国民国家

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

スレイマン大帝

ロシアンゲート疑惑の渦中にいるトランプ大統領は、初の外遊先に中東を選びましたが、具体的な中東和平の道筋を示さなかったため関係者間に失望の色も出ているようです。ここでは今後の中東和平のカギとなるオスマン帝国によるイスラム世界秩序安定と崩壊のあり様を検討します。

今回は、主として西洋の衝撃および帝国内の臣民の民族意識の高揚等を主たる要因として取り上げつつ、イスラム世界秩序とオスマン帝国の解体過程を確認していきます。

1.西洋の衝撃はどのような形をとったのか?
1)軍事的政治的脅威以外の要素の影響
2)イスラム世界における民族意識の状況
3)西洋思想の影響による愛国心と民族主義の発揚
2.イスラム世界秩序を体現するオスマン帝国への西洋思想の浸透
1)徐々に浸透する西洋思想
2)バルカン半島の非ムスリム諸国民に浸透する西洋思想
3)ギリシアの独立とその影響の連鎖
3.西洋の衝撃に対応するオスマン帝国側の西洋化改革
1)タンズィマート=オスマン帝国内で本格化する体系的改革
2)明治維新に類似するタンズィマートの方向性
3)タンズィマートの目指したゴール

1.西洋の衝撃はどのような形をとったのか?

1)軍事的政治的脅威以外の西洋の衝撃の影響

オスマン帝国分裂

西洋の衝撃は、外側からの軍事的政治的脅威という要素のみでなく、オスマン帝国の臣民の意識にも影響を与えることとなった。
もともとオスマン帝国においては、各構成員の民族意識は希薄であり、イスラム的な世界帝国の一員として、ムスリム、非ムスリムの両者にとって宗教にアイデンティティの核が存在し、民族や人種は後景に退けられていた。こうした中で、18世紀以降の西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国では、イスラム的世界帝国の概念に揺らぎが生じ、構成員とその所属する集団の枠組みにも徐々に変化の兆しが現れ始めた。(1)

2)イスラム世界における民族意識の状況

カーバ神殿

伝統的なイスラム世界では、キリスト教国と同様に国民と国家はしばしば民族と地域の同義語だった。中東のイスラムの三大民族であるアラブ人とペルシャ人、トルコ人は自分たちの言語や文学、歴史や文化、共通と推測される起源、独特の風俗やしきたりを誇りをもって意識していた。自分たちの出生地への素朴な愛着もあった。郷土愛、地元自慢、郷愁は西欧文学と同じようにイスラム文学でもおなじみのテーマであるが、そこには一切の政治的メッセージは含まれていない。
西欧思想が入ってくる前は、民族や民族の郷土が政治的主体や支配力を持った存在であるという思想が認められも、知られてもいなかった。ムスリムの存在基盤はあくまでも信仰であり、その忠誠心は信仰の名において支配する支配者や王朝に帰属していた。(2)
あくまでもムスリムのアイデンティティにとって信仰が第一義であり、郷土愛や地元への愛着・郷愁はあってもそれは感傷的なもので、政治的な信念や忠誠心にまでつながるようなものでは無かった。これが西欧思想の影響で大きく変化することになったのである。

3)西洋思想の影響による愛国心と民族主義の発揚

イスラム愛国心

愛国心と民族主義は、イスラム世界にとって異質な存在であった。
愛国心とは、単なる出生地への素朴な愛情ではなく政治的なもので、必要とあれば自国への兵役義務を負い、要求があれば政府に金も出すという西欧文明に深く根ざした感情である。英仏米では愛国心は「国内の多様な人種を同じ国民的忠誠心のもとに統一すること」「真の唯一の主権の源は教会でも国家でも無く、国民にあると言う強い確信をもつこと」という二つの思想に結び付いている。また民族主義とは、国家や身分ではなく、「言語」「文化」「共有の出自」などで定義された「民族国家」という概念に繋がる思想であり、日常の現実に当てはまり易く、中東の現実にもぴったり当てはまった。特に民族主義は、中東に紹介されると自由を主張する反体制運動に結び付いた。自由とは外国の支配や分割統治に終止符打つことであり、民族の独立と団結を達成することを意味した。(3)

2.イスラム世界秩序を体現するオスマン帝国への西洋思想の浸透

1)徐々に浸透する西洋思想

ギリシア独立
こうした思想の浸透は、幕末の黒船に似た衝撃がイスラム的世界帝国にも遂に押し寄せてきたということでもあったろうが、この場合の衝撃は極東のビッグバン的なインパクトとしての衝撃よりも、ジワジワとボディブローのように浸透してきたというべきだろう。既述の通りオスマン帝国は西欧諸国と近接しており、通商関係や外交関係の往来は確立していた。こうした中でオスマン帝国への西欧思想の影響はまず バルカンのキリスト教徒臣民の間に浸透していくこととなった。

2)バルカン半島の非ムスリム諸国民に浸透する西洋思想

メフメット二世

西洋の衝撃の主体である西欧諸国は、当時グローバルシステムとなりつつあった近代西欧国際体系のもとで、基本単位としてネーションステートを構成していたが、このネーションステートの構成のアイデンティティの核はいわゆるナショナリズムにより支えられていた。一国民一
民族一国家というような方向性を標榜する近代西欧におけるナショナリズムの影響は、特にバルカン半島の非ムスリム臣民の中にいち早く浸透し、イスラム的世界帝国としてのオスマン帝国の解体を促し、近代西欧の国家のありようをモデルにしたネーションステートを形成していこうという民族独立運動が盛んになっていった。(4)
バルカン半島のキリスト教徒臣民は、「啓典の民」としてムスリム共同体との契約により、人頭税(ジズヤ)や土地税(ハラージ)の支払い
及び一定の行動制限に服することを条件として、保護(ズィンマ)が与えられた被保護民(ズィンミー)として固有の宗教と法と生活習慣を保ちつつ、イスラム法の許容する範囲内で自治生活を営むことが認められていた。(5)
このような「啓典の民」が、自分たちのアイデンティティに目覚める過程でオスマン帝国はその存立基盤を徐々に犯されていくことになっ
た。

3)ギリシアの独立とその影響の連鎖

バルカン独立
特にギリシア人は、オスマン帝国支配下にあっても伝統的に通商や留学を通じて西欧とのつながりが深かったため、他より早く18世紀後半にナショナリズムが高揚し、19世紀にはほぼバルカン全域がナショナリズムに呑み込まれた。
これらの動きはバルカンの諸民族が、主権平等のネーションステートを成立させ、グローバルシステムとしての近代西欧国際体系に積極的に参加していこうとする民族独立運動につながり、1830年のギリシア独立以降は19世紀から20世紀初頭にかけて続々と独立に成功していくことになった。(6)

3.西洋の衝撃に対応するオスマン帝国側の西洋化改革

タンジマート

1)タンズィマート=オスマン帝国内で本格化する体系的改革

西洋の衝撃が、外からの軍事的政治的脅威に加えて、内からのキリスト教徒臣民のナショナリズム覚醒と民族独立運動の発展という脅威として作用してきた中で、18世紀終わり以降にオスマン帝国側においても従来の伝統主義的な小手先の改革を放棄した、本格的な西洋化を目指す体系的な改革が行われ始めた。(7)
オスマン帝国支配層も復古主義的な改革だけでは、これまでに無い多様な危機に対処してオスマン帝国の質的改善に取り組むのに不十分であるという認識にようやく至ったということであろう。
タンズィマートと呼ばれる一連の体系的西洋化に基づく改革は、開明的な実務官僚によって担われたが、彼らは自らもフランス語を中心とする西欧諸国語に通じ、西欧諸国に駐在経験を持つ直接の西欧経験を持つ人々であった。(8)

2)明治維新に類似するタンズィマートの方向性

明治維新

日本の明治維新期においては、伊藤博文をはじめとする元勲クラスの多くの藩閥官僚が西欧への留学経験を持っていた。しかるに、清朝の儒家正統系の科挙官僚や満洲旗人にそのような海外体験を持った存在を目にすることは困難であった。そういう意味では、オスマン帝国のタンズィマートは、その結末はともかくとしてより本質的で西欧の実態を把握した上での根本的な改革を志向する明治維新にも類似する画期的なものであったと受け止められよう。一方で清朝における改革が西洋の発展の本質を十分に理解しないまま行われた、小手先のものにとどまった理由もこのあたりにあるかも知れない。ただし、これは長期的に観れば正解だったとも言えるのではないか。結果的に、「オスマン帝国は、イスラム的な本質を見失って解体崩壊消滅の道を辿った」(9)のに対して、中華帝国は頑迷固陋なまでに西洋との距離を保ち続けながらも結局「従来の中華文明エリアをはるかに超える清朝最大版図を継承して中華帝国としての一体性を維持」することに成功している。また西洋と距離を置くと言う意味では、「天安門事件において明確になった今日の議会制民主主義への中国共産党の独自の認識」(10)にまで行きつくのではないだろうか。

3)タンズィマートの目指したゴール

ケマルパシャ
オスマン帝国のタンズィマート推進者達にとっては、支配組織の合理化を通じて直接の軍事的政治的外圧に対処しつつ、帝国領内の非キリスト教徒臣民のナショナリズムと民族独立運動による帝国解体の危機にいかに対応するかが喫緊の急務であった。この時の対応策として、西洋化の推進者達はオスマン帝国の構成員のアイデンティティを宗教におくイスラム的世界帝国から世俗的多民族国家に転換することを目指した。(11)

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国が確立していたイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

参考文献
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p59
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第17章新しい思想 p458
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第17章新しい思想 p458-p460
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p59-p60
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p18
(6)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p60
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p60-p61
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p61
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p65
(10)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p198
(11)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p61

西洋の衝撃としての西欧の帝国主義列強によるアジア,アフリカ植民地支配の理念と法律体系の検証!

ヴィクトリア女王

西欧と非西欧を峻別する矛盾に満ち満ちた国民帝国の理念や法体系を検討する。

1.「国民帝国」の理念と内部構造
 1)「国民帝国」の理念
 2)「国民帝国」における「本国」とその他の地域との区別
 3)「国民帝国」形成の基盤
2.「国民帝国」間の共存と秩序維持システムの形成
3.「国民帝国」における法律体系とその矛盾
 1)「国民帝国」における法律体系
 2)「国民帝国」における「法による支配」の矛盾
 3)「国民帝国」崩壊の原理

1.「国民帝国」の理念と内部構造

1)「国民帝国」の理念

それでは、ここで「国民国家」とはどのような理念に基づき構成されているかを観ていきたい。
フランス革命

「国民国家」は、アベ・シェイエスの「国民とは何か。共通の法の下に生活し、同じ立法機関によって代表される共同生活体である」という理念を受けて成立した。こうして観ると「国民国家」とは民族的同一性は基盤に置きつつも実体としては、法の前で平等な資格を持つ国民によって構成されるという前提に立っていたことがわかる。

このことは、民族的帰属以前に国家が国民と認定すれば排他的管轄権で平等に保護するということであり、元々の民族が異なっていても法的手続きさえ認められれば、階級・身分・言語・出自などの相違に関わらず、国家の国民として認定されることを意味する。こうして観るとナショナリズムの存在はひとまず置いて、法的措置としては国民国家は異民族を包摂する「国民帝国」へ発展する契機は内包していたわけである。このことは実際に西欧本国の国民国家そのものが、元来一民族一国家とは言えず、ある意味では「異民族を包摂する国民帝国」としての要素を内在させていたことからも窺われるところである。そもそも「国民国家の典型」とも言えるイギリス、フランスにしてからが、それぞれ複合民族国家であったことは現存する両国内の地域名にも現れている。(1)

アメリカが「自由と民主主義」を標榜する「国民国家」を超える世界帝国的存在だという議論もあるが、何のことは無い日本も含めて各国の法律には、このように国民の定義上は「自由と民主主義」をベースに元の民族的出自に関わらず帰化して国民となること認める旨明記されているわけである。少なくとも西側民主主義国家の前提は、「自由と民主主義」及び「法の下の平等」ということなわけであるのだから、このことは当然の帰結とも言いうるだろう。

2)「国民帝国」における「本国」とその他の地域との区別

民主主義
しかし、「国民帝国」は本国以外の地域を「国民」に組み込むことには積極的ではなかった。にもかかわらず「国民帝国」はその実態としては、「本国」 においては等質性と平等性を追求し、「帝国」としては異質な法域を統合しつつ階層的に編成して外縁をボーダーまで拡張していく存在となっていった。(2)
このように「国民帝国」とはやはりダブルスタンダードあるいは異質な法域の分だけ複数のスタンダードが存在するような一貫性を欠いた 存在であった。
こうしたわけで、近代の「国民帝国」は統治者のまとまった企図に基づいて帝国建設が推進されたというよりは、明確な目的意思を欠いた状態で形成されていった。すなわち移民や軍人・企業家・商社などが開拓や条約締結、軍事占領などで獲得した領有地や軍事的根拠地を勢力 範囲として政府が公認し、その維持のために軍隊を派兵したり財政的に援助することで形成された。(3)

3)「国民帝国」形成の基盤

インド植民地
その後、西欧諸国の資本主義経済発展により国内経済の枠を超えて、本国の資本家には安価な原材料を供給し、労働者には香料や飲料などの嗜好品を中心とした低価格農産物の供給地として、他方で過剰資本や余剰生産物の市場や過剰労働の捌け口として海外領有地が重視され始めた。また経済的危機が発生した場合に本国内の階級的対立回避のための帝国的膨張が必要だという主張がなされ、他方で労働者階級に対しては、社会政策を実施するための物質的条件を産み出すのが植民地であるとの言説による支持調達も行われた。
このように政府と世論による植民地統治が本国の制度にビルト・インされたことにより、国内危機回避と国民帝国形成、社会政策と国民帝国形成とが直結し、階級を超えたナショナル・インタレストの存在が信じられ、「国民帝国の支持基盤」となっていった。(4)

だが不思議なことにこのようにして形成されてきた「国民帝国」としての拡張は、必ずしも経済的利益を本国にもたらさなかった。(5)
にもかかわらず国民帝国の形成が世論の支持の下に進められていったのはなぜなのか。
それは、強い国力と威信を持った国民のみ未来があり、他国に比してより広大な領域を支配している偉大な帝国に帰属しているという自意識としての帝国ナショナリズムが底流にあった。現実的な植民地のもたらす経済的利益以上に国家としての威信や国民としての自負心が国民帝国形成の重要な基盤となった。さらに国内政治における労働者階級などの政治参加の機会の増大に対する警戒・恐怖感と国際政治におけるパワー・ポリティックスの論理が一つになることで、国民帝国はその拡張に関する正統性と支持を獲得することになり、国民国家の外交方針として威信政策が重要となった。国民帝国は国民世論がナショナリズムと結合することでその形成を国民的使命感に転化しえたことになるだろう。(6)

2.「国民帝国」間の共存と秩序維持システムの形成

アヘン戦争

それでは、国際法をベースに勢力均衡と国民国家間の並立を維持することが図られてきた中で、非西欧諸国を支配・収奪するシステムはどのように形成されてきたのであろうか。

軍事と経済におけるパワーの絶対量が増し、非西欧世界に対して圧倒的な優位を持つことが明らかになると西欧世界内部における勢力均衡によって抑圧されてきたパワーの行使が外部世界に向けられることとなった。非西欧世界においては、西欧国民国家の自由なパワーの行使が許されたが、その衝突が反転して西欧世界内部での戦争になることは可能な限り回避された。また並列的な主権・国民国家とその勢力均衡という西欧世界内部での秩序原理は、そのまま非西欧世界には適用されず異なる民族や政治社会に対しては主権を認めず、階層性をもって包摂し更なる国力の増強が目指された。当然ながら非西欧世界においても全くの無秩序な世界が放置されたわけではなく、共存のための「争いつつ手を結ぶ」システムが徐々に形成された。(7)
植民地分布

このような非西欧世界を包摂する共存体制は、その後植民地からの独立運動が次第に本国の相違によって切断されていた状況から民族を超えた連帯へと推移していたことに伴い、それを国民帝国間の連携によって分断し、弾圧する必要に迫られたことにも起因している。植民地・従属国における勢力範囲の拡張では激しく敵対しあっていた諸国民帝国も世界市場での権益の擁護という点では同調し、反植民地闘争に対しては共同して抑圧にあたらざるを得なかった。こうして国民帝国の「争いつつ手を結ぶ」共存体制としての世界体系が存在したという歴史的意味は単に権力均衡政策を採る国民帝国諸国が競争しつつ共存したという以上に、植民地独立運動に対して共同してこれを抑圧し、植民地としてこれを固定化することにもあった。国民帝国は脱植民地運動と「争うために手を結ぶ」という必要性からも共存体制とならざるを得なかったのである。(8)

3.「国民帝国」における法律体系とその矛盾

1)「国民帝国」における法律体系

黒船

それでは、次に「国民帝国」における法律体系について確認しておきたい。
これは幕末の日本も体験したことであるが、近代においては欧米のキリスト教政治社会を基準とする文明国とみなされない限り、領事裁判権や関税自主権に関する不平等な通商条約を強制されるか、政治的併合を伴わない従属的地位に置かれることが通例であった。
このことは、植民地だけではなく非西欧の全世界に適用されており、文明⇒未開⇒野蛮という階層秩序がそれぞれの政治社会にあてはめられ区別された。このような不平等条約や保護条約の改正を実現するためには、西欧の法体系に準じた泰西主義に基づく法典編纂が要求されたため、たとえ独立国の体裁をとっていても、西欧の法体系に準拠した法典の立法が必要になった。(9)
日本において明治新政府が憲法制定を急いだのも、このあたりの事情が大きく影響していると言えよう。

2)「国民帝国」における「法による支配」の矛盾

植民地支配
こうしてみると近代というのが相当に歪んだ時代であったことが観えてくるであろう。現代の基準からすれば西欧諸国の傲慢な自己中心主義的な態度は強く指弾されるところである。しかもこのような状況がアジア・アフリカ諸国が大挙して独立を達成する1960年代初頭まで残存していたことは驚くべきことである。
法域と言う概念を基準に「国民帝国」を観ていくと、権力核である本国を中心に複数の政治社会によって構成される法的多元性をもった統合体系ということになる。本国と植民地・保護国は異なる法域を形成しつつも一体的な統治地域として統合されていた。
このような異法域統合としての「国民帝国」の在り方は、国内における法の下の平等と主権者としての自立を前提とし、国際的にはその国力の強弱や国土の広狭の差異などに関わらず主権国家間の平等を原則とする主権・国民国家体系としての世界構成の在り方と、相対立するものである。国民国家の原理は、統合体の成員の法的平等を保障することにあるが、本国外の「国民帝国」の成員にはこれが妥当しない。(10)
インド総督府

本国の統治様式は立憲制に基づく「法による支配」であったが、植民地や従属地の統治は本国の法律に制約されない政令や条例に基づく「行政命令による支配」であったために異法域支配ならざるを得ないところもあった。尚、この行政命令による植民地官僚の支配は、行政需要の多様性に即応した支配の効率性が追求されたので失政に対する責任を負わない体系となっていた。(11)

こうした異法域の結合であった国民帝国にとっての「不可分にして一体」なことを示す結合の基軸ないし帝国としての一体性を推進するための成員と機構における統合原理としては格差原理としては、例えばフランスに関しては「フランス語やフランス文化の修得」が「進化した者」として市民権を与えられ根拠となっていた。ただし、イスラムの場合はイスラム棄教が条件であった。
イギリスでは「文明あるインド人」に関しては、カナダやオーストラリアの白人臣民と同じ扱いを受けるとされたが、文明をもたないとされたアフリカ人は対象外であった。(12)

3)「国民帝国」崩壊の原理

ジャンヌダルク
このような「国民帝国」は、本国が国民国家であるというその成立の前提からして、帝国内の人々が国家の主権者として自立したいという要求を提示した時、それを拒絶する論理を原理的に持ちようが無かった。このような脱植民地化は、国民帝国の帝国性への拒絶であり、国民国家性の受容による自立でもあり、そのことにより国民帝国体系は破壊されることとなった。近代の国際体系はあくまでも主権・国民国家体系として存在し、その基盤の上に派生的に形成されたのが国民帝国に他ならなかったのである。(13)

尚、国民帝国と世界帝国との相違や国民帝国の存立基盤に内包する矛盾については、以下のリンクにて詳しく取り扱っています。
西欧によるアジア,アフリカへの侵略と植民地化の進行を帝国主義の論理から解明!

参考文献
(1)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p95-p96
(2)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p96
(3)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p99
(4)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p102-103
(5)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p104
(6)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p105-106
(7)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p108
(8)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p114
(9)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p116
(10)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p116-117
(11)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p120
(12)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p121
(13)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p125

孫文,蒋介石らの国民党政府による中華大一統と帝国的秩序再建の失敗要因の検討!

蒋介石

辛亥革命後のウェスタン・システムの脅威の中での中華民国,国民党政権による帝国的秩序再建の試みの挫折とその要因について解明する。

1.辛亥革命後の中華民国の課題
 1)ウェスタン・システムの拡大とアジア諸国の再編
 2)西欧世界と対抗・共存可能な国家の再建
2.辛亥革命後の国民国家建設の主体
 1)国家建設主体の正統性調達原理
 2)国民党による訓政独裁政権による国民国家建設の前提条件の整備
3.軍事面の統一の推進状況
 1)軍権の全面的掌握の失敗
 2)軍権の全面的掌握失敗の影響
4.財政面の統一の推進状況
 1)国民党政権維持の基盤となった財政面の統一
 2)幣制改革の実施と国家経済の寡占化
 3)経済の一部資本家による私物化の弊害
5.思想面の統一の推進状況
 1)孫中山の三民主義の思想イデオロギー化推進
 2)思想統一による国民統合の挫折
6.中華民国時代の中国と昭和初期の日本の対比
 1)「国家・国民意識総動員」を必要とした日本の危機の時代
 2)日本の危機の時代状況と中華民国の状況の類似性

1.辛亥革命後の中華民国の課題

辛亥革命1

1)ウェスタン・システムの拡大とアジア諸国の再編

辛亥革命以前の中華世界においては、歴代の王朝によって彩られる強固な中華帝国の皇帝専制体制が続いてきた。しかるにアヘン戦争以来の西欧列強の中国侵略が活発化するにつれて、半植民地化され、結果的に統一的な帝国は瓦解の危機に瀕することとなった。中国の近代とは、このような瓦解しつつある伝統的な帝国を近代的に再編するための苦悩の歴史となったと言えよう。
これは、「西欧国家体制(ウェスタン・システム)の世界的拡大の過程においてアジア諸国が解体・再編成される近代化の苦悩」(1)でもあった。
また中東のイスラム世界は、このような近代的再編の過程で、跡形もなくなく解体された。(2)

2)西欧世界と対抗・共存可能な国家の再建

中華民国旗
このような帝国瓦解の危機の中で、西欧世界と対抗・共存するために、必然的にウェスタン・システムの中核をなす独立した国民国家の建設を目指した(3)のが、中華民国=国民党政府の役割であったと言えよう。
国民国家の西欧的基準としては、市民的自由を有した国民を中心として、統一国家・統一市場の建設とそのための国民統合を目指すということになるが、中華世界においてはこの中核的存在たる「市民的自由を有した国民」は不在であったため、上からの国民国家建設が志向された。(4)

2.辛亥革命後の国民国家建設の主体

蒋介石閲兵

1)国家建設主体の正統性調達原理

それでは、このような上からの国民国家建設を行うにあたっての正統性は、どこから調達されるのであろうか。
「市民的自由を有した国民」は不在であるとすれば、そこに頼ることも出来ない。そこで出てきたのが、いわゆる「訓政独裁論」であった。
これは、「未熟な国民に代わって国民党が政治的軍事的に独裁政権を樹立し、上から強力に国民国家の建設と経済発展、政治制度の近代化を促進する」(5)と言うものである。
またこの「訓政独裁論」は、孫中山が好んで用いた「以党治国」論を中核にしていた。これは人民に代わって党が国家を統治するという「代行システム」を意味し、その前提条件としては「中国の国民には自己を統治する政治能力が存在しないと言う断定」があった。孫中山は、このように有能なエリート集団である国民党が全権を掌握し、無能な大衆を訓導することで、はじめて近代的統一国家の建設が可能であると考えていた。(6)

2)国民党による訓政独裁政権による国民国家建設の前提条件の整備

蒋介石2
中国国民が無能であるとは思えないが、国家安全保障上の緊急の非常事態においては、軍隊的な指揮命令系統の一貫した一枚岩の組織で、紡錘陣形で一点突破せざるを得ないようなこともあるだろう。ただし、民意のチェックの無い長期独裁権力は、確実に腐敗堕落するので、訓政独裁に関してもその停止条件と次の体制への平和的移管方式を明確にしておくことは大前提となろう。
こうした国民党による「訓政独裁政権」のもとで、強力な近代的国民国家建設を目指して、その前提となる「軍事面の統一」「財政面の統一」「思想的な統一」が推進されることとなった。(7)それでは、国民党によるこれらの3つの国民国家建設の前提条件整備の行方はどうなったのであろうか。

3.軍事面の統一の推進状況

張学良

1)軍権の全面的掌握の失敗

まず軍事統一についてであるが、国民党政権時代は抗日戦争・国民党内部の軍事抗争・共産党との内戦等、常に戦争と内戦に明け暮れていた。このため国民党政権としては、軍閥割拠の状況を排除し、国民党のもとに全軍を掌握する体制確立が急務となった。
北伐戦争における国民革命軍すらも、元は旧軍閥の私兵集団を糾合したものであったので、蒋介石はこれらの軍隊を国民革命軍総司令のもとに再編・統一すべく1929年1月に編遣会議を招集し、全ての軍隊を中央の全国編遣委員会に従属させようとした。しかし、地方軍閥が既得権益保持のために反発し、反蒋戦争となった。この反蒋戦争は張学良らの協力で抑えきったものの、国民党政権=蒋介石が軍権を全面的に掌握することには失敗した。(8)

2)軍権の全面的掌握失敗の影響

袁世凱
抗日戦争や共産党との内戦以前の問題として、国民党内部の軍権の掌握にこれだけ手間取ると、このような戦争の時代に政治的な主導権を握ることが困難になってしまうだろう。袁世凱が権力を伸張させた理由が、清朝政権下及び辛亥革命後におけるその軍事的なパワーの結集に成功したことにあったのと裏腹に、国民党政権では軍権が分散していたことが、国家権力が集中的に発揮出来なかった主要な一因とも言えるだろう。

4.財政面の統一の推進状況

浙江財閥

1)国民党政権維持の基盤となった財政面の統一

次に財政面の統一についてであるが、国民党政権はこの方面では一定の成果を収めたと言えよう。そして、このことが国民党政権が、中華世界の最も困難な時代に20年にわたって政権を維持出来た根拠の一つと言えようか。
財政的な強化の第一の要素としては、中国ナショナリズムが求め続けていた関税自主権の回復の実現が挙げられる。まず「関税自主権の回復が、1928 年の中米関税条約から 1930 年の日中関税協定にいたる諸条約によって達成された。同時に、28年関税から 34年関税にいたる交渉過程で、関税の引上げにも成功を収めた」(9)のであった。

2)幣制改革の実施と国家経済の寡占化

四大家族
さらに財政的強化に貢献した第二の要素としては、幣制改革があった。1935年11月イギリスのリース・ロス指導下に、中央銀行・中国銀行・交通銀行に法幣発行の権限を与え、イギリス・ポンドとリンクさせようとした。このような通貨の統一と安定化政策は、中国経済の発展にインパクトを与えることに成功した。一方で政府が通貨発行の三銀行を支配し、蒋介石が軍事費捻出のために通貨増発と金融市場操作に走ったことと、「四大家族」と言われる官僚資本家による国家経済の寡占化が進んだこと、のために健全な財政統一は実現しなかった。(10)

3)経済の一部資本家による私物化の弊害

宗家三姉妹
この財政面の状況は、国民党政権にとって強い追い風となしうる成果であったように思われるが、どちらかというと蒋介石及び一部の資本家たちによって、その成果が職権乱用的に私物化されてしまった印象が強い。本来は軍事的に追い詰められつつも、関税自主権の回復と言った国権発揚の機会をフルに活かしたり、通貨の統一と安定化による健全な経済発展の可能性を目先の利益につなげるだけでなく、もう少し長期的な資本主義的な市場の発展につなげていければ、その後の歴史も変わってきたかもしれない。

5.思想面の統一の推進状況

三民主義,孫文

1)孫中山の三民主義の思想イデオロギー化推進

最後に思想面の統一についてであるが、これは孫中山の「三民主義」を思想イデオロギーの中核に据えようとする運動の形態を取った。国民党政権の「訓政独裁」が成り立つ前提条件は、人民大衆の政治的未熟にあるとするのであれば、人民を政治的に教育=訓導していく必要があるだろう。
孫中山によれば、「バラバラの砂」である人民を団結した国民に改編する必要があるのであり、国民統合の課題を実現する必要があった。
また蒋介石は、自由な市民の自由な連合による国民統合ではなく「三民主義」による強引な思想統一を目指した。これは、1934年以降「新生活運動」による道徳主義的民族復興運動となり、抗日戦争期には「国民精神総動員」運動として組織された。これらは「忠孝仁愛信義和平」をスローガンに国家と国民党に忠誠をつくすことを目的とした国民意識の統合であった。

2)思想統一による国民統合の挫折

蒋介石111
このような運動は、国民党内では汪精衛による「国民の思想統一による蒋介石個人独裁化」批判につながり、一方では青年層への共産主義思想の浸透もあって、思想統一による国民統合は挫折した。
こうして思想統一は、人民の政治的成熟を志向しながら、党イデオロギーへの強制的な政治動員しか産み出さず、自由な政治的選択と自主的な政治参加の機会を失わせ、自律的な政治的成熟を困難にした。こうして国民不在は継続することとなり、そのために以党治国の訓政独裁と言う過渡的体制は、その後も継続していくこととなった。(11)

6.中華民国時代の中国と昭和初期の日本の対比

国家総動員

1)「国家・国民意識総動員」を必要とした日本の危機の時代

ここで我が国との対比してみると、明治維新後の大日本帝国について言えば、明治時代の国力増強の成果も踏まえて、第一次世界大戦の戦勝もあり、大正時代には民主主義も開花して自由で豊かな「大正デモクラシー」時代を謳歌したということがあった。
その後、状況が激変し大恐慌から戦争の時代に突入して「国家総動員」を基調とする太平洋戦争での日米決戦にまで至ることとなった。
すなわち、自由な市民が繁栄を謳歌した時代を潜り抜けた先の危機の時代においては、上からの「国家総動員」=「国民意識総動員」や「赤紙」による強制的な国民の戦争への徴兵が遂行されたわけである。

2)日本の危機の時代状況と中華民国の状況の類似性

蒋介石,毛沢東
そういう観点から見れば、中華民国=国民党政府時代の中国は、まさに大日本帝国に当てはめれば、その全期に渡って昭和初期並みあるいはそれ以上の危機の時代であったとも言えるわけであり、そこにおいて常に上からの「訓政」や「国民意識総動員」が行われたのも無理のないこととと言えるかもしれない。
結局、このような経過を辿る中で中国国民党による近代的国民国家建設の試みは失敗に終わり、中国国民党との内戦に勝利した中国共産党が同様な政治課題に取り組んでいくこととなった。

尚、本稿とも関連する中華民国、国民党政府時代の中国の混乱については、以下のリンクでも取り扱っております。
孫文,蒋介石,国民党政府が目指した近代化,国民国家建設,帝国的秩序再建の行方!

参考文献
(1)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p345
(2)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第2章 「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p65
(3)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p346
(4)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p346
(5)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p354
(6)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p355
(7)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p355
(8)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p356
(9)久保亨(信州大学):第九回 2009年12月18日 「関税自主権の回復と幣制改革」ASNET講義録 平成21年度冬学期「書き直される中国近現代史(その2)」
(10)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p357-p358
(11)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p357-p358

トランプ大統領のバノン主義=アメリカファースト路線は理念型国家アメリカをウェストファリア型の普通の国民国家に再編する!

ウェストファリア条約

トランプ以前のアメリカの脱国民国家的で普遍的な価値観をベースとするグローバリズム,市場原理主義に基づく帝国を、ウェストファリア条約に遡りつつ「アントニオ・ネグリの帝国論」をベースに現代マルクス主義的な視点で検討し、それらに対峙するトランプのアメリカファースト革命の根本的な意義を解明していきます。

1.アントニオ・ネグリによる「世界帝国」の概念
1)資本主義の進展による帝国の変質
2)機械装置のような中枢なき新たな帝国の成立
2.「世界帝国」以前の状況を支配した「国民国家」の枠組み
1)ヨーロッパにおける中世の秩序
2)ウェストファリア条約で確立した新たな国際秩序
3)ウェストファリア体制と植民地支配システムの終焉
4)国民国家のような主体の存在しない資本の拡大運動としての帝国
3.「国民国家」による秩序を掘り崩す新たな世界秩序を巡る動きとトランプ革命の関係性
1)ナショナリズムを基盤とするウェストファリア体制に馴染まないアメリカ帝国
2)脱ナショナリズムの普遍的な原理に基づく帝国としてのアメリカ
3)トランプ大統領のアメリカファーストによるグローバリズム,市場原理主義,資本主義への攻撃

1.アントニオ・ネグリによる「世界帝国」の概念

1)資本主義の進展による帝国の変質

円卓会議

ここでベースとなる考え方としてのアントニオ・ネグリの言う「帝国」とは、巨大な資本制システムそれ自体を指していています。このシステムは特定の国家や国民と言う枠を超えたもので「一種の機械装置」であり、特に命令中枢や末端の制御装置も存在しないものです。この「帝国」の捉え方は、いわゆる「近代の帝国」あるいは「帝国主義的な枠組み」とは異なります。「近代の帝国」の捉え方では、帝国主義=資本制システムというものは、国家と資本が合体して、国家の侵略と資本の侵略がほぼ一体としてなされるのが常態でした。これは国家の侵略を国の指導者が先導し、国民は高揚するナショナリズムに踊らされて、それに追随し、結果的に国民国家意識がさらに高まるような状況がベースにありました。
また資本の側においても財閥当主や企業の総帥と言ったような中枢指導層が、国家のトップと一体となって侵略を合議し推進するような中核権力の所在がはっきりした政治体制であったと言えるでしょう。(1)

2)機械装置のような新たな帝国の成立

ドバイ

そういう状況を踏まえてアントニオ・ネグリは、これまでの「国民国家」の延長線上での資本制システムについて取り上げるとともに、さらに現在それを超えるような巨大な資本制システムが「帝国」として成立しつつあることを描写しています。そして、その巨大な資本制システムを背景とする「帝国」は、機械装置のようなもので、命令を発する中枢機能も末端の制御装置も無いような存在で、近代の資本制システムを背景とする「国民国家」とは大きく相違するところがある、という認識を示しています。

それではまず近代西欧諸国の国民国家をベースとする体制が、どのようにして成立してきたかをそれ以前の中世のアナーキーな状況と対比させつつ確認してみましょう。

2.「世界帝国」以前の状況を支配した「国民国家」の枠組み

1)ヨーロッパにおける中世の秩序

ヴァチカン

国民国家をベースとする体制の基盤は、中世のアナーキーな支配状況を克服する過程で最終的に三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約で確立したと言えますが、それでは中世のアナーキーな支配状況とはどのようなものだったでしょうか。

中世の秩序としては、

・封建的な領主と家臣関係において支配が重層的なだけでなく、領域的にも広範な飛び地をもった支配や領主=支配者の頻繁な交替が可能であり、近代的な排他的主権、所有権が確立していない。
・自然な法、宗教、慣習により正統化された地域支配体制で教皇、皇帝などがそれぞれの秩序を支える組織を持っていた。(2)

すなわち、ウェストファリア条約以前の国際秩序の編成原理は、緩やかな「帝国」の原理とでもいうべきものであり、開かれたエリア内を帝国や教会、都市国家をベースにしたネットワークが多層的につないでおり、その主導権は理念上は世界全体を支配したいと考える帝国=古代ローマの後継を志向する「神聖ローマ帝国」や「ローマ教皇庁」が握ろうと努力し、イタリアの都市国家が経済ネットワークをコントロールするような体制でした。

2)ウェストファリア条約で確立した新たな国際秩序

ウェストファリア条約

これに対して三十年戦争後の1648年に戦後の講和条約としてウェストファリア条約が締結されました。
ウェストファリア条約で方向性が定まった国際秩序は、以下のように類型化されます。

・「国際法上の国家主権」の概念が重要な位置を獲得
・中世の教会のような国家より上位の権威を政治権力として否定(政教分離)
・外部の権力を認めず、領域内部の絶対権力を主張するウェストファリア型国家主権

尚、EUの所属国家は、「国際法上の国家主権」は維持しつつ、「ウェストファリア型」国家主権の一部を放棄しており、台湾は後者は維持しつつも前者の獲得は出来ないでいる、と考えてよいでしょう。このようにウェストファリア体制においては、中世的な「帝国」や「ローマ教皇庁」の主導権が後景に退き、主権国家群が新しいシステムを形成することとなりました。(3)

ここにおいて初めて主権国家の位置づけが固まり、領土と国民の範囲が明確になり、主権国家の側からは領土内での国民の安全や私的所有権を保障する意志が明確になった、ということになります。この流れから国家間の安定した外交関係や勢力均衡が模索され、対等な国家関係という観念がある程度までは定着していきます。(4)

3)ウェストファリア体制と植民地支配システムの終焉

植民地支配

このように中世から近代への転換を経る中で西欧諸国は、西欧の枠組みの中での比較的平和で安定した状況を確保しつつ、その他の地域を収奪するシステムを徐々に形成していくことになりました。
ところがネグリによれば、このようなウェストファリア体制は既に終わっている、という認識を提示しており、その論点は以下のようなものです。
ネグリによれば、「元来ウェストファリア体制に基づく勢力均衡や秩序維持の対象は、あくまでも欧州の範囲内であり、この枠外のアジア・アフリカにおいては欧州諸国は国際法に拘束されずに自由に侵略して良い、という暗黙の了解があった。これがいわゆる植民地と宗主国の関係の構築であり、これにより欧州諸国は搾取と収奪を基本とする植民地支配システムを完成させ、欧州における平和と秩序は維持されることとなった。(5)」ということです。

確かにこのようなダブルスタンダードな状況は、特に第二次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立までは顕著に存在していたと言えるでしょう。アジアにおいてはオスマン帝国はその中東エリアが主としてイギリスの植民地となり、インドもイギリスの植民地と化しました。また清国も領土割譲こそ香港、マカオにとどまりましたが、その経済権益を欧州列強や日本に奪われることとなりました。

ただし、植民地分割が完了し拡大する余地が無くなると、植民地の再分割に向けた帝国主義戦争が始まってしまいます。これにより欧州の国民国家同士の平和維持システムが破綻に瀕することとなりました。(6)
これも歴史に照らして観れば、第一次世界大戦などはその典型的な事例として挙げられます。この戦争は、後発国たるドイツが、英仏露の植民地獲得の先発国に挑んだ戦争という側面も濃厚でした。

4)国民国家のような主体の存在しない資本の拡大運動としての帝国

国際連合

一方資本制システム自体は、国民国家がもっている主体的頭脳のようなものを欠いていて、無限に拡大しようと動くだけでいかなる力もこれに対抗することが出来ない、ということがあります。従って、資本はただただ拡大していくが、この過程で植民地と宗主国という関係を破壊せざるを得なくなってきます。その果てには、資本がフランスやドイツと言うような国民国家にまたがる多国籍企業という形態が出てきます。そうなってくると、本来互いが均衡関係を保つ単位であった国民国家が、それをまたぐ多国籍企業のような形態の進展により乗り越えられ包摂されて、均衡関係が崩壊してしまいます。このように国民国家という枠組みが掘り崩されるとその先には、国連の機能停止や国際法の意味の喪失につながっていくような事態があり得る、ということになります。(7)

3.「国民国家」による秩序を掘り崩す新たな世界秩序を巡る動きとトランプ革命の関係性

1)ナショナリズムを基盤とするウェストファリア体制に馴染まないアメリカ帝国

アメリカ独立革命

近代の国際秩序が国民国家の枠組みの中で、成立し一定の均衡状態を維持してきたのは、間違いないところです。そのような平和と安定の基盤が国民国家の枠を超える資本の動きの中で掘り崩され、形骸化しつつあるということですが、確かに多国籍企業の動きは国境を越えており、主権国家の領域内での絶対的な支配権も国境を越えてしまえばその動きを完全に捕捉することは困難になることは間違いないところでしょう。このような状況は広い意味で「古代ローマが実現」し「神聖ローマ帝国が憧憬」して果たせなかった「世界帝国の再生」とでも呼べるのかもしれません。国民国家により形成された「近代の帝国」の典型としての「国民帝国」(「植民地帝国」)とは相違する本格的な「世界帝国」がウェストファリア体制に続く新たな世界秩序として姿を現しつつある可能性もあるのです。

ここでいう「世界帝国の再生」を理解する場合のモデルとしてアメリカの存在を検討してみましょう。アメリカは国家成立当初より従来の西欧型国民国家の実態とはかけ離れており、元来「国民国家の要件」を欠いた存在であると言えるでしょう。アメリカの国家形成の原理は、民族的な基盤に基づくナショナリズムとは言えず、あくまでも「自由と民主主義」ということになりますが、これは国民国家的な次元の理念ではありません。すなわち、「自由と民主主義」を主体的に受け入れることが出来る人間であれば、たとえそれが元はどんな人種、民族、言語の人間であっても支障なくアメリカの国民になることが可能であるという原理です。このような原理及びそれに基づく国家とは、明らかに国民国家、ナショナリズムと言った要素を否定するものであり、もともとアメリカは脱ウェストファリア的な状況を志向する原理に基づく「特殊な国家」であった、と言えるでしょう。

2)脱ナショナリズムの普遍的な原理に基づく帝国としてのアメリカ

ソ連東欧革命

合衆国大統領であったジョージ・ブッシュ・ジュニアが21世紀初頭にリトアニアや東欧各国を歴訪して熱狂的に迎えられた時に現地で、イラク戦争に反対した独仏を「古い欧州だ」と切り捨てた発言があって注目されたことがありました。これは単にブッシュ・ネオコン政権の偏った発言という要素もあったものの、本質的にはウェストファリア型の国民国家原理に基づく西欧を牽制しつつ、元来「自由と民主主義」とは対立していたものの、ウェストファリア体制とは異なる「社会主義」という「普遍的な理念」に基づいて形成されていた東欧圏を取り込もうとした戦略的な発言であり、結果的にその戦略が一定の成功を収めたもの、とも言えるかもしれません。(8)(9)

すなわち、当時のアメリカは「社会主義」という普遍的な原理で成り立っていた東欧諸国を、ソ連の崩壊を機に新たに「自由と民主主義」という普遍的な原理で取り込み、その勢力圏を拡大した、とも言いかえることが出来たかも知れません。
またこの状況は、アメリカ一国の問題と言うよりも冷戦後の現代世界を全て呑み込もうとする「グローバリゼーション」や「資本主義の発展した段階」「市場原理主義」と言った現象を包括的に捉えて、「世界帝国の再生」現象の一端と描写出来たのかも知れなかったのです。

3)トランプ大統領のアメリカファーストによるグローバリズム,市場原理主義,資本主義への攻撃

トランプ,ヒトラー
しかるに、そのような普遍的な「自由と民主主義」という理念をベースに脱ナショナリズム的な観点から国家を成立させてきたはずのアメリカにトランプ大統領が誕生したのは、アメリカの建国以来の理念を根底から揺るがす衝撃的な変化、と言える気がしています。

すなわち、トランプ大統領の成功の要因は、アメリカを「自由と民主主義」という普遍的な原理に基づく特殊国家から、ナショナリズムに基づく国民国家の枠組みに再構成することにある程度成功した、ということにあるのではないか、というのが私の現時点での見立てになります。
この際、トランプ大統領が、本来国民国家としての由来を持ちにくいはずのアメリカにとってのナショナリズムの基盤に据えたのは、かつての偉大なアメリカ、すなわち第二次世界大戦に圧勝し繁栄を極めた戦後の1950年代頃のアメリカへの郷愁=ロマンチズムであり、そこに向かってアメリカを再生しようとする「Make America Great Again」というスローガンであった、ということになりましょうか。

そして、トランプ大統領の選挙運動においては、かつてのあの時の反映しセピア色の繁栄を謳歌していた時代のアメリカへの特に白人有権者の郷愁=ロマンチズムをかきたてることに全力を挙げることで票を掘り起こし、アメリカを一気にグローバリズム,市場原理主義,資本主義を基調とする普遍主義の特殊国家から、ナショナリズムに基づくアメリカ市民を第一に考えるアメリカ国民国家へと、その歴史的な枠組みまで再構成しようとしつつあるのではないか、と考えられます。

そのように考えると、トランプ大統領の出現は、ソ連・東欧圏の崩壊による20世紀後半の革命に匹敵する、ある意味では世界史的で革命的な事象と捉えることもできるのかもしれません。

そして、まさにこれは1930年代にヒトラーが、ドイツで行った政治運動と同一線上にある、とも言えるような気がします。
まさしく、トランプ大統領の出現は、ドイツ映画「帰ってきたヒトラー」が先取りした事態の現実バージョンとも見なせそうです。

尚、アメリカファーストの帰結として一部で想定されている、アメリカ版文化大革命と中国の文化大革命の関連性については以下のリンクで詳しく分析しています。
トランプ政権を離れたバノンはヒトラーの予言実現のためアメリカ版文化大革命を扇動する!
トランプのアメリカファースト路線でヒトラーの予言したアメリカの文化大革命的混乱状況が完成する!

参考文献
(1)的場昭弘:マルクスを再読する 五月書房 2004 第一章 アントニオ・ネグリの「帝国」の概念 p14
(2)杉原董:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第4章 近代国際秩序の形成と展開 p141
(3)杉原董:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第4章 近代国際秩序の形成と展開 p140
(4)杉原董:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第4章 近代国際秩序の形成と展開 p141
(5)的場昭弘:マルクスを再読する 五月書房 2004 第一章 アントニオ・ネグリの「帝国」の概念 p16
(6)レーニン:帝国主義論「帝国主義の世界再分割」についての記述
(7)的場昭弘:マルクスを再読する 五月書房 2004 第一章 アントニオ・ネグリの「帝国」の概念 p17
(8)加々美光行:裸の共和国 世界書院 2010 第5章 大漢民族主義は超えられるか P203
(9)加々美光行:21世紀の世界政治3中国世界 筑摩書房 1999 第14章 覇権国家の諸類型 P149

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

オスマン帝国における近代化の動きは、帝国の根底を揺るがす徹底的過ぎる改革だったともいわれており、明治維新のように伝統を維持しつつ国家体制を変革することに失敗したために、帝国及びイスラム世界秩序の双方ともに崩壊することになった、との認識がある。

1.バルカン非ムスリム諸国民の独立とイスラム世界秩序=オスマン帝国の行く末
1)徹底的過ぎる改革がもたらす事態
2)危機に対処するオスマン帝国の柔軟性と根本的改革の遂行
3)バルカン喪失後のオスマン帝国の課題
2.バルカン非ムスリム諸国家喪失後の生き残り策を模索するオスマン帝国
1)帝国解体の危機への二様の対処策としてのイスラム的世界秩序回帰と近代国際体系への参加
2)ムスリム臣民内のアラブ民族意識の芽生えとトルコ主義の拡大
3.西洋の衝撃によるオスマン帝国の解体の流れ
1)ナショナリズムの高揚とイスラム的世界秩序の崩壊
2)オスマン帝国の疑似国民国家化への志向とその崩壊過程
3)イスラム世界の自己完結性の喪失とオスマン帝国のトルコネーションステート化

1.バルカン非ムスリム諸国民の独立とイスラム世界秩序=オスマン帝国の行く末

1)徹底的過ぎる改革がもたらす事態

ペレストロイカ
イスラム的世界帝国と言うのは、オスマン帝国の存立基盤であった。もっと広くとらえればイスラム世界一体化の成立基盤でもあったのではなかろうか。もともとイスラム的世界秩序の理念においては、「イスラムの家」の政治的統一が前提とされ、ムスリムの諸国家から構成される国際体系は全く想定していなかった(1)と言う点から観ても、徹底的過ぎる改革が帝国の存立基盤を犯して、逆に帝国の崩壊に導いてしまったのかもしれない。近年ではソ連を崩壊に導く遠因となったペレストロイカなども、このような例に当てはまるだろう。
ペレストロイカは、体制変換モデルを提起しながら、以下のような三重の矛盾を内包していたという。

①ペレストロイカは、ソビエト共産党の一党ヘゲモニーの堅持を意図しながら、市民社会の登場と成熟を前提とし、その歴史的所産であることを強調し続けていた。
②ペレストロイカが、社会主義経済システムの枠内での経済活性化の道を模索しながら、他方で資本主義的制度の多様な導入を画策していた。
③ペレストロイカは、本質的には国家=党の支配の中央集権的なメカニズムとしての「帝国」を維持しようとしながら、民主化・分権化を強調し、共和国主権を求める絶え間ない動きを引き出してしまった。(2)

このように改革の姿勢が、「帝国」の存立基盤を動揺させ、世論の大勢がそこになびいてしまうと、そういう動きをとどめることは困難であ
ろう。

2)危機に対処するオスマン帝国の柔軟性と根本的改革の遂行

ロマノフ王朝
とはいえオスマン帝国は、ソビエト社会主義共和国連邦のように突如として崩壊するようなことは無かった。あらゆる予想を裏切って、オスマン帝国はスペイン帝国、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国、ポーランド選挙王国、神聖ローマ帝国、ブルボン王朝、ナポレオン王国、権力ある存在としての教皇庁やロマノフ王朝、ハプスブルグ帝国、ホーエンツォレルン帝国よりも長生きした。(3)
イスラム的世界帝国の根幹レベルからの改革を目指すと言う方針のもとで、1839年に「ギュルハネ勅書」が、1856年には「改革の勅
令」が出され、オスマン帝国の臣民は、その宗教に関わらずほぼ平等の権利を有することとなった。オスマン主義と呼ばれるこの方針は、イ
スラム的な伝統的帝国概念を根底から覆し、世俗的多民族国家としてのオスマン帝国の延命を目指す画期的なものであったが、ムスリム臣民には浸透したものの、非ムスリムのバルカン諸民族のナショナリズムや民族独立運動を抑え込むことには失敗し、オスマン帝国のイスラム的世界帝国から世俗的多民族国家への転換に至る道は閉された。(4)

3)バルカン喪失後のオスマン帝国の課題

ムスリム

このようにオスマン帝国は自らイスラム的世界帝国の本質を放棄し、世俗的多民族国家への転換を図りながらも、このような方針の直接の要因となったバルカン諸国をつなぎとめることには失敗してしまった。これにより、非ムスリムのキリスト教徒を主体とするバルカンの喪失がほぼ既定事実化してくると、今度はオスマン帝国にとってムスリム臣民を如何にしてつなぎとめて、帝国を維持していくかが課題となってくる。

2.バルカン非ムスリム諸国家喪失後の生き残り策を模索するオスマン帝国

1)帝国解体の危機への二様の対処策としてのイスラム的世界秩序回帰と近代国際体系への参加

正統カリフ時代
非ムスリムのバルカン諸民族の独立と外圧の高まりの中でオスマン帝国はその存立のためにいくつかの方策を探ったが、その一つは伝統的なイスラム的国際体系観に回帰し、イスラム世界の統一と全ムスリムの団結により危機に対処することであった。スルタン・カリフ制の理論を援用しつつ、オスマン帝国の君主としてのスルタンが同時に地上における預言者ムハンマドの代理人であるカリフとして、全世界のムスリムの指導者として君臨する、との考え方である。いま一つの方策はトルコ民族のナショナリズムを拠り所に近代的国際体系に参加し、ネーションステートの一員になるという考え方であり、これには大トルコ民族主義とアナトリアを中心とするネーションステートを形成しようとするトルコ主義とがあったが、これはトルコ主義へと徐々に収斂していった。(5)

2)ムスリム臣民内のアラブ民族意識の芽生えとトルコ主義の拡大

アナトリア

オスマン帝国におけるムスリム臣民は、トルコ人だけではない。元々オスマン帝国はイスラム世界の辺境の一帝国に過ぎなかった(6)ので
あり、マホメットの出自やメッカ・メジナの周辺民族を想起すれば、アラブ人の動きをここで確認しておく必要があるだろう。
ムスリム意識からトルコ人意識が出てき始めていた19世紀後半にはムスリム臣民のうちアラブ人にもアラブ人意識が芽生え、アラブ・ナショナリズムへと結実していくこととなった。このようなアラブナショナリズムの形成はイスラム世界の伝統的秩序観に決定的な亀裂をもたらした。またこれが近代西欧に由来するナショナリズムへの志向に対抗する、イスラム世界の伝統への回帰としてのパン・イスラム主義の発展を阻害する要素となった。(7)
同じムスリムのアラブ人からも離反されては、オスマン帝国の取るべき道は、アナトリアを中心とするネーション・ステートの形成をベースとするトルコ主義に収斂せざるを得なくなるだろう。

3.西洋の衝撃によるオスマン帝国の解体に向けた奔流

1)ナショナリズムの高揚とイスラム的世界秩序の崩壊

イスラム世界帝国

このように18世紀以降の西洋の衝撃によりイスラム世界における伝統的国際体系は、徐々に掘り崩されイスラム的世界帝国としてのオスマン帝国は解体に追い込まれていった。こうした世界帝国崩壊の過程で、ナショナリズムの高揚と主権平等のネーションステート形成に向けた流れが奔流のように噴出した。(8)

2)オスマン帝国の疑似国民国家化への志向とその崩壊過程

中華帝国
オスマン帝国はかつて民族と宗教の多様性のダイナミズムを誇る世界帝国としてイスラム世界及びバルカン半島を支配していたわけであるが、「西洋の衝撃」を受けてその多元的な支配構造を「疑似国民国家」化して西欧のリードする新しい世界システムに適応しようとした。
このような「疑似国民国家」に変質したのはオスマン帝国だけではなく、「中華帝国」も同時期に同じ様な対応を取っていた。(9)
「中華帝国」では「天の思想あるいは天下主義がいつのまにか明確な輪郭をともなった国民主義へと変質していた」。(10)ここで言う「天=天下」が中華エリアのベースであったが、清の時代に藩部を取り込んで大幅に拡大した「天下としての中華エリア」=「清朝最大版図」が、そのまま「国家領域」として受け入れられ、「天下の民」=「国民」=「中華民族」と捉えなおされることで非常に自然な形で「疑似国民国家」中華民国が誕生したと言えよう。そしてこの延長線上に現在の中華人民共和国も位置づけられるだろう。
他方オスマン帝国は、非ムスリムを抱え込んだイスラム的世界帝国の位置付けを、まずバルカン半島の非ムスリムの独立で喪失し、ムスリムを包括するイスラム的世界帝国の位置付けをアラブ民族主義の台頭で放棄し、究極的にはアナトリアをベースとするトルコ主義に純化した国民国家を選択することで、あらゆる「帝国」としての歴史に訣別したと言えよう。

3)イスラム世界の自己完結性の喪失とオスマン帝国のトルコネーションステート化

トルコ共和国

こうしてイスラム世界は、「西洋の衝撃」を被ることで、それまでの自己完結性を喪失して、グローバルシステムとしての近代国際体系の一部に組み込まれ、「中東」と呼ばれる一地域として再編成されることとなった。そうした動きの中で記述の通りオスマン帝国の中核たるトルコ民族もアナトリアを中心にトルコナショナリズムによって世俗的な近代西欧の方式をベースとしたトルコ共和国というネーションステートを成立させ今日に至っている。

尚、「西洋の衝撃」が、オスマン帝国に与えた影響を西欧キリスト教文明に対峙したイスラム世界帝国としてのオスマン帝国という見地から分析した以下のリンクもご参照ください。

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国のようなイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

<参考文献>
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p25
(2)進藤榮一:ポストペレストロイカの世界像 筑摩書房 1992 ペレストロイカの本質 p61-p63
(3)アラン・パーマー:オスマン帝国衰亡史 中央公論社 1998 第三章チューリップ時代とその後 p57
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p61-p62
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p62-p63
(6)鈴木董:帝国とは何か 岩波書店 1997 多様性と開放性の帝国 p160
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p64
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p64
(9)山内昌之:帝国と国民 岩波書店 2004 序章 ひきさかれた帝国 p14
(10)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997  中国皇帝と天皇  p125-p126