大一統

トランプ大統領の移民政策のモデルは雍正帝が大義覚迷録で強調した中外一体,華夷一家,大一統である!

大義覚迷録

アメリカ市民のための適切な国境管理とルールに従わない不法な侵入者への対策、無差別なテロの脅威への積極的な対処などを基調とするトランプ大統領の移民政策は、大義覚迷録で雍正帝が論証した中外一体や華夷一家、大一統を中心とする清朝の異民族支配体制や中華帝国正統支配者としての統治原理をモデルとする。

1.清朝の中華帝国支配者としての地位の正統性をめぐる課題
 1)華夷思想を止揚する論理の構築の必要性
 2)清朝における思想弾圧の限界
 3)雍正帝による教育を主体とした思想改造の試み
2.華夷思想に反駁する清朝の中華帝国支配正統性の論理としての「大義覚迷録」
 1)雍正帝による華夷思想への反駁の切り札=「大義覚迷録」
 2)「大義覚迷録」の体裁とその狙い
 3)「大義覚迷録」に観る華夷思想への反駁の論理
 4)清朝による最大版図実現の強調
 5)天命を請けた清朝皇帝のとるべき道

1.清朝の中華帝国支配者としての地位の正統性をめぐる課題

1)華夷思想を止揚する論理の構築の必要性

科挙試験

康熙帝から雍正帝にかけての時期に清帝国の独裁体制は完備されてきたが、政治思想においては、満州人が中華に対する外夷と漢人から称されれば、清朝皇帝の支配正統性は失われることになりかねない。漢族を中心とする「中華文明世界」の再興を標榜していた明朝の後継として中国内地の統一・支配を達成した清朝にとっては、この明朝期に強化された華夷思想(中華思想)は、とりわけ大きな政治思想上の重大問題となった。(1)
このように清は、その支配体制を確立し、支配領域の拡大に成功しながらも常に「中華帝国の支配者の地位の正統性」を巡っては、特に政治思想を牛耳っている漢人士大夫層との間に緊張関係を孕み続けていたと言えよう。清の支配が安定的に確立するためには、この漢人の「中華思想」をどのように止揚して新たな論理を構築するかが課題となっていた。

2)清朝における思想弾圧の限界

雍正帝22

清朝の支配者である満州人は、出身が漢人から観れば「外夷」であることは事実であり、この事実は清の武力がいかに強くても解決出来ない相談であった。また清朝がどれほど中華としての体制を整備しようとも、漢人の納得は得られないであろう。
「文字の獄」による思想弾圧の効果もあまり上がっているとは言えず、むしろ対象者は拡大する一方であり、力と恐怖による弾圧は継続し過ぎると逆に日常化と慣れにより効果が減少するばかりであった。
また「文字の獄」による連座的な弾圧は深い恨みを増幅するばかりで、国力が低下すれば弾圧そのものも難しくなる。(2)
このような武力による思想弾圧の効果の限界を見据えて、雍正帝はどのような手を打つことになるのであろうか。

3)雍正帝による教育を主体とした思想改造の試み

聖諭広訓

こうした情勢において雍正帝は、主として教育による思想改造を試みようとした。
中華世界の精神的柱となっている儒教は、思想改造の典型であり、その影響が政治・社会まで及んだ世界でも類のない例外的な存在である。宗教に限りなく近いほどの影響力を中国社会の隅々にまで及ぼす、この儒教の影響に類似するような思想を皇帝自ら展開して、上からの思想改造を貫徹することを雍正帝は目指すこととなった。(3)
時間はかかるが、永続的でより深い影響を社会全体に及ぼすべく教育という手段を雍正帝は選択したわけであるが、これは現代中国においても反日教育や愛国教育による体制維持補強策として採用されている施策と類似しているとも言えようか。
人民大衆への思想改造教育としては既に先帝康熙帝が、「聖諭広訓」を作成し、郷村で唱えさせ、中央から強制させる形で民衆の教化を推進していたが、その効果は今一つ上がっていなかった。そこで雍正帝は、民衆の上に居て大きな影響力を持つ読書人や文官などの士大夫層への教化を推進すべく、君臣の道や王朝の大道まで視野に入れた華夷思想を克服する論理を展開しようとした。華夷思想が何世紀にもわたって華から夷に対して突き付けられてきた民族主義的政治思想であるとすれば、夷の側から華に対して正攻法で理論的に反論する政治思想を展開しなければならない。(4)

2.華夷思想に反駁する清朝の中華帝国支配正統性の論理としての「大義覚迷録」

1)雍正帝による華夷思想への反駁の切り札=「大義覚迷録」

大義覚迷録
このような観点に立って、雍正帝は夷の側から華に対して清帝国の中華帝国支配正統性の論理を展開し、それまで「中華世界」で繰り返し説かれてきた華夷思想に反駁する政治思想を確立すべく著したのが「大義覚迷録」であった。
「大義覚迷録」の意味は、雍正帝の大いなる徳によって清朝の正統性に疑義を持つ不逞の輩の迷いを覚まさせる記録ということであり、これは雍正帝が開いた御前裁判の記録となっている。この「裁判」の被告は朱子学の流れを汲み、強い反清思想を唱え、今は亡き呂留良の思想に影響されて、実際に反清運動を展開していた曾静らであり、弁護士はなく、検事も裁判官も雍正帝自らが、その任にあたった。(5)
このような裁判記録は古今東西でも異例であり、いかに西欧の啓蒙専制君主といえども、国民を教化するために自ら裁判を行い、その記録を公表して国民に宣布するというような施策を行っていない。
こうしてみると、実は本当の意味での啓蒙専制君主とは、プロイセンのフリードリヒ大王らではなく、雍正帝のことであるかもしれない。

2)「大義覚迷録」の体裁とその狙い

正大光明

雍正帝が、敢えて上諭として自分の考えを公布することなく、「公平」な裁判記録という体裁を取ったのは、反清運動の当事者に自己主張させた後、雍正帝の理論に屈服させ自己批判させることで、清朝の正統性を認めさせた方がより説得力があり、中華世界の各界各層に受け入れられる可能性が高い、と認識していたのが、その理由である。(6)
確かに絶対的に優位な立場にあるものの独りよがりの理論よりは、反対者と議論して相手が説得され納得した上で自己批判して受け入れられた理論の方が説得力があるだろう。このような手続きを採用する雍正帝の卓見と論理性の高さは、やはり清朝極盛期を現出するに相応しい才能を感じざるを得ないところである。
全四巻からなる同書には、上諭10篇、雍正帝の尋問に対する曾静の供述47条の他、謂わば改心した曾静による自己批判の始末書ともいうべき「帰仁説」などが収められている。(7)

3)「大義覚迷録」に観る華夷思想への反駁の論理

董仲舒

それでは、ここから「大義覚迷録」の内容について検討してみよう。
まず呂留良の思想については、以下のように一刀両断している。
「逆賊呂留良らは夷狄を禽獣のようにみている。かれらは未だにわかろうとしていない。上天は中国内地に有徳のものがいなくなったので、これに嫌気がさして放棄したのである。そのため我々外夷を中国内地の君主にしたのである。逆賊呂留良らの論に従えば、これは中国を皆禽獣とみなすことと同じではないか。どうして、内を中国とし、外を夷狄とするのか。自分をののしるか、人をののしるかに過ぎない。」(8)
これは天命論に従えば、天命の喪失(天子の失格)はただちに皇帝の地位を失う(9)ということになるので、中国内地に有徳のものが居なくなったのであれば、漢人が天命を喪失し、外夷に天命が降って皇帝の座が譲渡される、という議論につながってくるだろう。
このように雍正帝は、中華文明伝統の天命思想を援用しながら華夷思想に反駁を試みている。

4)清朝による最大版図実現の強調

長城

次に中華帝国大一統の領域については、「昔から断絶することなく継承されてきた中国一統の領域は、もともと今のように遠くまで広がっていたわけではない。ただその領域の中にあるもののうち、中国化しようとしなかった者がいると、これを夷狄として排斥してきた。漢、唐、宋の全盛時代に北狄や西戎が代々にわたって辺境の患を成したことがあった。これは彼らが、いまだこれらの王朝に臣下として服従しておらず、彼らの領域やこちらの領域といった区分が存在していたためである。我が清朝が君主となって中国内地に入り、天下に君臨して以来、モンゴルを併合したことで、極辺に居た諸部族はすべて版図に帰服した。これは中国の領土が開拓され、遠くまで広がったことに他ならない。このことは、中国の臣民にとっての大いなる幸以外のなにものでもない。どうしてなおも華夷、中外の区分があるなどと論じる意味があるのであろうか。」(10)とし、新たに天命を請けた外夷出身の清朝のおかげで中華帝国大一統の領域が歴史上空前の広がりを持ち、中華の人々に恩恵をもたらしていることを強調している。
特に明朝が苦しめられたモンゴルを併合した(11)ことの意味は大きく騎馬民族を堰き止める万里の長城の軍事要塞としての意味はもはや無くなっていった。

5)天命を請けた清朝皇帝のとるべき道

天命 皇帝

天命を請けた君主の取るべき道としては、「君主になった者が取るべき道は、まさに民を赤子のように慈しむことである。臣下となった者が取るべき道は、まさに君主に父母のように仕えることである。もしも子供が父母から虐待されれば、当然恨み逆らうであろう。我が清朝における君主は、須らく父母が赤子を慈しむように民に接する道に徹してきた。それにもかかわらず、逆賊らはなおも密かに中傷誹謗の限りを尽くし、君主がその道を知らないと言い続け、いわれのない反抗を続けている。」(12)
このように新たに天命を請けた清朝のもとで、それまでの夷の領域だった外部世界も含めて広大なエリアが、中国の領域に組み込まれ、長城は建設された時点の防衛的な意味を喪失することとなった。このように中華帝国領域内で「華夷一家」が成立してしまえば、清朝の支配の正統性は天命を請け続ける資格があるか否かに還元されるが、清朝の天子の政治は臣民を赤子のように慈しんでいるので、当然ながら天命は維持され続けるとの主張である。夷狄としての満州人皇帝による華に対する政治的反駁は、このように説得力ある形でなされたのである。

尚、雍正帝が大義覚迷録で論証した世界帝国としての本来あるべき異民族統治政策については、以下のリンクでも取り扱っております。
大義覚迷録で雍正帝が表明した異民族統治政策はトランプの大統領令より,遥かに寛容である!

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p134
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p134
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p134
(4)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p232
(5)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p218
(6)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p219
(7)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p220
(8)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p220
(9)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p221-p222
(10)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222
(11)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222
(12)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222

辛亥革命ではなく袁世凱が終焉させた儒教イデオロギーと儒家官僚による大一統=帝国支配システム!

袁世凱

袁世凱の評価とその帝政崩壊の要因、および軍閥的支配=儒家官僚層の一掃による儒教イデオロギーと儒家官僚の帝国支配システムとしての「中華大一統要件」の喪失と混乱について検討する。 

1.袁世凱の歴史的評価
 1)大悪漢扱いされる袁世凱
 2)儒教的観点から評価される支配者像
 3)共産党の見地から観た袁世凱
 4)没落する英雄と天命を得た英雄の相違
2.袁世凱を取り巻く歴史的環境
 1)儒教の原理を前面に出す清議派役人の活動
 2)役人が清議を放棄した場合の混乱要因
 3)袁世凱の立身出世のきっかけ
3.袁世凱の思想信条と政治的目標
 1)袁世凱の成功と没落の構図
 2)状況適応主義的な柔軟路線
4.農民大反乱不在の辛亥革命の例外性
 1)農民大反乱が発生しなかった理由
 2)清朝末期に蔓延した政治的無関心やシニシズム
 3)辛亥革命直後の袁世凱台頭の要因
5.農民大反乱なき辛亥革命後の旧支配階級の一掃
 1)袁世凱配下の軍人による儒教的官僚集団の地方支配者の一掃
 2)儒教イデオロギーによる中国支配の終焉と袁世凱の立身出世
 3)袁世凱帝政崩壊の要因

1.袁世凱の歴史的評価

袁世凱11

1)大悪漢扱いされる袁世凱

袁世凱は、儒教的な伝統の色濃い中国の政治世界からすると批判の対象として観られることが多かった。儒教の伝統によれば、歴史は政治に指導を与え、徳のある支配に道徳の具体例を提供するようなものでなければならないという。袁世凱は、まさに大悪漢とも言える存在であり、まさに中国史上においては簒奪者として著名な王莽や曹操に匹敵する人物として取り扱われている。(1)
確かに袁世凱は、西太后に仕え一時支持していた光緒帝の新政・戊戌の変法を裏切って、その終息に関与したり、清朝崩壊時は臨時大総統になるなど、まさに王朝簒奪者の名に相応しい動きを観せていたことは事実である。

2)儒教的観点から評価される支配者像

孔子

儒教では本来皇帝たるものあるいは支配者たるものは、精神的に聖者であり、外見上は君子であらねばならない。この精神と外見との調和は徳のある支配が支配者の欠点の無い道徳的性格からくるものである、ということを意味する。君子がその国と臣民に幸福をもたらしているとすれば、儒家の歴史家はその君子の外的行動と精神的素養が混然一体となって調和していると解釈する。逆に袁世凱のような大奸賊については、腐敗した徳の無い支配は悪意ある心根から出てくると解釈する。(2)
儒家からすれば、そのような解釈が出てくるのは理解出来るが、ここでは具体的な行動と政治判断、そのもたらした結果で、袁世凱について検討していきたいと考えている。

3)共産党の見地から観た袁世凱

中国共産党見解

それでは、共産党の歴史家は袁世凱についてどのように評価しているのであろうか、ここでは陳伯達の見解を観てみよう。
彼は、「袁は現状を維持し人民を抑圧しようとする反動的地主と買弁階級により注意深く選ばた」と主張し、袁の知力・軍事力、そしてその二面性が彼に一時的な勝利をもたらし、近代中国最初の簒奪者たらしめた(二人目の簒奪者は、蒋介石とのこと)、という。袁世凱は、封建的、買弁的で人気の無い独裁者であり、外国反動派、軍隊、陰謀、金銭、詐欺などに依拠して権力を乱用し人民を支配したが、その支配は長続きせず今や跡形もなくなった。人民のみは永久に生き続けるし、人民こそが袁世凱を倒した、と陳伯達は言う。(3)
こうしてみてくると儒家と共産主義者の歴史に関する解釈がある程度共通するところが観て取れて興味深い、儒家も共産主義者も道徳的価値観の高いものが生き延びて成功をつかむのであり、袁は利己的貪欲で誇大妄想で信頼するに足りなかったので失敗した、(4)というわけである。

4)没落する英雄と天命を得た英雄の相違

劉邦

これまでの中国の歴史の中でも、三国志に登場してくる同じ袁姓の袁術なども後漢末の群雄割拠の時代に図らずも「伝国璽」を手にして挙兵し、皇帝を称しながら瞬く間に没落した、ということがあった。また朱元璋と覇を争った陳友諒も黄金の皇帝の玉座を得た後に没落の一途を辿ったということもある。翻って劉邦や朱元璋は無一物に近いところから始めて帝位につき数百年の安定した王朝を建設したことも紛れもない事実である。
この差が本人たちの道徳的価値や精神的な徳の高低によるものかは知る由もないが、何らかの天命のようなものも感じられなくもないかもしれない。ただ私個人の考えでは、劉邦や朱元璋が天下人になったのは天命によるだけでなく、それを生かしきる力が備わっていたものと認識している。確かに劉邦は韓信ほどの用兵の才も項羽ほどの武芸の才も備わっていなかったし、元々の部下も樊噲らの無頼とでも言うべきメンバや役人と言っても沛県の下級役人であった蕭何と曹参くらいしかいなかった。ただ劉邦は、ライバルの項羽と違い、優秀で信頼出来る部下には全幅の信頼を寄せ、その実力をいかんなく発揮させて覇業を助けさせる度量と鷹揚さがあったことは間違いないだろう。朱元璋も後に大粛清を行ったが、覇業をなす過程では李善長や胡惟庸などに力を振るわせている。

2.袁世凱を取り巻く歴史的環境

袁世凱333

1)儒教の原理を前面に出す清議派役人の活動

それでは、袁世凱は具体的にはどのような人物で歴史上どのような影響をもたらし、何故皇帝まで登りつめながら三日天下的な短命政権で終わったかについて考えていきたいと思う。
袁世凱の権力の頂点を目指す動きは、日清戦争での清国の敗北の直後に始まったと言えるが、この時期は中国において儒教国家の崩壊と中国ナショナリズムの勃興が同時に始まっていた。日本に対する敗北により勢力が衰えたとはいえ、儒教の原理を前面に出す清議派の役人達の活動は、1898年には光緒帝の新政・戊戌の変法の一方の柱として力を強めた時期もあった。基本的にこのような清議派の活動は君主が賢明過ぎたり、腐敗し過ぎてしまうと沈黙を守る傾向があるが、危機意識や道義的義憤により刺激された場合は大変な影響力を持つことが多かった。ちなみに、1937年の盧溝橋事件による日中戦争勃発時もこのような「清議」は爆発したという。(5)

2)役人が清議を放棄した場合の混乱要因

文官,中国

戊戌の変法の抑圧や義和団事件への清朝廷の関与による悲惨な結末により「清議」は沈黙することとなった。役人が「清議」を捨てるとどのようになるかということについては、これまでも「大一統」を巡る金観濤らの議論で観てきたとおりであり、社会が一体化を用いてひとつの安定した大国を組織するには、必ず以下のいくつかの条件を備える必要がある。

①連絡の機能を担える強力な階層が社会に存在していること
②この階層が統一的信仰を有し(辛亥革命前は儒教、現代は共産主義?)、かつ積極的な統一的国家学説を有していること
③官僚によって管理される郡県制が社会に行われていること
④統一的信仰を持った階層を用いて官僚組織が組織されていること

このような条件が揃わないと「中華帝国大一統」の基本要件が崩れ、帝国の統一が失われて大混乱に至るとの見解である。(6)

3)袁世凱の立身出世のきっかけ

袁世凱334
本論文でも何回か取り上げてきたが、構造的には上記のような「中華大一統」の原理を確保しなければ帝国の統一は失われることになるわけであるが、短期的な一時しのぎとしては帝国の維持に必要なのは軍事力のみでも十分であった。この時点で清国が頼りに出来たのは袁世凱の新軍の軍事力のみという現状であり、ここから袁の急速な立身が現実化していくこととなった。1895年以降の清国において政治的な実力を増した勢力はこの袁世凱の新軍=清朝廷の軍事力であり、立憲派は既に力を失いつつあった。(7)

3.袁世凱の思想信条と政治的目標

万里の長城

1)袁世凱の成功と没落の構図

この当時は儒教のイデオロギーが揺らぎ、実質的な力を備えた西欧諸国に対する劣等感や崇拝の念が生じ、勃興しつつはあるがまだ形を整えていない中華ナショナリズムが顕在化しつつある時期であり、このような絶対的イデオロギー不在の状況が「中華大一統」の要件を揺るがし、権威の危機をもたらした。(8)
私の見解では、袁世凱はこのような危機的な状況を掌握し、秩序を再建しようと模索して、奥の手として皇帝まで登りつめながら、自ら行ってきた政策の帰結として、「中華帝国存立の要件」を掘り崩していたが故に、その権力も崩壊したのではないか」、と考えている。まさに「中華帝国大一統」の要件が崩れそうになった時に、それを支えるために袁世凱の軍事力が要請され、自身の政治活動で「中華帝国大一統の要件」が完全に崩れた時に、その役割を終え、「次なる簒奪者に道を譲った」とでも言えようか。

2)状況適応主義的な柔軟路線

袁世凱335

それでは袁世凱は、そもそも何を信じ、どういう将来像を描いていたのであろうか。
袁世凱が反満でないということは、決して民族主義者に同調しなかったという点で明らかであろう。また儒教にしろ、民族主義にしろ十分に内容を理解していたとは思われず、あくまでもイデオロギーとの関係は皮相的なものにとどまっていた。また共和国大総統であった時も共和主義者とは言えず、共和国への忠誠を誓いながら、組織的かつ慎重に共和政的機構を破壊し、自分自身の王朝を作り出すべく努力していた。(9)
結局袁世凱も時代の子であり、明白で適切に定められた価値の不在な変化の時代に合わせただけだったと言えるのではないか。儒教の価値は崩壊しつつあり、民族主義的なナショナリズムの価値が、未だに曖昧でしかない時代には状況に適応するためにはそれしかなかったのではないだろうか。(10)
確かにイデオロギーが確固としていた時代であれば、袁世凱はそれに合わせて行動していたのであろう。例え自分自身が儒家のイデオロギーを把握していなくても儒者を手元に置き、あたかも自分自身が儒家正統イデオロギーの使徒のように振舞ったであろうし、共産党時代であれば毛沢東思想や改革開放の尖兵になったかもしれない。このように、状況適応主義的なところが、袁世凱の強みでもあり限界でもあったのだろう。

4.農民大反乱不在の辛亥革命の例外性

辛亥革命

1)農民大反乱が発生しなかった理由

ここで私自身が漠然と抱いていた疑問点について考えてみたいと思う。
これまで中華帝国においては、王朝が崩壊する時は基本的に農民大反乱によって、それまでの体制が徹底的に破壊されることが通例であったが、辛亥革命=清朝が瓦解する時にそのような大農民反乱が発生したという状況は無かったようである。
このあたりについては、袁世凱が時代の子として、従っていた前記したような政治的シニシズムが大きな要因であるとも言える。すなわち、農民の間に一般的に政治や体制に関する無関心が広がっていたということである。農民の無知や教育の無さ以前の問題として、無関心とシニシズムこそが原因と結果を織りなしていた。このため清朝は、それ以前の王朝と異なりボロボロになりながらも命脈を保ち、農民反乱により覆されることなく生き延びたと言えよう。1900年代の反乱は、町から始まり農村ではなく大都市に広がっていったが、農村部は沈黙し、どこまでも受け身的であった。(11)

2)清朝末期に蔓延した政治的無関心やシニシズム

西太后

それでは、何故このような無関心やシニシズムが清朝末期に中国農村に蔓延していたかということであるが、「アヘンの蔓延」や「諸外国の侵入により王朝の存在が人民の敵として際立ちにくくなった」などいろいろな理由が考えられるが、このあたりは「王朝循環論の例外」として今後の課題として検討していきたい。
このような農民層の無関心のため革命の民衆的基盤は極めて弱く、革命主体としては多少の知識階級、秘密結社、南方の新軍などから成り立つのみであった。知識階級と秘密結社の関係は常に緊張しており、このもろい連携も1912年秋には崩壊した。(12)

3)辛亥革命直後の袁世凱台頭の要因

辛亥革命
このように辛亥革命の革命主体がもろく、かつ民衆的基盤を持つものでもなかったために、「それらを超える力」さえ証明出来れば容易に時局を支配することが可能な情勢が揃っていたと言えよう。袁世凱はそのような力=武力を掌中に収めており、それを有効に行使することで知識階級を抑えて辛亥革命の成果をつかみ取ることに成功した。人民大衆から遊離した革命の末路として実力のあるところに権力が流れ着いた印象であろうか。

5.農民大反乱なき辛亥革命後の旧支配階級の一掃

孫文

1)袁世凱配下の軍人による儒教的官僚集団の地方支配者の一掃

それでは、農民大反乱を経過しない辛亥革命においては、地方を含む支配勢力の一掃はどのようになされたのであろうか。
農民大反乱が発生すれば、地方の省や県の支配者達も根こそぎ一掃されることが通例であった。(13)
このあたりに関して辛亥革命について観ていくと、清朝崩壊後の地方権力は基本的には革命派とは言えない軍人を主体とする保守主義者に握られていたことがある。彼らは自分たちの軍隊の存立を守るため文官政治家を追い出し、その地方の富を独占しようとした。袁世凱としてはこのような地方支配者による中間搾取を排除して財源を確保するためにも、中国を自らの息のかかった軍隊で統一してしまう必要性に駆り立てられていた。袁世凱は国民党に対する内戦も含めて、これらの地方勢力との戦いに勝利したが、彼の地方平定のための野戦部隊は守備隊に編制替えされ、その司令官が新たな軍閥となって台頭していった。(14)
これらの一連の動きがもたらした結果は、中華帝国の大一統の歴史に対して衝撃的な結果をもたらしたと言えるかもしれない。
すなわち袁世凱配下の地方司令官達の県や府、省を支配し平定しようとする要求が、中華帝国伝統の儒教的官僚集団の地方支配を終焉させた。これにより伝統的な科挙合格者の文官による全国統治は、軍人に取って代わられてしまった。(15)

2)儒教イデオロギーによる中国支配の終焉と袁世凱の立身出世

儒教

伝統的な儒教イデオロギーによる中華帝国支配は、辛亥革命というよりは、この一連の袁世凱による地方制圧の延長線上で終焉したと言えるのであり、その後中華帝国大一統の条件が揃うのは、1949年の共産党による人民民主主義革命の成立まで待たなければならなかったとも言えるかも知れない。
少なくとも清朝では科挙出身者でも無く、満州人でもないものが政府の要職につくためには、八旗兵か顕著な軍事的能力を持っていなければ有りえなかったのであったが、袁世凱本人は漢人であり、科挙出身者でもなく、儒家的紳士とは言えない存在であった。
このように、儒家正統のイデオロギーが統治原理としての主役の座を降りることで、政策決定過程も説得から強制という形が支配的となっていった。(16)

3)袁世凱帝政崩壊の要因

帝政崩壊

袁世凱の帝政が短命に終わった理由の一つとして、このあたりの儒教イデオロギーの統治原理としての地位喪失及び地方権力の科挙官僚から軍人への移行があったのではないだろうか。袁世凱自身は科挙出身者でない漢人の軍人として位人臣を極め、地方の支配権を自ら派遣した軍人に委ねて中華を統一的に支配しようとしたが、この過程で「中華帝国大一統」の基盤を掘り崩していたことに気づかず、武力と権力のみを後ろ盾に帝位を狙い、脆くも短期的な王朝として崩壊の憂き目を観た、と言えるのではないだろうか。

尚、本件でも取り扱っている中華大一統の要件については、以下のリンクでも取り上げています。
中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p276
(2)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p276
(3)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p278
(4)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p279
(5)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p279-p280
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(7)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p280
(8)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p291
(9)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(10)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(11)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p292
(12)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p293
(13)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第四章 特異な修復メカニズム p112
(14)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p295
(15)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p295
(16)J・チェン:袁世凱と近代中国 岩波書店 1980 第12章 評価 p296

現代に通じる魏晋南北朝期の中国の混乱要因と北魏による中華大一統再現策の効果の分析!

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秦以来の中華領域における国家の特徴は、基本的に「大一統」を実現しているか、少なくとも「大一統」を目指すことを志向しているか、であり「秦」「漢」「隋」「唐」「宋」「元」「明」「清」がそれに該当するだろう。しかるに、この「中華帝国大一統」の伝統には、一つの明確な例外的時代が存在する。それは、魏晋南北朝時代であるが、本項ではこの「中華帝国大一統の例外」の時代を分析することで、「中華帝国大一統」のメカニズムに迫っていきたいと考えている。

1.政治制度・土地制度から観た魏晋南北朝時代の特徴
1)支配エリートの貴族化傾向の増大
2)地主経済から領主経済への移行現象の進行
3)西晋崩壊後の中国の状況
2.魏晋南北朝時代の中国に蔓延する政治・経済・イデオロギー構造
1)魏晋南北朝時代に特有の準安定構造
2)魏晋南北朝時代の準安定構造とヨーロッパや日本の封建社会構造の類似性
3.魏晋南北朝の混乱状況から超安定構造への復帰の動き
1)魏晋南北朝時代の混乱要因の解消に向けた動き
①「少数民族の中国内地への大量移住」の問題
②仏教の中国化の促進
2)北朝による新たな政策の推進
3)魏晋南北朝時代の大一統復活へ向けた歴史的経過

1.政治制度・土地制度から観た魏晋南北朝時代の特徴

魏晋南北朝期に中華帝国大一統の存立基盤が失われた中華領域では、どのような政治的経済的な状況が現出していたのであろうか。

1)支配エリートの貴族化傾向の増大

三国時代
魏晋南北朝の中国でまず目立っていたのが、支配エリートの貴族化傾向が怒涛のように進んだことが挙げられよう。このため、官僚機構が次第に世襲貴族に独占されるようになり、九品中正制が漢以来の官僚選抜のための察挙・徴辟制度に取って代わっていった。このような魏晋時代の門閥貴族勢力の拡大、王権の凋落、門地等級思想の根強さは他の時代には観られない特異な現象であった。(1)
治世の能臣、乱世の奸雄と言われた魏の実質的な創立者の曹操は、自らは実力主義を実行して天下の大半を支配したが、結局は安定的な中華の大一統を果たせず、政治制度的にも社会の混乱の延長線上に過渡的な秩序しか産みだせなかったと言えようか。結局、曹操は中華大一統を実現し、数百年の太平の天下を築いた先輩の劉邦にも後輩の李世民にも及ばず、「簒奪者であり、一代の奸雄に過ぎない」との評価から完全に抜け出すことが出来なかったとも言えるかも知れない。

2)地主経済から領主経済への移行現象の進行

南北朝時代
宗法一体化構造の不全による経済構造への主たる影響としては、地主経済から領主経済への移行現象が挙げられよう。このことは農民の地主に対する身分的従属関係の著しい強化となって跳ね返ってくるのである。特に西晋の滅亡後には、この時代に顕著な領主制に類似する二つの経済組織が出現した。一つは塢堡主経済でもう一つは宗主督護制と呼ばれるものである。前者は、大塢堡主が小塢堡主を支配し、小塢堡主が労働者を支配する形態で、大塢堡主は政権に密着し、貢納関係を形成するというもので西欧や日本の封建性に近いものであった。後者は、合戸制であり戸主である塢堡主や宗主が数十軒から百軒を束ねて、政府への賦役負担を請け負うものでった。こうした中で、塢堡主や宗主などの貴族層は、農民に対して経済的搾取を行うとともに、行政上の管理権も行使していた。
貴族層は占有する土地を治外法権的に支配する権利を持ち、所属する人民を自由に管理する権限を有していたのである。(2)
このようになってしまうともはや中央集権的専制国家というような代物ではなく、単なる弱小貴族の割拠した分裂型領邦制国家とでもいうべきものになってしまうであろう。統一的な強力な常備軍の存在も期待出来ず、新たなる騎馬民族の襲来に対しても十分な国防力をもって対処する術がなかったことも理解出来る。

3)西晋崩壊後の中国の状況

西晋
西晋が匈奴の反乱である永嘉の乱で崩壊した後、江南に避難することもせず、異民族支配も拒否した貴族たちは塢堡塁を建設して自衛しながら、大量の自作農を取り込んで部曲として編成していった。部曲は平時には耕作し、戦時には戦うと言う形で貴族との強い身分的従属関係を有しており、逆に国家の兵役からは免除されていた。このような部曲は、ほとんど農奴同然の立場であり、貴族との従属関係を解消して自作農になるためには、放免されるか自ら身請けするかしかなかった。北方における領主経済はこのような部曲を中心に成り立っていたのである。(3)
南方における状況も大同小異であり、貴族化は絶え間なく増大し、自作農は減少するばかりであった。地主経済の衰退は、蔭客制の発展と軌を一にしていたが、この蔭客制とは、農民が貴族に身を投じて「蔭庇」(庇護)を受けることで、国家への納税や徭役負担を免れようとすることを指す。東晋時代の蔭客数は数万人いた官吏の人数から推定すると15万戸程度存在したとされており、総戸数が60万とすれば四分の一以上が蔭客となっていた。このような領主型経済では、農奴と化した農民への封建的搾取は激甚であり、農業の生産水準は先秦時代を下回っていたとされる。(4)

2.魏晋南北朝時代の中国に蔓延する政治・経済・イデオロギー構造

これらの状況を踏まえて、魏晋南北朝時代の中国封建社会の政治・経済・イデオロギー構造を分析すると、これは既に超安定構造から明確に逸脱した新たな類型が出来あがっていたことが読み取れる。

1)魏晋南北朝時代に特有の準安定構造

老子
魏晋南北朝に中国に成立していた社会構造としては、「領主荘園経済が政治上の門閥貴族制と適応し、国家の分裂が仏教・老荘・玄学のイデオロギー構造に適応する形態」となるだろう。
このような構造は、ほとんど一体化調節の機能を保持していないか、あるいは一体化調節機能がほとんど微弱な状態に陥っているかのいずれかであり、元々保持されていた一体化調節機能が衰弱から消滅に向かうような時期には、このような新システムが、「地主経済・大一統の官僚政治・儒家の正統」と言った本来の封建社会の在り方に取って代わってしまっていたのであった。(5)

2)魏晋南北朝時代の準安定構造とヨーロッパや日本の封建社会構造の類似性

河西回廊
このような準安定構造が、いわゆる典型的な封建社会とされるヨーロッパや日本の封建社会構造に類似しているという指摘は確かに当たっていよう。魏晋南北朝時代には、天下領域全体を覆うように存在する統一権力も交通のネットワークも統治組織も破壊され、領主荘園経済の優勢の下で経済的にも商業や都市は振るわず、関所で隔てられた狭い範囲での流通経済が微小ながら運営されているような状態に止まっていた。北周時代には河西回廊地域では、西域の金銀通貨が使用されたにもかかわらず役所がこれを禁止しなかった例にも観られる通り、魏晋南北朝期においては統一的貨幣制度は、破壊されてしまっていたのである。このような情勢下では、土地兼併の問題よりも、人手不足を解消するための人口の争奪が問題になっていた。(6)

3.魏晋南北朝の混乱状況から超安定構造への復帰の動き

このような超安定構造から観れば、混乱し逸脱したヨーロッパや日本の封建社会並みの群雄割拠的な分裂状態から本来の超安定構造に回帰、移行する流れが芽生えてきたのはなぜであろうか。この要因を探るためには、超安定構造を破壊した撹乱源が克服されているかどうかを知ることが手掛かりになりうるだろう。

1)魏晋南北朝時代の混乱要因の解消に向けた動き

民族融和

①「少数民族の中国内地への大量移住」の問題

魏晋南北朝期の300年間に渡る長期の大分裂を経過する中で、「内地へ移住した少数民族」が漢族の文化を幅広く受容し、新たなる漢族を中心とした民族の大融合が実現していった。

②仏教の中国化の促進

仏教の影響は300年に渡る分裂抗争の中で刺激を受け続けることで、儒学が漢代経学の古臭さや現実への適応性の無さを一掃し、徐々に主導権を発揮し始める中で希薄化していった。さらに仏教はこの時期、中国式に改造され仏・道・儒の融合体である禅宗が誕生することで、儒家正統イデオロギーに対して真っ向から撹乱作用を起こす主体では無くなっていった。(7)

2)北朝による新たな政策の推進


さらにこれに合わせるように準安定構造がより顕著に現れていた南朝ではなく、少数民族の影響をより強く受けてきた北朝により以下のような3つの施策が強力に推進されることにより、「中華帝国大一統」は最終的に再建されることとなった。

①経済構造において均田制を推進して荘園制度を破壊し、身分的従属関係を破壊して、部曲や佃客を解放して自作農とすること
②政治構造においては、門閥貴族の勢力を弱体化し、皇帝と中央政府の絶対的権威を再建し、九品中正制度を廃止して、一体化の実現に資する任官制度を構築すること
③イデオロギー構造においては、儒家が再び正統としての地位を獲得し、広範な知識人が無為・脱俗の消極的態度を改めて積極的に世事に関与することを促し、大一統の組織力となること(8)

3)魏晋南北朝時代の大一統復活へ向けた歴史的経過

北魏222
こうした中で、魏晋南北朝時代は以下のような3つの段階を経て最終的には、宗法一体化構造に立ち戻る経過を辿ったのである。

・「第一段階:後漢滅亡から西晋までの一体化調節機能の喪失時期」
・「第二段階:西晋の滅亡後、南北朝に分裂し、さらに北側は十六国の大乱に陥った準安定構造の時期」
・「第三段階:北魏の建国以降半世紀の準安定構造から宗法一体化構造再建への過渡期」(9)

尚、本稿とも関連する中華大一統の本質については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。

中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

トランプ大統領の不法移民流入制限の根拠は魏晋南北朝時代の中国の混乱が証明する!

参考文献
(1)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p173
(2)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p174
(3)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p174-p175
(4)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p175-p176
(5)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p177
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p177-p178
(7)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p179-p180
(8)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p180
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p181

米中冷戦に突入した習近平の独裁は清朝の軍機処の現代版としての中国共産党中央政治局常務委員会が基盤である!

天安門楼上

軍機処

習近平は遂に2018年3月5日に開催された全国人民代表大会で国家主席の任期撤廃を盛り込んだ憲法修正案を発表し、実質的な中華帝国皇帝への道を歩み始めました。ここでは清朝の最高意思決定機関である軍機処の権限とその役割が、現代の中国共産党中央政治局常務員会に脈々と受け継がれていることを清朝極盛期の統治方式から解明していきます。

1.清朝皇帝のチベット仏教保護者としての意識
1)清朝皇帝と従来の中華皇帝の意識の比較
2)清朝皇帝の文化的立ち位置
3)清朝に服属したモンゴル人やチベット人の中華文明への意識
4)モンゴル・チベット・新疆に君臨する清朝皇帝の立場
2.清朝による中国内地以外の新領域支配の実相
1)中国内地以外の新領域の支配状況
2)大一統の原則と礼部、藩部の統治論理
3)清朝の対外関係の論理
3.清朝皇帝の視点から捉える最大版図を実現した中華帝国の実像
1)中華帝国の拡大により鼎立する支配地域の状況
2)清朝皇帝にとっての軍機処の存在意義

1.清朝皇帝のチベット仏教保護者としての意識

1)清朝皇帝と従来の中華皇帝の意識の比較

文殊菩薩
清の皇帝はチベット仏教を保護する「神武英明皇帝」あるいは「文殊菩薩皇帝」としてモンゴル、チベット人から尊敬と服従を確保(1)し、それまでの漢人による中華帝国が成しえなかった空前の中国領土の拡大を実現したが、皇帝自身はチベット仏教に対してどのような認識と位置付けをいだいていたであろうか。
本来中華皇帝は「儒家正統と漢字を中心とする中華文明」の中心として存在し、周辺の文化・風俗に対してはランクの異なるものとして接するのが常であったと思量されるが、果たして清の皇帝はどうであったのか。
清の皇帝が漢文でモンゴル人やチベット人のためのチベット仏教の保護を説明する時は、「易経」からの出典による「神道を以て教を設ける」と言うフレーズを用いるケースが多く、これだけを観れば清朝の皇帝も従来の中華帝国の皇帝同様に「チベット仏教に対する尊崇は、見せかけであり、辺境の民を手なずけるための方便である」と言うようにも読み取れる。(2)
とはいえ、このような観方は「中華」寄りの観方であり、実際のところ清朝皇帝の胸の内がどのあたりにあったかということは、もう少し慎重に検討していく必要があるだろう。
またこのことは、清朝の支配構造やその政権基盤も含めて再確認していく必要があることは言うまでも無い。

2)清朝皇帝の文化的立ち位置

チベット仏教
一方で見方を変えれば、ここでいう「神道」とはチベット仏教のことであり、その力でモンゴル人、チベット人を教化し、平和と安定をもたらしているとすれば、元来の中華文明たる「儒家正統・漢字文化」に依拠する必要もなく、独自の世界観で自足することを認めているとも受け取れるだろう。(3)
こちらの方が、実際に近いのかもしれない。清朝は中華文明エリアとしての中国内地とそれ以外の地域を藩部として区別して支配したが、支配構造だけでなく文化的にも両者を並列的に捉えていたのではないだろうか。
いずれにせよ、清に服属した一般のモンゴル人やチベット人がこの後「儒家正統や漢字文化」を中華文明の精髄としてチベット仏教文化より優れたものとして受け入れたという形跡は観掛けられない。(4)

3)清朝に服属したモンゴル人やチベット人の中華文明への意識

八旗
清朝の支配者の感覚は一先ず置くとしても、モンゴル人やチベット人の側では、中華文明に対して、自分たちの誇るチベット仏教文化が劣っているという認識は皆無であったようである。「中華」と言う概念そのものがモンゴル語、チベット語、ウイグル・カザフ族が用いるトルコ語東部方言には未だに翻訳されていないという。(5)

4)モンゴル・チベット・新疆に君臨する清朝皇帝の立場

五族共和
それでは、中華文明に平伏したわけでもない新領土のモンゴル・チベット・新疆の人々に清朝皇帝が、服従と尊敬を勝ち得て一定の平和を築けたのは何故なのか。答えは既に記述してきたとおり、清の皇帝が新領土に対して中華文明の代表たる「儒家正統・漢字文化」を体現した存在として君臨するのではなく、全く別の顔で「文殊菩薩皇帝」「神武英明皇帝」たるチベット仏教の保護者として現れ「中華文明を押し付けるのではなく、個別の宗教文化を尊重し、保護育成を図った=教を尊重した」(6)ことによるのだろう。すなわち、清の皇帝は中華文明の代表でもなければ、チベット仏教の保護者というだけでもなく、実質的に展開した版図においてそれぞれの文明・文化を尊重し、平和と安定を保証するような存在を目指したのではなかったか。そしてその保証を得るためには版図の住人は、「皇帝の支配を受け入れさえすればよい」(7)のであった。
このように考えると清の帝国としての統治が中華文明と辺境との境界であった「万里の長城」の存在を前時代の遺物に変えてしまう空前の広がりと安定を確保した理由の一端が垣間見えるような気がするのである。

2.清朝による中国内地以外の新領域支配の実相

それでは、ここからは清朝の「中国内地」以外の地域支配について確認していきたい。

1)中国内地以外の新領域の支配状況

大清帝国

清の支配する漢人の「中国内地」以外の地域支配の在り方、枠組みは以下のように各地の実情に合わせて木目細かく設定されていた。
・「旗地」:八旗の旗人に分配された所領
・「盟旗」:モンゴルの王侯が軍事的な義務(定期的な狩猟訓練への供奉)⇒北京への参勤交代(年班)と引き替えに牧民と牧地への支配を認められたもの
・ダライラマ政権とそれに寄進された土地
・「ラマ旗」:チベット仏教寺院領が独立の旗となったもの
・「土司」「千戸長」「百戸長」:チベット高原東部等の各地の部族の長を西南の非漢人地域同様に認知し、小規模な地域支配が認められたもの
・クムル、トルファン:ジュンガル駆逐において清に協力したトルコ系ムスリム王の領地
・新疆のオアシス:イリ将軍の軍事支配の下で各地のトルコ系ムスリム有力者をハーキーム・ベグに任命

上記のエリアと皇帝との関係は、科挙官僚ではなく八旗の軍人を多用して維持されており、明らかに中国内地の漢人地域とは異なる統治が遂行されていた。(8)

2)大一統の原則と礼部、藩部の統治論理

朝貢
ここに取り上げた内容は、これまで中華大一統の原則として取り上げてきている金観濤の「大一統四原則」(9)を大きく逸脱していて興 味深い。また清朝がこのような多種多様な地域をまとめ上げ、拡大版「大一統」を安定的に実現してきた論理について確認しておく必要があるだろう。
また朝鮮や琉球などの朝貢国一般が「礼部」に管轄され儒家正統的な「礼」が、清と朝貢国を結合する原則となっていたが、新領土に関しては「理藩院」の管轄であり「藩部」と総称されており、その関係の基本にはチベット仏教やイスラムの教えを皇帝が保護するという認識が色濃く打ち出され、儀礼や文書に反映された。またロシアやネパールとの関係も朝貢国を取り扱う「礼部」ではなく「理藩院」が管轄していた。(10)

3)清朝の対外関係の論理

理藩院
このように清朝は、国内統治のみならず、対外関係に関しても儒家正統をベースとする「中華」文明の強い影響下の地域とそれ以外の地域で区別していたことがわかる。清朝は国内における「大一統」の維持に関しだけでなく、対外関係においても単なる「中華」の延長線上にはとどまらない「別の顔を持った帝国」としての幅の広さを示していたと言えよう。
このように「礼部」が管轄する「儒家正統・漢字文化・科挙官僚・朝貢国」の伝統中華文明エリアと「理藩院」が管轄する「チベット仏教・イスラム・八旗軍人・現地独自支配の尊重」の新領土エリアが、いわゆる「東南の弦月」「北西の弦月」として清の皇帝の権威と威令の下で異なる統治原理で服属し(11)、長期にわたり安定した清による平和を享受した源泉となった。

3.清朝皇帝の視点から捉える最大版図を実現した中華帝国の実像

1)中華帝国の拡大により鼎立する支配地域の状況

新疆モスク

このような状況を観れば、支配する領域の各地に対して最適な支配機構を誂えることに心を砕いた清朝皇帝が、「儒家正統・漢字文化・科挙官僚」をベースとする中華文明エリア=中国内地のみを清朝の中枢的なエリアとは認識していなかった、と想定出来るのではなかろうか。中華文明エリア=中国内地も藩部としての新領土エリアも等しく清朝皇帝の支配体制の下にあり、「チベット仏教」「イスラム」「儒家正統」というそれぞれの「神道」を以て教を設ける」対象として、それぞれ「モンゴル・チベットエリア」「新疆エリア」「中華文明エリア=中国内地」が存在したというのが、清朝皇帝から観た実像に近かったのではなかろうか。

2)清朝皇帝にとっての軍機処の存在意義


雍正帝の創設した軍機処は、「礼部」と「理藩院」の両者を有機的に結合し、縦割りを排して、清朝全体を見渡しつつ「迅速かつ効果的」な統治を実現するために必要不可欠な役割を担うこととなった。(12)
ここまで観てくると既に明らかなように清朝皇帝にとっての「神道」とは、「チベット仏教」「イスラム教」だけでなく「儒家正統」といえども、その中にスッポリと収まるような膨大な器の容器であったことが観えてくる。
清朝皇帝はこのように「神道を以って、教を設け」つつ、自らは超然と「軍機処」という、清朝内のあらゆる「神道」を超越する最高意思決定機関を通して全てを支配しようとしていた、と言うことになろう。
そのように考えれば、現代の中国共産党中央政治局常務委員会と清朝における軍機処の位置づけの類似性が一層浮かび上がってくる、と言えるだろう。

尚、本稿とも関連する清朝の中華帝国統治方針に関しては、以下のリンクでも取り扱っております。
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服は戦略的な帝国統治政策のモデルケースである!
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆侵略による永続的な中華帝国最大版図拡大実現の背景!

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p150
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p150-p151
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(4)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p153
(7)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p154
(8)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p156
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(10)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p157
(11)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p157
(12)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p158

鄧小平による天安門事件での民主化運動の武力弾圧は中国共産党一党独裁体制維持のため必然の帰結である!

天安門事件

天安門事件での民主化デモへの武力弾圧を経ても「安定」した支配を継続する中国共産党の統治原理について検討する。

1.天安門事件に至る道程における「人民日報」の「動乱社説」の政治性
1)「人民日報」に発表された「動乱社説」の主張
2)「動乱社説」において明確にされた中国共産党による統治構造の枠組み
3)中国共産党による政治の核心的原理の表面化
2.「動乱社説」後の天安門事件における「反革命暴乱武力鎮圧」への道程
1)「動乱社説」後も盛り上がる「反体制的」な活動
2)天安門事件に直結する中国共産党政権側の動き
3)中国共産党側の「対話」拒否の姿勢
4)武力鎮圧に直結する「戒厳令」の布告
3.日中で相違する治安維持のための実力行使の方法論
1)日本の安保闘争の鎮圧方針と鄧小平体制の方針の相違
2)中国における政権側の絶対的な統一権力の維持と貫徹への強い志向性
3)中国共産党の本質的性格としての「民衆に依拠しない専制的な」方向性の明確化
4.中華世界大一統維持を最優先する中国共産党
1)「暴徒の物理的排除」を超える中華天下統一維持のための「実力行使」
2)皇帝専制時代から中国共産党一党独裁を通底する「帝国的権力」
5.天安門事件鎮圧における武力行使と中国共産党支配の正統性調達
1)鄧小平体制の天安門事件での武力行使と人民大衆の認識
2)中国共産党の統治方針の個人崇拝的方向性からの転換

1.天安門事件に至る道程における「人民日報」の「動乱社説」の政治性

人民日報,動乱社説

1)「人民日報」に発表された「動乱社説」の主張

天安門広場に市民,学生が集結し、各種の要求を掲げると言う未曽有の緊迫した状況の中で、「人民日報」が、いわゆる「動乱社説」を発表し(1989/4/26)、この中で、「胡耀邦追悼大会終了後に、下心をもったごく少数の者が、共産党の指導と社会制度反対を扇動し、一部の大学で不法組織を結成し、様々な活動やより大きな事件を起こそうとしたが、これは、明らかに計画的な陰謀であり、動乱である。その実質は、中国共産党の指導と社会主義制度を根本から否定することにあり、全党と全国各民族人民の前で行われた重大な政治闘争である」と主張した。(1)

2)「動乱社説」において明確にされた中国共産党による統治構造の枠組み

中国共産党

この「動乱社説」で取り上げられた、「党の指導と社会主義制度」は、中華人民共和国がその建国にあたり、まさに「国是」として選択した基本的な国家の枠組みであり、人民民主主義独裁として規定された。さらにマルクス・レーニン主義の前衛党理論に立脚し、中華世界の独立や統一を確保するナショナリズムの旗手として屹立する中国共産党を中核的存在とし、国家の政治の全てが中国共産党の指導のもとに行われるべきものとされていた。このような体制において、人民は日常生活の場でも全ての活動が、党のもとに組織化され、全ての運動が党の指導のもとに行われることとなり、これは現代に至るまで、現代の中華世界の政治構造の有りようの最も基本的な枠組みとして常に機能している。(2)

3)中国共産党による政治の核心的原理の表面化

中国共産党中央委員会

このように、「動乱社説」は、「中国共産党の指導や関与の範囲外の一切の組織、活動、運動を全て不法組織、体制への挑戦と看做す」と言う中国共産党政権の核心に存在する最も原理的な政治の有りようを、極めて明白に白日のもとに晒すこととなった。また共産党による一党独裁体制とは、どのような政治的な枠組みと政治構造を持つのか、ということを鮮明に映し出したものであったとも言えよう。(3)

2.「動乱社説」後の天安門事件における「反革命暴乱武力鎮圧」への道程

天安門事件222

1)「動乱社説」後も盛り上がる「反体制的」な活動

国家権力の中枢が、「動乱社説」と言う形で、中華人民共和国の在り方と中国共産党の存立基盤を明確に表明したことで、「天安門に集結した学生・知識人」は抜き差しならない立場に追い込まれることになったが、逆に「反体制的な活動」そのものは、五四運動の記念日を挟んで、百万人規模のデモの出現など、一層大規模な盛り上がりを見せる展開となった。

2)天安門事件に直結する中国共産党政権側の動き

天安門事件336

この後の展開のポイントは主として、2点取り上げることが出来るだろう。(4)

・第一は、共産党政権側が、「対話」要求に一切応じようとしなかったこと。
・第二は、実際のところ、学生知識人の「物価抑制、生活向上、官倒反対、民主と法制建設」は、政権のスローガンでもあったが、「治安回復」と「秩序維持」のために、人民を敵に回すことも厭わず「首都戒厳令」の布告に踏み切ったこと、である。

3)中国共産党側の「対話」拒否の姿勢

趙紫陽,対話

第一の政権側が「対話」を一切拒否する姿勢は、まさに「党の指導によらない不法組織を容認しない姿勢を貫いた」ということであり、「全国のあらゆる機関、組織、工場、団体における党の指導を体現する合法組織」の存立基盤を確保し、全国に遍く張り巡らされた共産党一党独裁体制の網の目を綻びさせないための措置であった、と言えよう。

4)武力鎮圧に直結する「戒厳令」の布告

第二の「戒厳令」布告に関しては、中国共産党政権が人民の側を向いているのか、あるいは体制維持を最優先するのかの試金石でもあったし、ここで「戒厳令」を選択することで、中国共産党政権の本質を明らかにするものであった、と言えるだろう。この「戒厳令」布告から「反革命暴乱武力鎮圧」までの距離は、ほんの一歩であった。

3.日中で相違する治安維持のための実力行使の方法論

安保闘争

1)日本の安保闘争の鎮圧方針と鄧小平体制の方針の相違

我が国の安保闘争においては、最終段階まで政権側に動員されたのは警視庁機動隊を中心とする警察権力のみであり、自衛隊による武力鎮圧が結果的になされなかったことは、国家権力の中枢部における日中の相違を象徴する出来事とも言えるのではないだろうか。
結局鄧小平体制は、学生・知識人との開かれた場での対話ではなく、物理的強制力による鎮圧を選択した。中国の歴史を辿ってみると、「国家制度の運用」「制度的手続きを含みこんだ政治過程の進行」というのは、統治権力にとって異質であった。鄧小平は、次のように語って統治権力の一元的掌握の強い決意を表明している。
「彼ら(今回の運動に参加した学生たち)は、憲法の中の民主主義、自由を用いて、われわれと闘争している」(5)「中国で、もしあなた方の三権分立や普通選挙制度を持ちこむならば、中国は必ずや動乱の局面になり、今日はこのデモ、明日はこのデモとなろう」(6)

2)中国における政権側の絶対的な統一権力の維持と貫徹への強い志向性

天安門事件221

中国においては、強固な一元的権力の貫徹が行われないと、潜在するアナーキー的な状況が噴出して大混乱に陥る、という危機感が政治指導者の共通認識であり、実際に統一権力が崩壊すると分裂割拠の有りようとなる、と言うのが歴史的事実でもあった。このような歴史的な経緯もあり、国家権力の側は常に絶対的な統一権力の維持と貫徹を志向してきたと言えようし、鄧小平の権力観もその延長線上にあったことは疑いないと思われる。(7)

3)中国共産党の本質的性格としての「民衆に依拠しない専制的な」方向性の明確化

中国共産党専制支配

中国において整備されてきた「憲法」やその中で規定された自由・民主主義はあくまでも「法の支配」のためのものではなく「法による支配」の正統性を支える存在ということになろうか。(「法制の確立」とは、むろん「法の支配」ではなかった。それは「何よりも法による支配」を意味していた」(8))
このような権力の在り方は、中国の政治風土に根ざしたものであり、「党の指導」の基本的根拠を構成するマルクス・レーニン主義の「前衛党」の意味、役割とは全く無縁のものであることは確かであり、むしろ伝統的かつ前近代的な専制権力の一つの態様を表出していた。(9)
ここに至って、中国共産党の権力中枢はギリギリの段階で、「民衆に依拠しない専制的な」性格を如実に明らかにした、と言えるだろう。

4.中華世界大一統維持を最優先する中国共産党

李世民

1)「暴徒の物理的排除」を超える中華天下統一維持のための「実力行使」

戒厳令布告から武力行使に至る15日間の過程において、一部では地方の人民解放軍部隊のデモ支持というような噂も流れていたが、このような中で軍閥割拠や分裂の可能性の排除は党指導部にとって至上命題であったろう。結局党指導部は予想される広範な人民大衆の批判の矢面に立つことや国際的なボイコットの動きのマイナス面よりも、天安門広場を制圧して国家を統一的に支配貫徹して秩序を維持することを最優先に決断を下した。天安門広場の武力制圧は、単なる「暴徒」の物理的排除ではなく、中華天下の統一維持を貫徹する伝統的専制権力の現れとしての権力の側からする力そのものの示唆であり、抵抗するあらゆる力に対する威嚇であり、非服従者に対する見せしめとなった。(10)

2)皇帝専制時代から中国共産党一党独裁を通底する「帝国的権力」

乾隆帝

六四天安門事件で行使された権力は、まずは「一党独裁権力」であり、「開発独裁権力」の要素も併せ持ち、さらにはそれが「伝統的専制権力」と結合された重層的な権力であったといえよう。(11)
ここで立ち現れることとなった幾つかの権力の実態のうち、「伝統的専制権力」こそは、かつての皇帝専制時代から中国共産党一党独裁時代を一貫して流れる「帝国的な権力」の有りようを白のもとに晒したことになるだろう。中国共産党中枢部は、中華世界大一統維持のために、まさに「快刀乱麻を断つ」一撃に出たのである。

5.天安門事件鎮圧における武力行使と中国共産党支配の正統性調達

鄧小平333

1)鄧小平体制の天安門事件での武力行使と人民大衆の認識

鄧小平体制のこのような武力行使と言う選択が人民大衆の支持を受けるか否かは疑問であった。人民大衆は学生・知識人の自由と民主の要求は支持していないし、三権分立や多数政党主義なども考えてもいないが、中国の政治文化の徳治主義の伝統を踏まえれば武力行使と言う物理的強制力の発動にも批判的であった。天安門に集結した「暴徒」が特に人民大衆の生活を危険に陥れるものと断定出来ない以上、今回のような武力弾圧は体制の側にとっても一定の政治的打撃となったと言えよう。

2)中国共産党の統治方針の個人崇拝的方向性からの転換

江沢民

六四天安門事件後の動向として、毛沢東や鄧小平のような個人カリスマに頼った統治は困難になっており、党が指導の中心とならざるを得なくなってきているが、同時期のソ連・東欧の体制崩壊の影響もあり共産党の支配の正当性も急速に後退しつつあった。このような中で党が国民を指導する正統性の根拠としては、「愛国主義」と「天と自然の理」を社会主義に加える動きが観られた。

 ・「今日の中国においては、愛国主義と社会主義は本質的に統一されています」(12)
・「社会主義は中国の国情に合致し、人民の心から擁護されている。40年の風雨を経て、社会主義は神州の大地に根を下ろし、天を衝く大樹に成長し、葉を茂らせ、生気はつらつとしている」(13)

このように「天の理」「自然の理」が強調されている状況を観れば、中国における社会主義は西欧起源の原型が後景に退き、中国化あるいは中国伝統の徳治主義や「天の思想」が前面に復活しつつあることが窺えよう。

尚、本稿でも取り上げた天安門事件と中国共産党の方針については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。
天安門事件に至る中国の国内状況及び中国共産党一党独裁=鄧小平体制の支持基盤の解明!

天安門事件=体制転覆の危機で表面化した改革開放の象徴としての鄧小平と中国共産党による一党独裁体制の本質!

<参考文献>
(1)人民日報 旗幟鮮明に動乱に反対せよ 1989/4/26
(2)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p185-p186
野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p186-p187
(3)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p187
(4)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p192
(5)矢吹晋:チャイナクライシス 重要文献 第一巻 蒼蒼社1989 鄧小平講話 1989/4/25
(6)人民日報 1989/6/24 カーター元米大統領との談話
(7)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第1章 中国の危機とは何か p13
(8)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 P199
(9)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 P199
(10)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p199
(11)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p199-p200
(12)江沢民演説 1989/9/29
(13)人民日報 1989/10/1

トランプ大統領の不法移民流入制限の根拠は魏晋南北朝時代の中国の混乱が証明する!

移民排斥大統領令

トランプ大統領は移民制限を行い、移民の無秩序な流入が国家崩壊の根源的理由との立場を原理的に堅持して民主党と対立し、一時的な政府機関閉鎖もやむなしとの構えですが、中国の魏晋南北朝時代は、まさにトランプ大統領の警戒する大量移民流入による国家崩壊のモデルと言えるでしょう。

1.中華帝国大一統の必須四条件
2.魏晋南北朝時代の中国の混乱要因
1)「中華帝国大一統」のメカニズムを揺るがした第一の混乱要因
①トランプ大統領の警戒する移民大量流入と同様な西北少数民族の影響の拡大と漢族の人口減少
②トランプ大統領も強調する移民大量流入の弊害としての漢族の人口減少が誘発する混乱要素
2)「中華帝国大一統」のメカニズムを揺るがした第二の混乱要因
①魏晋南北朝時代の知識人に広まっていた消極性と仏教の伝来
②儒家正統の国家統治イデオロギーとしての地位喪失と仏教の影響力拡大
③外来文明の衝撃としての仏教とその受容過程

1.中華帝国大一統の必須四条件

伝国の璽

中華帝国の統治構造の研究者である金観濤によれば「中華帝国が大一統を維持」するためには、以下の四条件が必須である、との認識を示しています。(1)

①連絡の機能を担える強力な階層が社会に存在する
②この階層が統一的信仰を有し、かつ積極的な統一的国家学説を有する
③官僚により管理される郡県制が社会に行われている
④統一的な信仰を持った階層を用いて官僚機構が組織されている

しかるに、ここで取り上げる魏晋南北朝時代に関しては、上記の4条件はどれも崩壊しており、その帰結として「中華大一統」は解体し、塀に囲まれた荘園が林立し、身分的従属関係の強化が観られ、儒家が正統的地位を喪失して、仏教・玄学が流行するなど、他の王朝とは異なる中国史上における変則的な時代となってしまいました。(2)

基本的に理念的にも実際の天下の支配状況も「中華大一統」の実現を至上命題としてきた中国にとっては、このような魏晋南北朝時代の混乱は、まさに変則的例外的な時代であった、ということになるでしょう。
さらに、この時代の混乱要因を子細に検討していくと、トランプ大統領が政策の根幹の一つとして早速大統領令を発した「大量移民流入問題」が、浮かび上がってくるのです。すなわち大量移民流入問題への適切な対処が「中華帝国大一統」の維持にも死活的に重要であったとともに、アメリカの体制維持のためにも必要不可欠である、というのがトランプ大統領の主張ということになるでしょう。

そういう意味では、中国の魏晋南北朝時代の混乱と亡国の危機の状況は、トランプ大統領の移民政策にとって、まさに政策立案のためのモデルケース的な格好のサンプル事例を提供していると言えるかもしれないのです。

2.魏晋南北朝時代の中国の混乱要因

金観濤によれば、魏晋南北朝時代にさまざまな変則的現象が現れたのは、中華帝国が伝統的に安定した統治を続けるために維持してきた「宗法一体化構造」が様々な要因の撹乱を受けてその調節機能を失ったこと(3)に原因があると言います。
すなわち、魏晋南北朝時代の中国は、他の安定した時代に比べて様々な混乱要因が、ひと際拡大していたということです。それでは、魏晋南北朝時代の混乱要因とは、どのような現象を指していたのでしょうか。

1)「中華帝国大一統」のメカニズムを揺るがした第一の混乱要因

万里の長城

①トランプ大統領の警戒する移民大量流入と同様な西北少数民族の影響の拡大と漢族の人口減少

古来から中国に対しては、西北少数民族が大きな影響を与えてきたわけですが、何故魏晋南北朝時代に至って突如として大きな混乱要因になったのでしょうか。このあたりを分析すると、後漢王朝滅亡から三国時代を経て晉の崩壊に至る大動乱により、特に中原地域の人口が壊滅的に減少したことによる、と言えるでしょう。後漢時代の156年の人口が五千万人であったのが、263年段階になると537万人となり、ほぼ十分の一にまで減少してしまいました。(4)
中華領域におけるこれほどの人口減少が、どのような影響を社会に及ぼしたのかということですが、特に失われた人口の大半が、漢族を主体とする中核地域であった中原地帯であることを考えると、漢族の人口損耗の大きさが伺われます。
翻って後漢後期に中国に移住した少数民族は、合計870万人に達しており、後漢末期の人口5000万人に対する人口比は17%前後となりますが、西晋の人口は最も多い時で1600万人なので少数民族の人口比は54%以上に達していました。さらに南朝の漢族政権下においても事情はほぼ同様であり、例えば南朝の宋の464年の人口が5546万人余りに対して、蛮・俚・僚といった少数民族が約3000万人は居住していたということであり、少数民族の人口比は50%を超えていたことになります。(5)

現時点のアメリカの人口構成では、白人が70%強程度で黒人が12%程度となっていますが、近年メキシコからいわゆるヒスパニックの流入が続いており、今後のトランプ大統領の移民制限の厳格化の究極的な標的になっている、と想定されます。
尚、人口構成に対する中東系移民の割合はまだまだ少ないですが、いきなりメキシコからのヒスパニックの移民制限に踏み出すのは影響が大き過ぎるということもあり、テロの印象が強くアメリカ国民の受け入れやすい中東のしかも数カ国に限定して当面制限を課したものと考えてよいでしょう。
それでも、原理的にアメリカが「移民を受け入れて強くなった自由で寛容な国」という信念を抱いている、リベラルな傾向のほぼ半数の市民からは猛反発を受けているという状況でしょうか。

ともかく、今後アメリカも人口構成比が、いろいろ変動してくるとかつて中華帝国が魏晋南北朝時代に辿ったような、混乱と激動に見舞われる可能性が否定出来ないでしょう。

②トランプ大統領も強調する移民大量流入の弊害としての漢族の人口減少が誘発する混乱要素

騎馬民族
このように移民の大量流入により、中国において漢族が人口比率の上で優位ではなくなってしまいました。ある意味では、漢族も人口的には「少数民族」の一構成要素に転落してしまっていたとも言えるでしょう。このような漢族の人口減少はどのような事態を惹起することになるのでしょうか。
こうした中国の中核地域である中原地帯における人口の減少により支配階級は、積極的に辺境の少数民族を内地に引き入れて労働力に充てるようになり、漢族と少数民族の人口比問題は一層少数民族側が多数になるように傾く傾向が継続することとなりました。さらにこれらの新規に流入してきた少数民族の大多数は、遅れた氏族部落制あるいは奴隷制の段階にあったため、中国に既に存在していた「中華大一統」の要件を構成する「宗法一体化構造」にとって巨大な衝撃をもたらす要因ともなりました。(6)

英語が使えるかどうかも怪しい安価な労働力として、アメリカ国内で手っ取り早く集めやすいヒスパニックが歓迎されるということはあるでしょう。一方でトランプ大統領は、メキシコに工場を建設し、安価なコストで製造した製品をアメリカに持ち込んで、儲けるというような行き方をやり玉にあげようとしているようです。まあともかくアメリカの隣国のメキシコは、これまではアメリカの懐深くに入り込んで、結構な儲けを確保していたでしょうが、トランプ政権発足後はかなり慌て始めているかもしれません。

「中華帝国大一統」の基礎となる漢族を主体として形成されてきた「宗法一体化構造」そのものが、少数民族の人口比率拡大により、その成立基盤を掘り崩され、成り立たなくなってしまった状態となりました。さらに民族構成にこのような巨大な変化が生じた以上、かなり長い歴史的過程を経ない限り、民族の融和を完成させて混乱要因を克服することはほとんど不可能となったのです。(7)

確かに、一旦アメリカにとって、その成立基盤を脅かすような価値観の異なる移民が大量に流入した場合、流石に移民で成り立った国であるアメリカも構造的な混乱要素を抱え込むことになり、立ち直るのに相当な時間を要することになるでしょう。
トランプ大統領の出現とそのヒスパニックや中東からのアメリカのそれまでの価値観と異なる移民を制限する政策は、魏晋南北朝時代の歴史の展開を子細に検討した範囲では、アメリカの将来にとって一種の救世主的な結果をもたらす可能性も否定出来ないのかもしれません。

2)「中華帝国大一統」のメカニズムを揺るがした第二の混乱要因

儒教

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①魏晋南北朝時代の知識人に広まっていた消極性と仏教の伝来

後漢の中・後期における知識人の政治生活は厳しく士官の道も拓けていませんでした。また学術界は、退屈で煩瑣な経学の考証が主流をなしており、儒学の信仰の危機の時代となっていました。このため魏晋南北朝時代の知識人は、儒学を批判して別に活路を求めるため、諸子百家を研究したり、原始儒家の経典を発掘しようとしたので、多くの沈滞消滅していた学派が息を吹き返しました。このような諸学派の研究が儒教独尊以来の行き詰まりを打開するとともに、経学は急速に衰退することとなりました。
こうした、経学の衰退・各派学説の活発化により小規模な百家争 鳴の到来ともなりましたが、その後は清談・玄学と道家が勃興し、イデオロギー構造の主流となっていきました。(8)

②儒家正統の国家統治イデオロギーとしての地位喪失と仏教の影響力拡大

中国仏教
こうして前漢武帝時代に董仲舒により大成され、国教化された儒家正統は、その地位から追い落とされ、中国は「中華帝国大一統」の重要要件である「統一した国家学説」を喪失し、漂流することを余儀なくされるに至りました。
さらに後漢後期に伝来した仏教が、中国のイデオロギーに巨大な影響を及ぼし始めることともなりました。仏教も伝来直後には、それほど大きな影響を与えていませんでしたが、その後魏晋時代の玄学の勃興により仏教的な思想も受け入れられる範囲が拡大していき、伝播のスピードも速まっていきました。仏教は、国家の混乱状態の中で人々が逃げ場所を求める中で、心の平安を提供する役割を果たしつつ広まっていき、玄学とともに宗法一体化構造の機能不全をもたらす重大な一因を為すに至りました。(9)
本来、宗法一体化構造とは、統一した国家学説を信仰する知識人に依拠して官僚機構を組織し、封建的礼制によって家庭と国家の等級秩序を維持することをベースに成り立っており、当時の状況としては知識人が儒家の信仰を持つことが前提となっていました。(10)
そうした中で、仏教や玄学が知識人に幅広く浸透し、儒家の思想が観向きもされないありさまになると言うことは、到底安定した一体化構造を構築することは困難な状況に陥っていたと言えるでしょう。

③外来文明の衝撃としての仏教とその受容過程

中国仏教2
仏教は「中国が初めて遭遇した強力なパワーを持つ外来文明の衝撃」(11)であり、中国文明はそれをそのまま鵜呑みにすることも、真っ向から否定することもせずに、時間をかけて消化する道を選び、「中国的特色ある仏教文化」が後に開花することとなりました。
このような行き方は、今日の「中国的特色ある社会主義」「中国的特色ある資本主義市場経済」「中国的特色ある国民国家」を志向する状況と一脈通じるものがあるのではないでしょうか。

現代に通じる魏晋南北朝期の中国の混乱要因と北魏による中華大一統再現策の効果の分析!

中華帝国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(2)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p168
(3)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p168
(4)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p168
(5)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p168
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p169-p170
(7)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p169
(8)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p170
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p172
(10)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p172
(11)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p172

中華帝国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

中華世界を支配する王朝が、その支配正当性を調達し、中華世界を「帝国」として統治するための根拠となる論理としての「大一統」「天下思想」「儒家正統」について検討する!

1.「帝国としての中国」の基本類型としての「多重型」帝国と「多元型」帝国の検討
1)漢人支配者による「多重型」帝国の構造
2)異民族支配者による「多元型」帝国の構造
2.中華世界に成立した「中華王朝」の帝国性の検討
1)「中華王朝」の基本的性格
2)「帝国としての中国」成立のための条件
3)中国支配正統性の根拠
4)中国支配の正統性必須要件としての「大一統」
3.中華帝国統治のための基本的イデオロギー
1)董仲舒による中華統治のイデオロギーの体系化
2)「天下思想」における「政治秩序」の論理
3)「天下思想」と「民意」の反映としての農民大反乱の正当化
4)「天下」の範囲と「大一統」の実現
5)「天下思想」と「天命」による支配正統性の調達原理

1.「帝国としての中国」の基本類型としての「多重型」帝国と「多元型」帝国の検討

騎馬民族

歴史上における「中華帝国」は、その支配者の出自も踏まえて基本的に「多重型」と「多元型」の二つの類型に分類できると言えよう。

前者は発祥地が「漢人地域=中華」であり、主として「一元的天下」「三重的構造」「周辺の四夷」と言う三つの要素を備える帝国構造を指し、後者は「周辺の四夷」エリアにおいて成立し、その後に中国に入る征服王朝で正統な中華王朝を志向しながらも純粋な民族的性格や民族の根拠地を重視する帝国構造を指す。(1)

この類型に従えば、例えば隋唐、宋、明などは前者となり、遼、金、元、清などは後者となろう。考えてみれば中華世界を、漢族が完全に支配していた時期と言うのは、そんなに長いものでは無いとも言えそうである。10世紀からの1000年間でも宋は、北部地域を遼や金に支配されており、挙句の果てが元による中華世界全面支配に至った。その後、ようやく明が中華世界を全面的に漢族の天下を回復するが、それも1368年から1644年までの間だけで、その後は中華世界全体が清の全面的な支配を受けた。そのように考えると中華世界においては、総じて多元型の中華帝国が優勢だったと言えようか。

1)漢人支配者による「多重型」中華帝国の構造

万里の長城

漢人支配者によるいわゆる「多重型」の中華帝国構造においては、「中華」と「四夷」の関係は流動的であり、「中華」を第一地帯とすれば「四夷」は第二地帯、あるいは第三地帯となる。第二地帯と第三地帯の相違は、第二地帯は中華に接しており中華帝国の主権の範囲内であるが、第三地帯は「属国」として中華帝国が「宗主権」を持つエリアとなる。第一地帯は第二地帯が中華文明に漢化され変質することで拡大し、第二地帯も第三地帯の変質により拡大するという流動性を持つ。このように漢人支配者による中華帝国においては中華文明圏の拡大が、直接統治領域や主権領域の拡大につながっていく。(2)

このような多重型中華帝国構造における中華文明圏の拡大現象であるが、これにははっきりとした限界があったと言わざるを得ないだろう。すなわち、この領域は明の最大版図を限界として内陸部への拡大は困難であったと思われる。これは漢民族の居住領域とほぼ同一エリアであり、清朝においてはっきりした中国内地と藩部の領域・境界における中国内地エリアが、中華文明圏の限界だったと言えようか。

2)異民族支配者による「多元型」中華帝国の構造

異民族支配
異民族支配者によるいわゆる「多元型」の中華帝国構造においては、帝国の主権領域が「中華」と「支配民族エリア」という二つの地域からなるが、帝国の主権・宗主権を持つ「支配民族」が「中華」を包囲する形で「四夷」を形成する格好となる。この場合にも「中華」の漢人の「中華意識」は消えることがなく、「異民族支配者」側も「中華」文明をそのまま優越的存在として受け入れることは無い。基本的に「多元型」中華帝国においては「異民族支配者」は人口的には圧倒的に少数の集団であり、元における「モンゴル・色目・漢人・南人」、あるいは清における「満・蒙・旗・漢」と言うような民族的身分制度を採用し「異民族支配者」以外の他民族の力も借りて「中華」支配を実施した。「多元型」中華帝国においては、このような支配構造を継続する中で帝国における「中華」の重要性の再認識や政治的重心の中華への移行が不断に継続され、異民族支配者そのものの性格が徐々に「中華」化していくような傾向が底流に常に存在した。(3)

このような多元型中華帝国においては、その領域は中華文明圏を超えた広がりを観せることが多く、特に清においては乾隆帝時代に最大版図を形成するに至った。多元型中華帝国においては、中国内地と異民族領域の統治をどのように両立させるかが課題であり、この状況は帝国的構造を内包する現代の中華人民共和国にも引き継がれてきていると言えよう。

2.中華世界に成立した「中華王朝」の帝国性の検討

ここで中国に成立した「中華王朝」の帝国性について再検討してみたい。
中華皇帝

1)「中華王朝」の基本的性格

中華王朝については、「中華世界」の地域全体か、その一部を支配して都城を築き中央集権的に皇帝が支配する政治体制の下で、「儒家正統と漢字文化」を基調に統治する王朝であり、いわゆる「中原」を「中華文明」に基づき支配する「王朝国家」と言えよう。(4)

このような中華王朝国家は歴史上に数多く存在した。五胡十六国の各国も五代十国の各国も、このような条件に当てはまる国家であったと言えよう。しかし、本ブログのテーマである「中華帝国」としての有りよう備えるかどうかとなると条件が異なってくる。単なる「王朝国家」と「帝国」としての実体を兼ね備えた国家とは別次元の存在であった。すなわち「中華王朝」が全て「帝国」としての実体を備えていたかと
いうと、そうとは言い切れない。

2)「帝国としての中国」成立のための条件

伝国の璽

「中華」あるいは「中国」として自らを認識出来るためには、中央の「中華」と周辺の「非中華=四夷」が「王朝国家の内部」に存在することが必要であり、そのような「四夷」をも取り込む「大一統」を実現した国家のみが「帝国」としての実体を備えていたのであり、「中華文明=漢人エリア」だけでなく「四夷=非漢人エリア」も天子の威令で従わせることが「大一統=中華帝国」成立の要件であった。(5)

このように本ブログ全体の主題でもある「中華帝国」成立の基準は、王朝が「中華」だけでなく周辺「四夷」を支配下や勢力範囲に取り入れているかどうかということであり、周辺の「四夷」を支配下や勢力範囲に取り入れた「大一統の状態にあること」こそが「帝国としての中国」の本質である。これは現代の中華人民共和国にもそのまま引き継がれており、沿海部から中原地域を中心とする漢族地域のみならずチベット、モンゴル、新疆エリアを完璧に掌握してこその「大一統」であり、「大一統」の成立の可否は支配正統性にも直結する最重要課題となるだろう。
こうしてみると、外モンゴルを喪失した蒋介石率いる中華民国が中華世界の支配正当性を「喪失」し、中華世界から退場することになったことも説明出来るかもしれない。

3)中国支配の正統性根拠

南宋文化

基本的に歴代の中華王朝は、「大一統=中華帝国」を目指し、かつ人々からもそのように期待される存在であったが、一方で「偏安」(一地方に割拠して統治)に甘んじる王朝は、「大一統」に反する無能な王朝として非難されるだけでなく、政権や支配層の正統性が追及されることとなった。例えば三国時代の呉は中華王朝としての正統性が問われており、「偏安」の典型である「南宋」はモンゴルに滅ぼされ中華を失うことで皇帝の天子としての「正統性」が問題視されている。(6)

このようなわけで、史上の中華王朝は「正統」性を証明するために「大一統」を志向し、「中華帝国」の実体を追い求めてきたと言えよう。およそ「中華世界」において政権を確固として維持していくためには、「王朝」として成立しているだけではダメで、「中華帝国」としての実体を有している必要があったわけであり、それには「大一統」が必須要件だったということである。
このあたりの状況は、「中華世界は広すぎて統一はなかなか困難であるので適正な領域に分割して支配すべき」と言う一見効率的な統治体制かと思われた三国時代の「天下三分の計」が、その後二度と再び顧みられることがなかったことからも窺い知れよう。

4)中国支配の正統性必須要件としての「大一統」

康熙帝

「中華における支配の正統性」は、支配者の民族的出自で判定されるのではなく、「大一統」を実現することができれば、それは正統の「中華王朝」の要件を満たすと考えられた。このような正統性の問題を突き詰めて行くとそこには「中華」的な政治上の神話が浮かび上がってくる。すなわち「正統」の根源は「天」で、「天が一つ、天下が一つ、天子も一人」であり、天下のあらゆる民は、天が選んだ天の代弁者である天子に従うべきだ、と言う考え方である。(7)

3.中華帝国統治のための基本的イデオロギー

董仲舒

1)董仲舒による中華統治のイデオロギーの体系化

漢の儒者の董仲舒は、「儒家正統」の「儒教」化、神学化に貢献したが、その中で彼は「天人合一論」「天人感応論」を打ち出し、儒学の諸学から離れた「独尊」的な立場を確固たるものとした。また董仲舒は、「天子は天から受命し、天下は天子から受命する」「天地・陰陽・四時・日月・星辰・山川・人倫を通じ、徳が天と地に達す者は、皇帝と称す。天は其れを子息と見做して守り、天子とたたえる」との見解を披歴し、「天人三策」において、「一統は、天地の常、古今の道」と述べて、漢の武帝に「中華帝国」の理念として提言した。

このように「儒家正統」は、董仲舒により、「中華帝国」の存立に不可欠な理論的基盤を提供し、周代から継続してきた「天下思想」が、中華帝国の統治イデオロギーとして体系化された。(8)
こうして、董仲舒によって「大一統」「儒家正統」「天下思想」が一体化し、「中華帝国」の統治イデオロギーとして理論化、体系化され、清朝崩壊まで一貫して継続されてきたと言えよう。現代の中華人民共和国においても「儒家正統」の指導イデオロギーの地位はマルクス主義や毛沢東思想等に変化してきてはいるもののベースとなる「大一統」の方向性や「天下思想」の在り方が、大きな変化を受けていないのではなかろうか。

2)「天下思想」における「政治秩序」の論理

天下思想

「天」を最高権威とする「天下思想」において政治の秩序は、「天」「天下」「天子」「民」の四者の関係で構成されるもので、その関係 性は「支配者が天から天命をうけて天子になり、天子が「徳冶を実施して民が服従し、「華」と「夷」が服従して「大一統」としての天下が成立する」というものであり、循環的に「天下」が成立することで天の意志が実現される」とされた。このような四者の関係において、「天下」の最高権威は「天」であり、地上の支配者である皇帝は「天」から「天命」をうけてはじめて「天子」としてみとめられるのであり、「天」は民とは直接関係せず「天命」を与えた「天子」あるいはその治める「天下」を仲介とするとされた。すなわち地上の支配者たる皇帝も「天子」として「天」の意志に従って行動することが求められ、「天命」を見失えばその地位が失墜するような存在であった。そういう意味では、この四者の関係は、「天命」と「天子」の支配の正統性を巡って緊張感を孕んだ微妙なものであったともいえよう。(9)

3)「天下思想」と「民意」の反映としての農民大反乱の正当化

黄巾の乱

この論理については、単なる机上の空論とは言えないであろう。清朝以前のあらゆる王朝は大規模な農民反乱を鎮圧しきれずに崩壊しているのであり、これは日本のような「万世一系」というかなり特殊な国体を維持してきた状況から見れば変化に富み、民意を反映するシステムであったと言えるかもしれない。このような支配の正統性を巡る構造は、現代の民主主義とは異なり、選挙の時期や議員の任期が決められたものとは言えないが、民意の最低限の保証を担保し、暴虐で非人間的な政治を牽制するような役割を果たしていたのではないかと推測される。人民は本当に耐えがたくなれば、少なくとも300年以内にあらゆる王朝を倒すだけの力は確保していたと言えるのであろう。

4)「天下」の範囲と「大一統」の実現

天子

このような「天下思想」の在り方を俯瞰すると、「天命」をうけた「天子」の徳冶の対象は、中華の民に限られるのではなく「四夷」の民も当然ながら徳冶の対象として予定されているのであり、「中華帝国」の有りようとしては、「大一統」により「四夷」も取り込むべく領域拡大に精励することが「天子」の本分として期待されていたとも解釈できよう。またそのような「大一統」を実現し維持しているという、そのこと自体が、「徳冶」の証左であり、「天子」たる皇帝が「天命」をうけて天に支持された正統な存在であることを天下に明らかにする絶好の機会でもあった。
このようなわけで、歴代の中華王朝は、その「大一統」の「中華帝国」的性格が色濃く強力な支配体制を確立しているほど安定していると言えるのであり、本論文でも取り扱う「清の極盛期」はそういう意味でも典型的な時代と認識している。

5)「天下思想」と「天命」による支配正統性の調達原理

永楽帝

このような「天」「天子」「天下」「民」と言う四者関係において、「民の側が天命をうけた正統な天子に支配されることに納得し、民の側から聖天子と称え得るような状態」が現出していれば支配の正統性は何重にも担保されることになるであろう。「天下思想」は歴代中華王朝にそのような機会を提供し、「大一統」の天下を上手く「演出」あるいは「実現」できた王朝にはその実力の何倍もの恩恵をもたらすとともに、天命を失った王朝の存在を否定し歴史から退場させる論理を供給し続けて来たとも言えよう。

尚、中華王朝の交替をめぐる宿命論的な循環については次項の課題とする。

現代に通じる魏晋南北朝期の中国の混乱要因と北魏による中華大一統再現策の効果の分析!

トランプ大統領の不法移民流入制限の根拠は魏晋南北朝時代の中国の混乱が証明する!

継続課題
「天・天下」と「帝国」の関係性の論究。「統治の正統性」の根拠の検討。

参考文献
(1)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p200
(2)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p201
(3)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p202
(4)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p203
(5)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p203-p204
(6)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p205
(7)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p206
(8)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p207
(9)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p207-p208

トランプの移民難民関連の政策方針が目指す理想は大義覚迷録で雍正帝が表明した異民族統治政策にある!

トランプ大統領の移民政策は、アメリカの国論を分断し混乱を助長しつつも、アメリカファーストの理念に照らせばテロや犯罪の増大・治安悪化の脅威の前では市民の安全安心のために必要不可欠と想定されますが、そのモデルは大義覚迷録で雍正帝が表明した中華帝国としての国家像や実態としての清朝の異民族支配状況及び現代に至る拡大された中華領域大一統の貫徹にも直結する共通性が感じられます。

1.清朝極盛期の皇帝による平和の理想の実現
1)清朝皇帝による華夷一家と中外一体の実現
2)辛亥革命以降の中華エリア統治原理と大義覚迷録の連関性
3)「大義覚迷録」の思想の本質と清朝皇帝による平和の実相
2.華夷一家を実現した清朝最大版図統治の複雑性と今日性
1)「華夷一家」の実現から「華夷融合」に至る道筋の険しさ
2)「中華帝国大一統の原理」の適用領域を超える清朝最大版図を支配するための原理

1.清朝極盛期の皇帝による平和の理想の実現

1)清朝皇帝による華夷一家と中外一体の実現

順治帝

清朝極盛期に実現した拡大した中華天下の状況は「中外一体」とも表現された。それでは、「中外一体」とは、どのような意味であろうか。雍正帝の政治思想である「華 夷一家」との関係はどのようになるのだろうか。
「中外一体」という表現は、もともと「中国」であったか「外国」であったかを問わず、いまや皇帝の実力と公正な支配に服して平和を享受する人々はすべて臣民で平等であり、一君万民であることを強調するために唱えられたと考えられる。(1)
雍正帝は、漢民族のエリートに向けて自らの思想を説明する場合も、満州人自身は夷狄であることを否定せず、満州人は漢人から観て「外人」「外国人」であることも認めていた。とはいえ、文化的な出自と人間性や実力との間にはあまり関連性はなく、「華」が儒学や漢字を産み出したからと言って、「華」が「外国」に優越しているという発想自体には特に何の実証的な根拠もないことは、「外国人」たる満州人が「華」を支配し、中国の領土を拡大し、極盛期を現出していることで明らかであった。一人の皇帝のもとで平和を享受する人々を出自の違いで差別する理由も必要も無いというのが、雍正帝の考え方であった。(2)
歴史的にも元は確かに清と同様に「夷狄」が「中華」を支配したが、雍正帝の言うように親が赤子を育てるように丁寧な政治を漢人に対して行ったかというと、大きな相違があったと言えるだろう。元は、西域の色目人を重用し、同じ中国内地でも華北の金の領土の出身者は漢人、最後に服従した華中以南の南宋エリア出身者を南人あるいは蛮子として、法制上は最下級の人民として扱った、ということもある。(3)

2)辛亥革命以降の中華エリア統治原理と大義覚迷録の連関性

明領域

翻って考えてみれば、現在の中華人民共和国の領土が、外モンゴル以外は実質的に清朝の極盛期の版図を引き継いでいるわけであり、この「華夷一家」たる「大義覚迷録」の思想の延長線上に近現代の中国が存在しているとも言えるであろう。(4)
もし近現代の中国がいわゆる「華」にあくまでも拘ったとすれば、その領域的な広がりの限界は、「儒学と漢字をベースとする漢人エリア」にとどまり、せいぜいが満州を除く明朝版図=中国内地を統治するのみであったのではなかろうか。
そういう意味では、雍正帝は清末から辛亥革命以降の「中華民族」概念や「国民国家」中国の概念を先取りしていたのかもしれない。
清朝極盛期の漢人士大夫層が、そのような概念に思い至るのが困難であったのは想像に難くないが、その後も梁啓超の議論が出てくるまでは、有効な「中華の大一統の具体的な理念」が漢人士大夫側から提出されることは無かったと言えよう。(5)

3)「大義覚迷録」の思想の本質と清朝皇帝による平和の実相

清朝皇帝

ここで漢人士大夫層の「華夷思想」に対抗する「大義覚迷録」の政治思想を支える実質的な「清朝皇帝による平和」と「清朝の成功」とは何かを具体的に明らかにしておきたい。

①清朝の支配者である満州人の側に武勇と実力が備わっており、かつ華美や贅沢から離れて質素倹約に努め、政治と軍事の主導権を維持するに相応しい、徳のある存在であり続けること
②反満思想や民族差別が存在しない「真の平等の楽園」が本当に実現していると思われるような状況が現実に存在していること
③清の皇帝のもとで「儒学、漢字を中心とする華」だけでなく、チベット仏教やイスラムなどの宗教的・文化的存在が保護されるとともに、それぞれの存在が独自の有りようを維持し続けることが可能であること(6)

少なくとも、これらの「大義覚迷録」の精神を支える条件は、雍正帝から乾隆帝にかけての清朝極盛期にはかなりの程度満たされており、清朝皇帝が「中外一体」の史上空前の版図を「華夷一家」の精神で安定して支配する基盤を提供し続けたと言えよう。

2.華夷一家を実現した清朝最大版図統治の複雑性と今日性

1)「華夷一家」の実現から「華夷融合」に至る道筋の険しさ

万里の長城

それでは、「華夷一家」として同じ清朝という新たな枠組みを作りだした「中外一体の体現者としての大清帝国」において、「華夷一家」の先に「華夷融合」のようなことは図られたのであろうか?
漢人による民族差別の源流には、「華」の儒学・漢字の文化が「夷」に圧倒的に勝っているという信念があった。このような民族差別を止揚するためには「華」と「夷」は一家として、同じ「清朝」に暮らすといえども、「夷」としての満州人やモンゴル人は、それぞれの固有の 宗教・文化を維持し続けることが必須との認識が雍正帝や乾隆帝には強かった。(7)
このような清朝皇帝の基本方針に基づいてどのような政策が採用されたかと言えば、「清朝による平和」のおかげで軍事的意味を失った万里長城を「華」と「夷」を分け隔てる文化的な境界線として再利用するということであった。
別記するようにモンゴル騎馬軍団の軍事力を帝国安定の基盤と考えていた清朝皇帝達は、モンゴル人が「華」に染まって文弱化し、モンゴルの文化や宗教の保護者として大ハンに推戴されて成立した大清国の基盤が揺らぐことを看過出来るわけもなかった。
こうして万里長城に軍事的に頼り切っていた明とは違った意味で、「中外一体」「華夷一家」を実現した清朝皇帝も万里長城に頼って「中」と「外」、「華」と「夷」の関係の固定化をはかる必要に迫られてしまったのである。(8)

2)「中華帝国大一統の原理」の適用領域を超える清朝最大版図を支配するための原理

歴代長城

このように考えてくると金観濤の定式化した「大一統の原理」は、あくまでも明及びそれ以前の「儒学・漢字・漢人を基盤にした儒教文化圏たる中華世界」エリア=中国内地を対象としており、清朝が新たに中華帝国の版図に付け加えた「夷」の世界たる「藩部」は別の論理で統治されざるを得ないということにもなろうか。そしてこれは今日の中華人民共和国では、「省」と「自治区」の違いとして現れ、特にチベットや新疆においては民族問題を内包していると言えよう。
すなわち「中華帝国」は、「清の極盛期」において「儒教と漢字をベースにする漢人エリア=中国内地」と言う枠組みを超えて、一方に漢人の中華文明エリア=中国内地を中核として保ちつつ、「清の皇帝の庇護の下で、その支配さえ受け入れれば、特定の文化的価値を押し付けることはなく、既存の文化や社会の安定は全力で保証する」、という方向性を見出して、中国領土の拡大とその安定的な統治を長期的な視野と規模で実現したと言えるだろう。
ただし、これは「大清帝国極盛期の歴史的枠組みの中での安定と平和」を実現したものであるが、この論理が現在の「帝国としての中国」の論理に直結しているか否か、また近代における危機の中で「帝国としての中国」が分裂と崩壊を免れた真因となったのかどうかについては、別項にて十分な検討が必要である。

尚、大義覚迷録で雍正帝が示した寛容で世界帝国に相応しい異民族統治方針については、以下のリンクでも詳しく取り上げています。
大義覚迷録で雍正帝が強調した中外一体,華夷一家はトランプ大統領の非寛容な移民政策と正反対である!

参考文献
(1)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p118
(2)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立p224
(3)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第二章 民族統合・建国から大清国の成立 p104
(4)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第二章 民族統合・建国から大清国の成立 p224
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p172
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p172
(7)宮崎市定:世界の歴史6 宋と元 中央公論社 1975 元王朝の興亡 p400
(8)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p174