発生しなかった理由

ここで私自身が漠然と抱いていた疑問点について考えてみたいと思う。
これまで中華帝国においては、王朝が崩壊する時は基本的に農民大反乱によって、それまでの体制が徹底的に破壊されることが通例であったが、辛亥革命=清朝が瓦解する時にそのような大農民反乱が発生したという状況は無かったようである。
このあたりについては、袁世凱が時代の子として、従っていた前記したような政治的シニシズムが大きな要因であるとも言える。すなわち、農民の間に一般的に政治や体制に関する無関心が広がっていたということである。農民の無知や教育の無さ以前の問題として、無関心とシニシズムこそが原因と結果を織りなしていた。このため清朝は、それ以前の王朝と異なりボロボロになりながらも命脈を保ち、農民反乱により覆されることなく生き延びたと言えよう。1900年代の反乱は、町から始まり農村ではなく大都市に広がっていったが、農村部は沈黙し、どこまでも受け身的であった。(11)

2)清朝末期に蔓延した政治的無関心やシニシズム

西太后

それでは、何故このような無関心やシニシズムが清朝末期に中国農村に蔓延していたかということであるが、「アヘンの蔓延」や「諸外国の侵入により王朝の存在が人民の敵として際立ちにくくなった」などいろいろな理由が考えられるが、このあたりは「王朝循環論の例外」として今後の課題として検討していきたい。
このような農民層の無関心のため革命の民衆的基盤は極めて弱く、革命主体としては多少の知識階級、秘密結社、南方の新軍などから成り立つのみであった。知識階級と秘密結社の関係は常に緊張しており、このもろい連携も1912年秋には崩壊した。(12)

3)辛亥革命直後の袁世凱台頭の要因

辛亥革命
このように辛亥革命の革命主体がもろく、かつ民衆的基盤を持つものでもなかったために、「それらを超える力」さえ証明出来れば容易に時局を支配することが可能な情勢が揃っていたと言えよう。袁世凱はそのような力=武力を掌中に収めており、それを有効に行使することで知識階級を抑えて辛亥革命の成果をつかみ取ることに成功した。人民大衆から遊離した革命の末路として実力のあるところに権力が流れ着いた印象であろうか。

5.農民大反乱なき辛亥革命後の旧支配階級の一掃

孫文

1)袁世凱配下の軍人による儒教的官僚集団の地方支配者の一掃

それでは、農民大反乱を経過しない辛亥革命においては、地方を含む支配勢力の一掃はどのようになされたのであろうか。
農民大反乱が発生すれば、地方の省や県の支配者達も根こそぎ一掃されることが通例であった。(13)
このあたりに関して辛亥革命について観ていくと、清朝崩壊後の地方権力は基本的には革命派とは言えない軍人を主体とする保守主義者に握られていたことがある。彼らは自分たちの軍隊の存立を守るため文官政治家を追い出し、その地方の富を独占しようとした。袁世凱としてはこのような地方支配者による中間搾取を排除して財源を確保するためにも、中国を自らの息のかかった軍隊で統一してしまう必要性に駆り立てられていた。袁世凱は国民党に対する内戦も含めて、これらの地方勢力との戦いに勝利したが、彼の地方平定のための野戦部隊は守備隊に編制替えされ、その司令官が新たな軍閥となって台頭していった。(14)
これらの一連の動きがもたらした結果は、中華帝国の大一統の歴史に対して衝撃的な結果をもたらしたと言えるかもしれない。
すなわち袁世凱配下の地方司令官達の県や府、省を支配し平定しようとする要求が、中華帝国伝統の儒教的官僚集団の地方支配を終焉させた。これにより伝統的な科挙合格者の文官による全国統治は、軍人に取って代わられてしまった。(15)

2)儒教イデオロギーによる中国支配の終焉と袁世凱の立身出世

儒教

伝統的な儒教イデオロギーによる中華帝国支配は、辛亥革命というよりは、この一連の袁世凱による地方制圧の延長線上で終焉したと言えるのであり、その後中華帝国大一統の条件が揃うのは、1949年の共産党による人民民主主義革命の成立まで待たなければならなかったとも言えるかも知れない。
少なくとも清朝では科挙出身者でも無く、満州人でもないものが政府の要職につくためには、八旗兵か顕著な軍事的能力を持っていなければ有りえなかったのであったが、袁世凱本人は漢人であり、科挙出身者でもなく、儒家的紳士とは言えない存在であった。
このように、儒家正統のイデオロギーが統治原理としての主役の座を降りることで、政策決定過程も説得から強制という形が支配的となっていった。(16)

3)袁世凱帝政崩壊の要因

帝政崩壊

袁世凱の帝政が短命に終わった理由の一つとして、このあたりの儒教イデオロギーの統治原理としての地位喪失及び地方権力の科挙官僚から軍人への移行があったのではないだろうか。袁世凱自身は科挙出身者でない漢人の軍人として位人臣を極め、地方の支配権を自ら派遣した軍人に委ねて中華を統一的に支配しようとしたが、この過程で「中華帝国大一統」の基盤を掘り崩していたことに気づかず、武力と権力のみを後ろ盾に帝位を狙い、脆くも短期的な王朝として崩壊の憂き目を観た、と言えるのではないだろうか。

尚、本件でも取り扱っている中華大一統の要件については、以下のリンクでも取り上げています。
中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p276
(2)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p276
(3)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p278
(4)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p279
(5)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p279-p280
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(7)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p280
(8)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p291
(9)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(10)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(11)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(12)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p293
(13)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第四章 特異な修復メカニズム p112
(14)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p295
(15)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p295
(16)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p296

中国の近代化は辛亥革命ではなく中華天下の再編時点の清帝国の世俗化,皇帝の天命喪失に由来する!!

清朝末期に天命思想、天下主義を基調とする大清帝国の枠組みが解体され、中国が近代的で世俗的な帝国に衣替えされ、国民党,共産党の一党独裁体制の準備が完了していた状況を検証する。 

1.近代以前の中華帝国の枠組み
 1)帝国の権威の源泉とは何か?
 2)「天」の代理人としての皇帝の存在意義
 3)「天の代理人」たる皇帝と人民の関係
2.中華帝国における皇帝と天子の区別
 1)皇帝と天子の使い分け
 2)天命を請けながら皇帝になれなかった「素王」としての孔子の存在
 3)「天命」を請けた皇帝の君主親政の原則の確立
3.易姓革命の論理と天意=人民の意思の政治への反映
 1)中国の暴力革命による王朝交代の伝統
 2)人民の反乱を恐れる絶対権力者=皇帝の不安
 3)孟子の放伐論による易姓革命の正統化
 4)皇帝の絶対権力の横暴を抑制する思想

1.近代以前の中華帝国の枠組み

1)帝国の権威の源泉とは何か?

天壇

中華皇帝の権威の源泉は、「天」であり、政治社会の存立の根拠や地上の王である皇帝の権威も「天」に由来していた。「天子」とは天の子であり天下の中心に位置し、徳行で天の自然な運航、万民の生存と安全への責任を委ねられた至高の存在であった。また皇帝は、天と地、及び人間界を結ぶものであり、地上における具体的な君主権力の象徴的な側面を表していた。(1)
このように皇帝は、「天」の権力の代行者で象徴であり、封建諸侯全てに承認された天の崇拝における至高の儀式が可能なのは天子のみであって、一なる天に対応する至高の君主として必要不可欠の存在であった。(2)

2)「天」の代理人としての皇帝の存在意義

孟子
すなわち、中華帝国におけるあらゆる権威は、「天」に由来し、地上における最高権力者としての「皇帝」の権威も当然ながら「天」に依存していた。「天」の子たる「天子」は、地上における「天」の代理人たる「皇帝」のみが、その立場を誇示することが可能な排他的で、独尊的な地位として取り扱われた。また皇帝は、「天」の「子」としての立場により、至高の存在である「天」と「地」及び「人間界」を結び付けることが要請される、まさに天の代理人としての立場を有していた。
こうした中で皇帝は、荘厳な儀式の執行者として、天空と大地との不可欠な均衡を実現し、天の暴発を抑えることが期待された。この時、もし遺漏ある不正な儀式を執り行えば天が暴発を引き起こすことが予想された。「天の暴発」とは、地上的には王朝交替の革命に他ならない。これは、不徳の天子が退き「天」の「命」が「革め」られることをあらわしていた。(3)

3)「天の代理人」たる皇帝と人民の関係

始皇帝
天空と大地との均衡と言う中に、人民大衆を慰撫することも含まれていると考えるべきであろうか。
確かに「遺漏ある不正な儀式」の地上版とも言うべき「皇帝とその政府の失政」により民が暴発し、王朝交代が起こることは中国では、周期的に発生する事態であったと言えよう。
中国では、秦の始皇帝の中国統一で「封建制」が否定され、郡県制が開始された、この時排他的で独尊の皇帝位が確立した。これは皇帝を中心とした中央集権的官僚機構を通じての人民の直接統治の開始である。一君万民の建前であり、皇帝の絶対権力が皇帝による「天に対する儀礼」で明確化され、天を祭ることは、天子たる皇帝の特権となり、庶民が勝手に天を祭ることは出来なくなった。国内秩序としては、天・皇帝(天子)・人民という構図となり、外国に関しては朝貢国への冊封、臣従が強調された。(4)
そういう意味でも始皇帝の中華大一統の業績は巨大であり、始皇帝により天下思想や統治形態、天子と民との関係と言った基本的な中華帝国の枠組みが確立されたと言っても良いであろう。

2.中華帝国における皇帝と天子の区別

1)皇帝と天子の使い分け

徽宗皇帝

皇帝、天子は中華帝国の最高権力者であるが、名称の取扱いには細かな区別が有った。天子とは受命者の称号であり、天地の神々に自称する場合は祖霊や上帝により認証されることが必要であった。上下方向の祭祀では「天子」を使い、「天」の権威の代行者、表象者が「天子」とされた。また皇帝とは統治者の称号であり、帝国内部の行政や祖先、過去の人物への祭司に関連した名称であって、人間界の祭祀では「皇帝」が使われ、「天命」をうけて世俗世界に君臨する統治者が皇帝とされた。(5)
中華帝国の皇帝は、天下思想に関わる事柄においては、天子と言う名称を使い、民を支配する帝国の具体的な統治者としての顔を現わす時には、皇帝と言う名称を使った。そういう意味で、宗教的な聖なる領域においては、天子として振る舞い、俗界で統治者として振舞う時には皇帝を名乗ると言う二元論的な存在が、中華帝国における皇帝の在り方であった。西欧における皇帝と教皇の並立や日本における天皇と将軍の並立のような二重統治体制は、中華帝国では発生しなかったのである。

2)天命を請けながら皇帝になれなかった「素王」としての孔子の存在

孔子
このように皇帝と天子とは、メダルの表裏であり、分裂することはなく、独裁君主の抽象的身体の別様の表現として一体化していた。
こうした天命・天下観の中で孔子は例外的な特殊な存在であった。儒教では孔子は天命を受けていて天子の資格を認証されてはいたが、結局皇帝の地位は得なかった「素王」と称されている。これは孔子の存在を慎重に取り扱うことで、皇帝権力、権威の絶対性が脅かされないようにすることが重要視されていたことを意味する。こうして孔子は「至聖先師」としてあり、皇帝の権威とは切り離されることでの現在の皇帝の絶対性は維持された。(6)
神格化された過去の人である孔子が、中華帝国皇帝であり、天子たる存在から、具体的なライバルあるいは権威を競うべき相手として取り扱われていることは興味深いが、これは孔子の取り扱いにことさら注意深くならなければならないほど、天子・皇帝の地位が微妙なバランスの上に乗っていたことの証左でもあるだろう。皇帝は常に天以外の何者によっても、その地位や権威を脅かされてはならないのであり、それは儒教の最高権威である孔子の存在すらも、皇帝からはその地位を不安定化させかねない微妙な要素になりうると考えられていたのである。

3)「天命」を請けた皇帝の君主親政の原則の確立

殿試
「天命」を失った皇帝は位を失うとされ、君主親政の原則が取られ、宋代以降は権力の絶対化が進んだ。このため、立憲君主のような君臨すれども統治せず、のような行き方は到底あり得なくなった。
郊祀として、皇帝・天子が有徳の受命者であることを誇示し、権力と権威を一身に体現する聖界俗界の支配者であるという位置付けが強調された。(7)
ここに皇帝は、力と権威の両者を高い次元で併せ持つ至高の存在としての立場を確立し、地上における絶対者の立場を益々固めることとなった。西欧や日本では、皇帝・教皇・天皇の地位や権力は、概ね形骸化し、権威のみを保持する空洞的な存在として祭り上げられることとなったが、逆に中華帝国では時代が下るに従って権力を一身に集中し、明清時代の最終盤に至るまで、皇帝は王朝の唯一で神聖不可侵の実権を維持し続けたのである。

3.易姓革命の論理と天意=人民の意思の政治への反映

1)中国の暴力革命による王朝交代の伝統

宋太宗
中国の王朝交代劇は、暴力革命が大半であり、禅譲も形骸的な印象が強い。中国の皇帝は王朝の終焉を予感しつつ、天意の反映である人事を恐れる存在であった。(8)
日本の統治体制は、天命の革まることの無い、万世一系を建前とする天皇家の皇統をベースとしているが、中国においては宗の太宗・趙匡義は、日本の天皇家のそうした安定性を聴いて、「思わず嘆息」したと伝わっている。このように地上における絶対権力者として並びない権勢を誇る中華帝国皇帝も、いずれ発生する暴力革命の嵐の前では、か弱くはかない永続性に欠けた存在であることを自覚せざるを得なかったのであった。

2)人民の反乱を恐れる絶対権力者=皇帝の不安

明末混乱
中国の天命思想としては、天意とは実は最下層の人民の意思であり、天子が天下に君臨する根拠は実は神ではなく人民の支持にあると言える状況があった。これは権威の還流構造とも言うべきものであり、近代欧州の絶対主義・王権神授説との明確な相違点であった。(9)
このように、絶対権力者である皇帝は、常に民の反乱を恐れざるを得ない存在であり、天意とは実のところ民の意志である、と言う認識が皇帝の心に常に去来していたことは想像に難くない。このあたりの考え方は、西欧が王権神授説の立場をとり、絶対王権の権威の由来を民ではなく、神に基礎を置いたのとは明確に一線を画するところであると言えよう。

3)孟子の放伐論による易姓革命の正統化

孟子,放伐
こうした中で、中国の王朝交替としての易姓革命は、理論的にも正統化されており、孟子の放伐論に無道の君主は賊に等しい存在であり、そのような存在は討伐されて当然であるという民本主義の観念が有った。(10)
そして、皇帝のこのような懸念は、孟子の放伐論により、理論的な根拠を与えられ、西欧の民主主義とは異なるものの、民の意向を常に配慮し、恐れさせるようなあり方を中華帝国を統治する側に植え付けることになったのである。
このように中華においては、最高至上の天は、実は人と合一であり(天人合一)天意は民意・人心であるという思想が有り、これが天命的秩序観の水脈に息づいており、歴代の皇帝権力の正統性を確保するとともに、暴力革命や王朝交替の正統化する論理も提供してきた。(11)

4)皇帝の絶対権力の横暴を抑制する思想

董仲舒
このような天意=民意とし、天人合一を建前とする思想が、中華帝国における統治体制の底流に存在したことは間違いないことであり、このことが皇帝を始めとする統治者の側に一定の緊張感を強いるとともに、極端に無茶な暴政を斥ける契機になっていたことは疑いないことだろう。
中国皇帝の在り方としては、過度の支配が民生を疲弊させるとして、小さな政府を理想とする立場が強調されることもあり、黄老思想のように皇帝がゼロ=虚静となる、無用の用、虚静無為と言った作為に通底する政治的不作為が強調されることもあったが、最終的には董仲舒により「徹底した人為・作為で天下を一元的に支配するのが天理の自然であり、天人合一・天経地義の不動の真理である」と言う立場に落ち着いた。これは人間の中に性として内在する道徳的自然性は「作為」を通じて最もよく発揮される、と言う積極的な人間肯定にも通じる哲学であった。(12)

参考文献
(1)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p113
(2)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p113
(3)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p114
(4)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p114-p116
(5)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p117
(6)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p118
(7)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p118-p119
(8)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p119-p120
(9)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p120
(10)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p120-p121
(11)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p121
(12)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p129

辛亥革命後の中国の近代国家建設における皇帝専制,儒教正統に替わる支配正統性調達原理!

中国における近代化

中国における近代化の特殊性や中国と日本、ドイツの近代化過程の比較及び中国における近代化の端緒となった辛亥革命後の皇帝専制、儒家正統に替わる中国統治の支配正統性調達原理等について検討する。

1.中国における近代化国家建設への課題
 1)全欧洲並みの巨大帝国を統治する方法
 2)中国におけるナショナリズム発生の道筋
 3)中国における大衆の政権支持の基準
2.中国と日本における近代化のモデル
 1)近代化のモデルとしてのドイツ帝国
 2)日中独に類似する近代化に向けた環境
3.辛亥革命後の中国統治の正統性の根拠
 1)中華民国における正統政府とは何か
 2)孫中山政権を引き継ぐ国民党政権
 3)中華民国における「帝国性の証明」

1.中国における近代化国家建設への課題

孔子,儒教

1)全欧洲並みの巨大帝国を統治する方法

辛亥革命以前の中華世界は、「儒教哲学」「天下大一統」を中核とした集権国家であったが、その領域はウラル以西の欧州全域に匹敵する巨大帝国であり、実態としては分散的モザイク社会的要素が強くなる傾向があり、「強力な中央集権力」と「イデオロギーの統一」があってはじめて成立し得る国家であった。このような状況を背景とする皇帝専制支配体制においては、「大衆は政治から排除されており、知識階層による排他的な賢人支配が成立」(1)していた。
このような巨大帝国を長期的に安定して維持するためには、集中と分散のバランスを確保するための統治技術の習得が必須の課題であった。

2)中国におけるナショナリズム発生の道筋

中華民族ナショナリズム
このような巨大に過ぎる「中華帝国」はある意味では天下としての世界そのものであり、国家ではないという観念が一般的で、世界そのものについてナショナリズムは成立しえない状況が有り、近代的国際秩序に当てはまるようなネーション化が困難であった。(2)
近代ナショナリズムは、統一的な権力・軍隊・国家意志・市場を基本とするが、中華世界的な状況下でこれらが民衆に根付くのには時間がかかった。一方で人民大衆から観た場合には、ここに提示された統一志向が権力の正統性の判断基準となった。いずれにせよ、「統一」は、中華民国全期にわたる中心課題となっていた。(3)

3)中国における大衆の政権支持の基準

中華天下分裂
中国の人民大衆にとっては、近代国家の要件やナショナリズムの問題よりも、権力者が統一志向を有しているかどうかが、その政権を支持するかどうかの主たる基準となっていた、ということである。
辛亥革命に主体的に参加することの無かった、人民大衆の意識は革命前後で大きな変化は無かったということかも知れない。人民大衆にとっては、天下が崩壊して分裂し、自分達の住む世界が訳のわからないものに変化することを恐れる、非常に保守的なイメージで、統一を志向していたのではないか、とも想定される。
  

2.中国と日本における近代化のモデル

1)近代化のモデルとしてのドイツ帝国

元来中国が天下の中心である間は、伝統的な農業国家で十分であったが、列強の侵略により、このような伝統的な天下概念は覆された。このため列強に追いつく方策として、何よりも軍事力と産業力を高めることが喫緊の課題となった。こうした中で、歴代の政権あるいは革命運動家は理想の国家像を、ビスマルク以来の富国強兵政策を強引に進めて後発資本主義国家として対応してきたドイツ帝国に求めた。プロイセンの軍国主義は、フランスとロシアという大国の圧力のもとで自国の安全保障を図る一つの近代化のスタイルであったが、列強の圧倒的な軍事的経済的侵略に苦しむ中国が、プロイセン型軍国主義を採用して列強に対抗しようとするのは必然的な帰結であった。この後、北洋軍閥が国民党に最終的に敗北した最大の理由は、こうした産業化を上手くやり遂げられなかったことによる。(4)

2)日中独に類似する近代化に向けた環境

ウィルヘルム二世
明治維新で日本がモデルにした国家もプロイセンであったことを考えると、日中独の置かれた当時の歴史的・政治的・軍事的環境が広い意味で類似していた有りようが浮かび上がってくるだろう。この後、両大戦から戦後を経て今日に至るこの三カ国の運命の変転は、他の国のそれを上回るようなまさに壮大な歴史絵巻の感があるが、それぞれ先行する列強の脅威に対抗する遅れてきた民族の精一杯の抵抗の姿としては感慨深いものがある。
  

3.辛亥革命後の中国統治の正統性の根拠

北伐形勢

1)中華民国における正統政府とは何か

ここで中華民国における正統政府とは何かについて確認しておきたい。中国語で正統性は、法統と表現されるが、中華民国の政府は元来議会によってその正統性が付与されるシステムになっているので、辛亥革命後の最初の議会すなわち1912年の中華民国約法によって成立した議会の法統を継承する政権が正統政府と言うことになる。その後、北洋軍閥政府と広東国民政府との並立が発生するが、国民党政権が北伐統一戦争で勝利して南京国民政府が成立することで、中華民国の正統政府としての法統を受け継いだ。

2)孫中山政権を引き継ぐ国民党政権


南京国民党政権は、北伐戦争完遂の中で政権を確立したのであり、それ以前の中華民国の政権とは異質な革命政権であったとも言えよう。とはいえ中華民国約法を産んだ母体が孫中山政権であったので、国民党はその伝統に依拠した政権と言うことで、実質的には異質の政権でありながら国民党政権が中華民国の法統を継承した、と強調することが出来たのである。このように中華民国の歴史においても法統の持つ意義は大きかった。(5)

3)中華民国における「帝国性の証明」

中華民国
辛亥革命以前のように天命による法統の行方が取りざたされる印象である。すなわち「天に革って議会が支配の正統性を付与」するはずの「中華民国の法統」が放伐=北伐統一戦争により国民党政権に移行して正統性を確保したということである。これは突き詰めると、まだまだ「天命が革まる」ということが「放伐革命」によることもあるということが、中華民国と言う同一体制内においても公認されていたということの証左かもしれない。「帝国性の根源」である「天命思想」は、このようなところにも息づいていたと言えようか。
本稿に関連して、以下のリンクでは辛亥革命後の中華世界を統治する役割を担った「中華民国=中国国民党政府」の課題と挫折の道筋について検討する。
孫文,蒋介石らの国民党政府による中国の帝国的秩序再建が挫折したのは何故か!

参考文献
(1)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第1章 中国の危機とは何か p20-p21
(2)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 序章 中国の民族問題とは何か p5-p7 
(3)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第11章 中華民国の分析視角 p335
(4)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第11章 中華民国の分析視角 p335
(5)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第11章 中華民国の分析視角 p336-p337