儒家正統

現代に通じる魏晋南北朝期の中国の混乱要因と北魏による中華大一統再現策の効果の分析!

sangokushi-japan

秦以来の中華領域における国家の特徴は、基本的に「大一統」を実現しているか、少なくとも「大一統」を目指すことを志向しているか、であり「秦」「漢」「隋」「唐」「宋」「元」「明」「清」がそれに該当するだろう。しかるに、この「中華帝国大一統」の伝統には、一つの明確な例外的時代が存在する。それは、魏晋南北朝時代であるが、本項ではこの「中華帝国大一統の例外」の時代を分析することで、「中華帝国大一統」のメカニズムに迫っていきたいと考えている。

1.政治制度・土地制度から観た魏晋南北朝時代の特徴
1)支配エリートの貴族化傾向の増大
2)地主経済から領主経済への移行現象の進行
3)西晋崩壊後の中国の状況
2.魏晋南北朝時代の中国に蔓延する政治・経済・イデオロギー構造
1)魏晋南北朝時代に特有の準安定構造
2)魏晋南北朝時代の準安定構造とヨーロッパや日本の封建社会構造の類似性
3.魏晋南北朝の混乱状況から超安定構造への復帰の動き
1)魏晋南北朝時代の混乱要因の解消に向けた動き
①「少数民族の中国内地への大量移住」の問題
②仏教の中国化の促進
2)北朝による新たな政策の推進
3)魏晋南北朝時代の大一統復活へ向けた歴史的経過

1.政治制度・土地制度から観た魏晋南北朝時代の特徴

魏晋南北朝期に中華帝国大一統の存立基盤が失われた中華領域では、どのような政治的経済的な状況が現出していたのであろうか。

1)支配エリートの貴族化傾向の増大

三国時代
魏晋南北朝の中国でまず目立っていたのが、支配エリートの貴族化傾向が怒涛のように進んだことが挙げられよう。このため、官僚機構が次第に世襲貴族に独占されるようになり、九品中正制が漢以来の官僚選抜のための察挙・徴辟制度に取って代わっていった。このような魏晋時代の門閥貴族勢力の拡大、王権の凋落、門地等級思想の根強さは他の時代には観られない特異な現象であった。(1)
治世の能臣、乱世の奸雄と言われた魏の実質的な創立者の曹操は、自らは実力主義を実行して天下の大半を支配したが、結局は安定的な中華の大一統を果たせず、政治制度的にも社会の混乱の延長線上に過渡的な秩序しか産みだせなかったと言えようか。結局、曹操は中華大一統を実現し、数百年の太平の天下を築いた先輩の劉邦にも後輩の李世民にも及ばず、「簒奪者であり、一代の奸雄に過ぎない」との評価から完全に抜け出すことが出来なかったとも言えるかも知れない。

2)地主経済から領主経済への移行現象の進行

南北朝時代
宗法一体化構造の不全による経済構造への主たる影響としては、地主経済から領主経済への移行現象が挙げられよう。このことは農民の地主に対する身分的従属関係の著しい強化となって跳ね返ってくるのである。特に西晋の滅亡後には、この時代に顕著な領主制に類似する二つの経済組織が出現した。一つは塢堡主経済でもう一つは宗主督護制と呼ばれるものである。前者は、大塢堡主が小塢堡主を支配し、小塢堡主が労働者を支配する形態で、大塢堡主は政権に密着し、貢納関係を形成するというもので西欧や日本の封建性に近いものであった。後者は、合戸制であり戸主である塢堡主や宗主が数十軒から百軒を束ねて、政府への賦役負担を請け負うものでった。こうした中で、塢堡主や宗主などの貴族層は、農民に対して経済的搾取を行うとともに、行政上の管理権も行使していた。
貴族層は占有する土地を治外法権的に支配する権利を持ち、所属する人民を自由に管理する権限を有していたのである。(2)
このようになってしまうともはや中央集権的専制国家というような代物ではなく、単なる弱小貴族の割拠した分裂型領邦制国家とでもいうべきものになってしまうであろう。統一的な強力な常備軍の存在も期待出来ず、新たなる騎馬民族の襲来に対しても十分な国防力をもって対処する術がなかったことも理解出来る。

3)西晋崩壊後の中国の状況

西晋
西晋が匈奴の反乱である永嘉の乱で崩壊した後、江南に避難することもせず、異民族支配も拒否した貴族たちは塢堡塁を建設して自衛しながら、大量の自作農を取り込んで部曲として編成していった。部曲は平時には耕作し、戦時には戦うと言う形で貴族との強い身分的従属関係を有しており、逆に国家の兵役からは免除されていた。このような部曲は、ほとんど農奴同然の立場であり、貴族との従属関係を解消して自作農になるためには、放免されるか自ら身請けするかしかなかった。北方における領主経済はこのような部曲を中心に成り立っていたのである。(3)
南方における状況も大同小異であり、貴族化は絶え間なく増大し、自作農は減少するばかりであった。地主経済の衰退は、蔭客制の発展と軌を一にしていたが、この蔭客制とは、農民が貴族に身を投じて「蔭庇」(庇護)を受けることで、国家への納税や徭役負担を免れようとすることを指す。東晋時代の蔭客数は数万人いた官吏の人数から推定すると15万戸程度存在したとされており、総戸数が60万とすれば四分の一以上が蔭客となっていた。このような領主型経済では、農奴と化した農民への封建的搾取は激甚であり、農業の生産水準は先秦時代を下回っていたとされる。(4)

2.魏晋南北朝時代の中国に蔓延する政治・経済・イデオロギー構造

これらの状況を踏まえて、魏晋南北朝時代の中国封建社会の政治・経済・イデオロギー構造を分析すると、これは既に超安定構造から明確に逸脱した新たな類型が出来あがっていたことが読み取れる。

1)魏晋南北朝時代に特有の準安定構造

老子
魏晋南北朝に中国に成立していた社会構造としては、「領主荘園経済が政治上の門閥貴族制と適応し、国家の分裂が仏教・老荘・玄学のイデオロギー構造に適応する形態」となるだろう。
このような構造は、ほとんど一体化調節の機能を保持していないか、あるいは一体化調節機能がほとんど微弱な状態に陥っているかのいずれかであり、元々保持されていた一体化調節機能が衰弱から消滅に向かうような時期には、このような新システムが、「地主経済・大一統の官僚政治・儒家の正統」と言った本来の封建社会の在り方に取って代わってしまっていたのであった。(5)

2)魏晋南北朝時代の準安定構造とヨーロッパや日本の封建社会構造の類似性

河西回廊
このような準安定構造が、いわゆる典型的な封建社会とされるヨーロッパや日本の封建社会構造に類似しているという指摘は確かに当たっていよう。魏晋南北朝時代には、天下領域全体を覆うように存在する統一権力も交通のネットワークも統治組織も破壊され、領主荘園経済の優勢の下で経済的にも商業や都市は振るわず、関所で隔てられた狭い範囲での流通経済が微小ながら運営されているような状態に止まっていた。北周時代には河西回廊地域では、西域の金銀通貨が使用されたにもかかわらず役所がこれを禁止しなかった例にも観られる通り、魏晋南北朝期においては統一的貨幣制度は、破壊されてしまっていたのである。このような情勢下では、土地兼併の問題よりも、人手不足を解消するための人口の争奪が問題になっていた。(6)

3.魏晋南北朝の混乱状況から超安定構造への復帰の動き

このような超安定構造から観れば、混乱し逸脱したヨーロッパや日本の封建社会並みの群雄割拠的な分裂状態から本来の超安定構造に回帰、移行する流れが芽生えてきたのはなぜであろうか。この要因を探るためには、超安定構造を破壊した撹乱源が克服されているかどうかを知ることが手掛かりになりうるだろう。

1)魏晋南北朝時代の混乱要因の解消に向けた動き

民族融和

①「少数民族の中国内地への大量移住」の問題

魏晋南北朝期の300年間に渡る長期の大分裂を経過する中で、「内地へ移住した少数民族」が漢族の文化を幅広く受容し、新たなる漢族を中心とした民族の大融合が実現していった。

②仏教の中国化の促進

仏教の影響は300年に渡る分裂抗争の中で刺激を受け続けることで、儒学が漢代経学の古臭さや現実への適応性の無さを一掃し、徐々に主導権を発揮し始める中で希薄化していった。さらに仏教はこの時期、中国式に改造され仏・道・儒の融合体である禅宗が誕生することで、儒家正統イデオロギーに対して真っ向から撹乱作用を起こす主体では無くなっていった。(7)

2)北朝による新たな政策の推進


さらにこれに合わせるように準安定構造がより顕著に現れていた南朝ではなく、少数民族の影響をより強く受けてきた北朝により以下のような3つの施策が強力に推進されることにより、「中華帝国大一統」は最終的に再建されることとなった。

①経済構造において均田制を推進して荘園制度を破壊し、身分的従属関係を破壊して、部曲や佃客を解放して自作農とすること
②政治構造においては、門閥貴族の勢力を弱体化し、皇帝と中央政府の絶対的権威を再建し、九品中正制度を廃止して、一体化の実現に資する任官制度を構築すること
③イデオロギー構造においては、儒家が再び正統としての地位を獲得し、広範な知識人が無為・脱俗の消極的態度を改めて積極的に世事に関与することを促し、大一統の組織力となること(8)

3)魏晋南北朝時代の大一統復活へ向けた歴史的経過

北魏222
こうした中で、魏晋南北朝時代は以下のような3つの段階を経て最終的には、宗法一体化構造に立ち戻る経過を辿ったのである。

・「第一段階:後漢滅亡から西晋までの一体化調節機能の喪失時期」
・「第二段階:西晋の滅亡後、南北朝に分裂し、さらに北側は十六国の大乱に陥った準安定構造の時期」
・「第三段階:北魏の建国以降半世紀の準安定構造から宗法一体化構造再建への過渡期」(9)

尚、本稿とも関連する中華大一統の本質については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。

中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

トランプ大統領の不法移民流入制限の根拠は魏晋南北朝時代の中国の混乱が証明する!

参考文献
(1)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p173
(2)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p174
(3)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p174-p175
(4)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p175-p176
(5)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p177
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p177-p178
(7)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p179-p180
(8)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p180
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p181

米中冷戦に突入した習近平の独裁は清朝の軍機処の現代版としての中国共産党中央政治局常務委員会が基盤である!

天安門楼上

軍機処

習近平は遂に2018年3月5日に開催された全国人民代表大会で国家主席の任期撤廃を盛り込んだ憲法修正案を発表し、実質的な中華帝国皇帝への道を歩み始めました。ここでは清朝の最高意思決定機関である軍機処の権限とその役割が、現代の中国共産党中央政治局常務員会に脈々と受け継がれていることを清朝極盛期の統治方式から解明していきます。

1.清朝皇帝のチベット仏教保護者としての意識
1)清朝皇帝と従来の中華皇帝の意識の比較
2)清朝皇帝の文化的立ち位置
3)清朝に服属したモンゴル人やチベット人の中華文明への意識
4)モンゴル・チベット・新疆に君臨する清朝皇帝の立場
2.清朝による中国内地以外の新領域支配の実相
1)中国内地以外の新領域の支配状況
2)大一統の原則と礼部、藩部の統治論理
3)清朝の対外関係の論理
3.清朝皇帝の視点から捉える最大版図を実現した中華帝国の実像
1)中華帝国の拡大により鼎立する支配地域の状況
2)清朝皇帝にとっての軍機処の存在意義

1.清朝皇帝のチベット仏教保護者としての意識

1)清朝皇帝と従来の中華皇帝の意識の比較

文殊菩薩
清の皇帝はチベット仏教を保護する「神武英明皇帝」あるいは「文殊菩薩皇帝」としてモンゴル、チベット人から尊敬と服従を確保(1)し、それまでの漢人による中華帝国が成しえなかった空前の中国領土の拡大を実現したが、皇帝自身はチベット仏教に対してどのような認識と位置付けをいだいていたであろうか。
本来中華皇帝は「儒家正統と漢字を中心とする中華文明」の中心として存在し、周辺の文化・風俗に対してはランクの異なるものとして接するのが常であったと思量されるが、果たして清の皇帝はどうであったのか。
清の皇帝が漢文でモンゴル人やチベット人のためのチベット仏教の保護を説明する時は、「易経」からの出典による「神道を以て教を設ける」と言うフレーズを用いるケースが多く、これだけを観れば清朝の皇帝も従来の中華帝国の皇帝同様に「チベット仏教に対する尊崇は、見せかけであり、辺境の民を手なずけるための方便である」と言うようにも読み取れる。(2)
とはいえ、このような観方は「中華」寄りの観方であり、実際のところ清朝皇帝の胸の内がどのあたりにあったかということは、もう少し慎重に検討していく必要があるだろう。
またこのことは、清朝の支配構造やその政権基盤も含めて再確認していく必要があることは言うまでも無い。

2)清朝皇帝の文化的立ち位置

チベット仏教
一方で見方を変えれば、ここでいう「神道」とはチベット仏教のことであり、その力でモンゴル人、チベット人を教化し、平和と安定をもたらしているとすれば、元来の中華文明たる「儒家正統・漢字文化」に依拠する必要もなく、独自の世界観で自足することを認めているとも受け取れるだろう。(3)
こちらの方が、実際に近いのかもしれない。清朝は中華文明エリアとしての中国内地とそれ以外の地域を藩部として区別して支配したが、支配構造だけでなく文化的にも両者を並列的に捉えていたのではないだろうか。
いずれにせよ、清に服属した一般のモンゴル人やチベット人がこの後「儒家正統や漢字文化」を中華文明の精髄としてチベット仏教文化より優れたものとして受け入れたという形跡は観掛けられない。(4)

3)清朝に服属したモンゴル人やチベット人の中華文明への意識

八旗
清朝の支配者の感覚は一先ず置くとしても、モンゴル人やチベット人の側では、中華文明に対して、自分たちの誇るチベット仏教文化が劣っているという認識は皆無であったようである。「中華」と言う概念そのものがモンゴル語、チベット語、ウイグル・カザフ族が用いるトルコ語東部方言には未だに翻訳されていないという。(5)

4)モンゴル・チベット・新疆に君臨する清朝皇帝の立場

五族共和
それでは、中華文明に平伏したわけでもない新領土のモンゴル・チベット・新疆の人々に清朝皇帝が、服従と尊敬を勝ち得て一定の平和を築けたのは何故なのか。答えは既に記述してきたとおり、清の皇帝が新領土に対して中華文明の代表たる「儒家正統・漢字文化」を体現した存在として君臨するのではなく、全く別の顔で「文殊菩薩皇帝」「神武英明皇帝」たるチベット仏教の保護者として現れ「中華文明を押し付けるのではなく、個別の宗教文化を尊重し、保護育成を図った=教を尊重した」(6)ことによるのだろう。すなわち、清の皇帝は中華文明の代表でもなければ、チベット仏教の保護者というだけでもなく、実質的に展開した版図においてそれぞれの文明・文化を尊重し、平和と安定を保証するような存在を目指したのではなかったか。そしてその保証を得るためには版図の住人は、「皇帝の支配を受け入れさえすればよい」(7)のであった。
このように考えると清の帝国としての統治が中華文明と辺境との境界であった「万里の長城」の存在を前時代の遺物に変えてしまう空前の広がりと安定を確保した理由の一端が垣間見えるような気がするのである。

2.清朝による中国内地以外の新領域支配の実相

それでは、ここからは清朝の「中国内地」以外の地域支配について確認していきたい。

1)中国内地以外の新領域の支配状況

大清帝国

清の支配する漢人の「中国内地」以外の地域支配の在り方、枠組みは以下のように各地の実情に合わせて木目細かく設定されていた。
・「旗地」:八旗の旗人に分配された所領
・「盟旗」:モンゴルの王侯が軍事的な義務(定期的な狩猟訓練への供奉)⇒北京への参勤交代(年班)と引き替えに牧民と牧地への支配を認められたもの
・ダライラマ政権とそれに寄進された土地
・「ラマ旗」:チベット仏教寺院領が独立の旗となったもの
・「土司」「千戸長」「百戸長」:チベット高原東部等の各地の部族の長を西南の非漢人地域同様に認知し、小規模な地域支配が認められたもの
・クムル、トルファン:ジュンガル駆逐において清に協力したトルコ系ムスリム王の領地
・新疆のオアシス:イリ将軍の軍事支配の下で各地のトルコ系ムスリム有力者をハーキーム・ベグに任命

上記のエリアと皇帝との関係は、科挙官僚ではなく八旗の軍人を多用して維持されており、明らかに中国内地の漢人地域とは異なる統治が遂行されていた。(8)

2)大一統の原則と礼部、藩部の統治論理

朝貢
ここに取り上げた内容は、これまで中華大一統の原則として取り上げてきている金観濤の「大一統四原則」(9)を大きく逸脱していて興 味深い。また清朝がこのような多種多様な地域をまとめ上げ、拡大版「大一統」を安定的に実現してきた論理について確認しておく必要があるだろう。
また朝鮮や琉球などの朝貢国一般が「礼部」に管轄され儒家正統的な「礼」が、清と朝貢国を結合する原則となっていたが、新領土に関しては「理藩院」の管轄であり「藩部」と総称されており、その関係の基本にはチベット仏教やイスラムの教えを皇帝が保護するという認識が色濃く打ち出され、儀礼や文書に反映された。またロシアやネパールとの関係も朝貢国を取り扱う「礼部」ではなく「理藩院」が管轄していた。(10)

3)清朝の対外関係の論理

理藩院
このように清朝は、国内統治のみならず、対外関係に関しても儒家正統をベースとする「中華」文明の強い影響下の地域とそれ以外の地域で区別していたことがわかる。清朝は国内における「大一統」の維持に関しだけでなく、対外関係においても単なる「中華」の延長線上にはとどまらない「別の顔を持った帝国」としての幅の広さを示していたと言えよう。
このように「礼部」が管轄する「儒家正統・漢字文化・科挙官僚・朝貢国」の伝統中華文明エリアと「理藩院」が管轄する「チベット仏教・イスラム・八旗軍人・現地独自支配の尊重」の新領土エリアが、いわゆる「東南の弦月」「北西の弦月」として清の皇帝の権威と威令の下で異なる統治原理で服属し(11)、長期にわたり安定した清による平和を享受した源泉となった。

3.清朝皇帝の視点から捉える最大版図を実現した中華帝国の実像

1)中華帝国の拡大により鼎立する支配地域の状況

新疆モスク

このような状況を観れば、支配する領域の各地に対して最適な支配機構を誂えることに心を砕いた清朝皇帝が、「儒家正統・漢字文化・科挙官僚」をベースとする中華文明エリア=中国内地のみを清朝の中枢的なエリアとは認識していなかった、と想定出来るのではなかろうか。中華文明エリア=中国内地も藩部としての新領土エリアも等しく清朝皇帝の支配体制の下にあり、「チベット仏教」「イスラム」「儒家正統」というそれぞれの「神道」を以て教を設ける」対象として、それぞれ「モンゴル・チベットエリア」「新疆エリア」「中華文明エリア=中国内地」が存在したというのが、清朝皇帝から観た実像に近かったのではなかろうか。

2)清朝皇帝にとっての軍機処の存在意義


雍正帝の創設した軍機処は、「礼部」と「理藩院」の両者を有機的に結合し、縦割りを排して、清朝全体を見渡しつつ「迅速かつ効果的」な統治を実現するために必要不可欠な役割を担うこととなった。(12)
ここまで観てくると既に明らかなように清朝皇帝にとっての「神道」とは、「チベット仏教」「イスラム教」だけでなく「儒家正統」といえども、その中にスッポリと収まるような膨大な器の容器であったことが観えてくる。
清朝皇帝はこのように「神道を以って、教を設け」つつ、自らは超然と「軍機処」という、清朝内のあらゆる「神道」を超越する最高意思決定機関を通して全てを支配しようとしていた、と言うことになろう。
そのように考えれば、現代の中国共産党中央政治局常務委員会と清朝における軍機処の位置づけの類似性が一層浮かび上がってくる、と言えるだろう。

尚、本稿とも関連する清朝の中華帝国統治方針に関しては、以下のリンクでも取り扱っております。
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服は戦略的な帝国統治政策のモデルケースである!
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆侵略による永続的な中華帝国最大版図拡大実現の背景!

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p150
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p150-p151
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(4)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p153
(7)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p154
(8)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p156
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(10)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p157
(11)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p157
(12)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p158

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

カーバ神殿

トランプ大統領が初の外遊先に選び、その解決に意欲を燃やす中東問題の本質を、イスラムにより構築された世界秩序を中心に、それ以前の中東文明の特徴も視野に入れて詳細に分析、検討する。

1.中東文明の特徴
1)中東、中国、インドの古代文明の比較
2)古代以来の中東文明の特徴
3)大変動の連続により忘れ去られた古代文明の遺産
2.中東における古代文明抹殺の要因
1)ヨーロッパにおける古代文明の継承
2)中東における古代文明の位置づけ
3)新たに成立したイスラムへの確信と信念
3.ムスリムが認識する世界の状況
1)イスラムとは何か
2)「イスラムの家」と「戦争の家」の区別
4.イスラムにとっての世界認識
1)東部、南部地域の異教徒への認識
2)西方地域の異教徒=キリスト教徒への認識

1.中東文明の特徴

ハムラビ法典

イスラムについて言及する前に、まずは中東文明の特徴について観ておきたい。

1)中東、中国、インドの古代文明の比較

中東は、元来世界で最も古い古代文明発祥地の一つであったが、同様に古代より文明の中心地となってきた中国やインドに比較すると「多様性」「不連続性」と言う二つの特徴が存在する地域でもあった。
他方で中国文明は、初期から今日に至るまで一貫して「同じ言語」「同じ文字」「同じ宗教・哲学」を奉じてきた。これは夷狄に対する「中華文明」として認識されてきており、今日の中華人民共和国に至るまで自己認識の連続性が存在し、天下思想が裏返ったような形での中華民族にもつながる中国文明を共有してきた。
またインドについても「ヒンドゥー教」「ナーガリー文字」「サンスクリット語」の古典や経典などはインド文明を貫く支配的な要素であり、インド人の間では古代から現在に至るまで一貫する本質的なものと認識されている。(1)
中国もインドもこのように古代以来一貫してその文明の中核となる古典文化の精髄を継承発展させてきたことは事実であり、歴史的な変遷の中でも、このような中核的要素が完全に拡散したり消滅したりするような事態は発生しなかった。

2)古代以来の中東文明の特徴

ラクダ,隊商

しかるに古代以来の中東には、そのような一貫性はなく。古代から現代までの連続性も無かった。古代においても中東の文明は多様性に富んでおり、「漢字」や「ナーガリー文字」、「儒教哲学」や「ヒンドゥー教信仰」のような共通の結合要素は無かった。また初期のこのような違い以上に、古代中東では不連続性と言う特徴が指摘出来る。
中国やインドでは古代以来の学問の記録が現在に至るまで大切にされ研究されてきているが、中東においては古代文明の遺産は紛失したり忘れられたり、葬り去られてきた。中東の諸言語は死語となり、原典に残された文字は誰も読めなくなった。古代に信仰された神々も一部の研究者しか把握していない状況にある。さらに言えば、中国やインドに匹敵するその文明エリアを示す具体的な集合名詞すら存在しない。「中東」とは具体性の無い方位や方角を現わす言葉に過ぎないのである。(2)
確かにメソポタミア文明、チグリス・ユーフラテス文明、ハンムラビ法典を産んだバビロニア文明などについても今日まで連綿と受け継がれてきたものは無いに等しいのが実情であろう。かのハンムラビ法典にしても同地でその内容が語り継がれてきたわけでもなかった。

3)大変動の連続により忘れ去られた古代文明の遺産

古代文明

このような中国、インドと中東の相違の原因は何かと言えば、中東には一連の社会的大変動の波が何度も押し寄せたのが原因と言える。すなわち主として4つの大変動がこの地域に津波にように押し寄せたのであった。それらはギリシア化、ローマ化、キリスト教化、イスラム化の4つであり、このような大変動が進行する間に古代中東の文字文化は大半が消し去られてしまった。当然ながら最後の波であるイスラム化の影響は最も大きく、7世紀以来この地域の大勢を特徴づけることとなった。古代エジプト語、アッシリア語、バビロニア語、ヒッタイト語、古代ペルシア語その他の言語は捨て去られ、東洋学者達の手で解読されるまでは、現地でも全く忘れ去られていた。このようなわけで中東地域の集団的な自意識の中で古代文明と自分達との関連に関する自覚は、中華文明やインド文明に対するそれぞれの文明圏の人々の感覚に較べて、著しく希薄である。(3)

2.中東における古代文明抹殺の要因

マホメット

それではなぜそのようなことが起きたのか、中国でもインドでも強大な武力を持つ他文化の他民族による支配に服するような事態は発生したにもかかわらず、中東のように古代文明が抹殺されることが無かったのはなぜか。ここでは、中国・インドでは無くヨーロッパを比較対象として検討してみよう。

1)ヨーロッパにおける古代文明の継承

ヨーロッパにおいては、古代文明圏としてローマ帝国が存在した。その西ローマ帝国を壊滅させたゲルマン民族たちは、自らの統治体制において、少なくともローマ帝国の形態や組織の維持に大きな努力を傾注した。彼らはローマ帝国の宗教であるキリスト教を取り入れ、その言語であるラテン語の使用を目指し、自分達の習慣をローマ帝国政府と法律の枠組みに合わせようと努めた。
こうしてゲルマン民族は、自分たちがローマ帝国の正統性を継承する存在であることを証明しようとしたのであった。(4)
このように「夷狄」が「中華」に憧れ、自分達の支配の正統性の根拠を支配された側の高度な文明の継承者であると証明することに求めるというような現象は、何も「中華文明」エリアだけでなく、ローマ帝国の遺領においても発生していたわけである。これに対して、中東では何が起こったのか。

2)中東における古代文明の位置づけ

コーラン

中東や北アフリカのキリスト教徒ローマ帝国の領土の大半を征服したムスリム・アラブ人は、古代ローマ文明を尊重したり、支配正統性をローマ帝国の継承に依存するようなことは一切無かった。
彼らは自分たちの宗教であるイスラム、自分たちの言語であるアラビア語、自分たちの聖典である「コーラン」を持ちこみ、独自の帝国をつ
くりあげた。イスラム支配の到来は、新しい社会、新しい政治組織の始まりを示し、イスラムはその主体意識の基盤であり、正統性と権威の源であった。

3)新たに成立したイスラムへの確信と信念

カーバ神殿

この新たに樹立されたイスラム社会では、アラビア語がヘレニズム社会のギリシア語、ヨーロッパのラテン語、インドにおけるサンスクリット語、中国における漢字と同じような役割を果たした。(5)
他者あるいは他文明支配の正統性の根拠が、多分に独りよがりの感はあるものの、確信と信念を持ってイスラムが正統であると言いきれる存在がムスリムであった。このようなムスリム・アラブ人にとっては、自分達の持ちこむイスラムの信仰、アラビア語、コーランが絶対的な存在で、元々現地に存在した文明は「過去の遺物として公然とは認められず、正統性も与えられなかった」(6)のである。
このようなムスリムたちにとって、世界のありようはどのように受け止められていたのであろうか。

3.ムスリムが認識する世界の状況

ウィーン包囲

1)イスラムとは何か

イスラムとは、預言者ムハンマドによって伝えられた唯一神アッラーの教えに「帰依」することを意味し、その教えを受け入れた者を「ムスリム(帰依者)」と呼ぶ。ムスリムにとって、人の住む世界は「イスラムの家」と「戦争の家」に二分される。このうち「イスラムの家」とはムスリムの支配下に入り、イスラム法が十全に行われているような地域を意味する(7)
このようにイスラム世界は、預言者ムハンマドがアッラーの教えを伝えたことに由来する「イスラム教」という宗教をベースに成り立ってお
り、その社会や文化・風俗への浸透の度合いも中華帝国における儒教に匹敵するものであったと言えよう。

2)「イスラムの家」と「戦争の家」の区別

イスラムの家

「イスラムの家」に対する「戦争の家」は、ムスリムの支配下に入らず異教徒の支配下にあって、イスラム法の行われていない地域を意味する。従って「戦争の家」は多種多様な異教徒や共同体がせめぎ合う世界であった。これに対して、「イスラムの家」は実態はともかく、理念上は唯一の指導者のもとにある統一体と考えられムスリム諸国家が並存する状況は想定されていなかった。(8)
「戦争の家」に関しては、実態通りであろうが、「イスラムの家」については、アッバース朝成立当時の後ウマイヤ朝の成立や10世紀のア
ッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝の三人のカリフの鼎立状況の発生などにより形骸化していった。これらの政治体は通常「ダウラ」と呼ばれ、本来の統一体としての姿を失った「イスラムの家」における「ダウラ」の支配の正統性を理論的に根拠づける試みも行われ た。
これは「普遍的なイスラム法の秩序を、それぞれの地域で守り実行する」(9)と言う点に求められた。
イスラム的世界秩序観は、「イスラムの家」が「戦争の家」を次第に包摂していき、全世界が「イスラムの家」となることが予定される世界
観であり、そのための手段としてはムスリムの不断の努力としての「ジハード」が要請されていた。この「ジハード」はあらゆる手段が考えられるが、主として軍事的な「聖戦」がベースとされた。(10)

4.イスラムにとっての世界認識

モンゴル,イスラム

1)東部、南部地域の異教徒への認識

歴史・地理関連文書に反映されているイスラム国境以遠の諸地域に対する認識の仕方は、場所によって明確な違いがあった。イスラム世界の東部と南部にはムスリムにとって、学ぶべきものをたくさん持っている文明人も野蛮人もいたが、イスラムの信仰に関しては真剣に立ち向かってくる相手はおらず、イスラム世界にとってのゆゆしきライバルはいなかった。異教徒は比較的素直でイスラム世界へ引き入れやすく、実際にそういう道を選んだ人が多かった。中国やインドは一度もイスラム世界に挑戦することも無く、脅威にもならなかった。モンゴル族は大きな影響を与えたが、やがて自身がイスラムに改宗しイスラム世界の拡大に貢献した。(11)
確かに中国もインドも進んでイスラム世界に侵入したことは無かった。清朝最大版図を形成した乾隆帝も既述の通り、東トルキスタンを征服しながら、西トルキスタンには決して侵攻しようとはしなかったということもある。両文明圏ともに、異なる文明圏にまで手を広げることには慎重であったということであろうか。

2)西方地域の異教徒=キリスト教徒への認識

十字軍

ところが西方とりわけイスラム世界の北西国境に位置するギリシアやローマなどのヨーロッパ・キリスト教国では状況が違い、ここではムスリムもライバル達が、自分たちと同じように神の最終的啓示の保持者であり、その信仰を全人類に広める義務があるという使命感を抱いた世界的宗教の信者であると言うことをはっきり認めていた。こうしたことからムスリムにとっては、異教徒と言えばキリスト教徒を意味するようになり、「戦いの家」と言えばキリスト教徒ヨーロッパを指すようになっていった。(12)

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国のようなイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

参考文献
(1)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p345-p346
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p346
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p346-p347
(4)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p347
(5)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p347-p348
(6)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p348
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p27
(10)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(11)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第14章西欧からの挑戦 p384-p385
(12)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第14章西欧からの挑戦 p385

トランプ大統領の不法移民流入制限の根拠は魏晋南北朝時代の中国の混乱が証明する!

移民排斥大統領令

トランプ大統領は移民制限を行い、移民の無秩序な流入が国家崩壊の根源的理由との立場を原理的に堅持して民主党と対立し、一時的な政府機関閉鎖もやむなしとの構えですが、中国の魏晋南北朝時代は、まさにトランプ大統領の警戒する大量移民流入による国家崩壊のモデルと言えるでしょう。

1.中華帝国大一統の必須四条件
2.魏晋南北朝時代の中国の混乱要因
1)「中華帝国大一統」のメカニズムを揺るがした第一の混乱要因
①トランプ大統領の警戒する移民大量流入と同様な西北少数民族の影響の拡大と漢族の人口減少
②トランプ大統領も強調する移民大量流入の弊害としての漢族の人口減少が誘発する混乱要素
2)「中華帝国大一統」のメカニズムを揺るがした第二の混乱要因
①魏晋南北朝時代の知識人に広まっていた消極性と仏教の伝来
②儒家正統の国家統治イデオロギーとしての地位喪失と仏教の影響力拡大
③外来文明の衝撃としての仏教とその受容過程

1.中華帝国大一統の必須四条件

伝国の璽

中華帝国の統治構造の研究者である金観濤によれば「中華帝国が大一統を維持」するためには、以下の四条件が必須である、との認識を示しています。(1)

①連絡の機能を担える強力な階層が社会に存在する
②この階層が統一的信仰を有し、かつ積極的な統一的国家学説を有する
③官僚により管理される郡県制が社会に行われている
④統一的な信仰を持った階層を用いて官僚機構が組織されている

しかるに、ここで取り上げる魏晋南北朝時代に関しては、上記の4条件はどれも崩壊しており、その帰結として「中華大一統」は解体し、塀に囲まれた荘園が林立し、身分的従属関係の強化が観られ、儒家が正統的地位を喪失して、仏教・玄学が流行するなど、他の王朝とは異なる中国史上における変則的な時代となってしまいました。(2)

基本的に理念的にも実際の天下の支配状況も「中華大一統」の実現を至上命題としてきた中国にとっては、このような魏晋南北朝時代の混乱は、まさに変則的例外的な時代であった、ということになるでしょう。
さらに、この時代の混乱要因を子細に検討していくと、トランプ大統領が政策の根幹の一つとして早速大統領令を発した「大量移民流入問題」が、浮かび上がってくるのです。すなわち大量移民流入問題への適切な対処が「中華帝国大一統」の維持にも死活的に重要であったとともに、アメリカの体制維持のためにも必要不可欠である、というのがトランプ大統領の主張ということになるでしょう。

そういう意味では、中国の魏晋南北朝時代の混乱と亡国の危機の状況は、トランプ大統領の移民政策にとって、まさに政策立案のためのモデルケース的な格好のサンプル事例を提供していると言えるかもしれないのです。

2.魏晋南北朝時代の中国の混乱要因

金観濤によれば、魏晋南北朝時代にさまざまな変則的現象が現れたのは、中華帝国が伝統的に安定した統治を続けるために維持してきた「宗法一体化構造」が様々な要因の撹乱を受けてその調節機能を失ったこと(3)に原因があると言います。
すなわち、魏晋南北朝時代の中国は、他の安定した時代に比べて様々な混乱要因が、ひと際拡大していたということです。それでは、魏晋南北朝時代の混乱要因とは、どのような現象を指していたのでしょうか。

1)「中華帝国大一統」のメカニズムを揺るがした第一の混乱要因

万里の長城

①トランプ大統領の警戒する移民大量流入と同様な西北少数民族の影響の拡大と漢族の人口減少

古来から中国に対しては、西北少数民族が大きな影響を与えてきたわけですが、何故魏晋南北朝時代に至って突如として大きな混乱要因になったのでしょうか。このあたりを分析すると、後漢王朝滅亡から三国時代を経て晉の崩壊に至る大動乱により、特に中原地域の人口が壊滅的に減少したことによる、と言えるでしょう。後漢時代の156年の人口が五千万人であったのが、263年段階になると537万人となり、ほぼ十分の一にまで減少してしまいました。(4)
中華領域におけるこれほどの人口減少が、どのような影響を社会に及ぼしたのかということですが、特に失われた人口の大半が、漢族を主体とする中核地域であった中原地帯であることを考えると、漢族の人口損耗の大きさが伺われます。
翻って後漢後期に中国に移住した少数民族は、合計870万人に達しており、後漢末期の人口5000万人に対する人口比は17%前後となりますが、西晋の人口は最も多い時で1600万人なので少数民族の人口比は54%以上に達していました。さらに南朝の漢族政権下においても事情はほぼ同様であり、例えば南朝の宋の464年の人口が5546万人余りに対して、蛮・俚・僚といった少数民族が約3000万人は居住していたということであり、少数民族の人口比は50%を超えていたことになります。(5)

現時点のアメリカの人口構成では、白人が70%強程度で黒人が12%程度となっていますが、近年メキシコからいわゆるヒスパニックの流入が続いており、今後のトランプ大統領の移民制限の厳格化の究極的な標的になっている、と想定されます。
尚、人口構成に対する中東系移民の割合はまだまだ少ないですが、いきなりメキシコからのヒスパニックの移民制限に踏み出すのは影響が大き過ぎるということもあり、テロの印象が強くアメリカ国民の受け入れやすい中東のしかも数カ国に限定して当面制限を課したものと考えてよいでしょう。
それでも、原理的にアメリカが「移民を受け入れて強くなった自由で寛容な国」という信念を抱いている、リベラルな傾向のほぼ半数の市民からは猛反発を受けているという状況でしょうか。

ともかく、今後アメリカも人口構成比が、いろいろ変動してくるとかつて中華帝国が魏晋南北朝時代に辿ったような、混乱と激動に見舞われる可能性が否定出来ないでしょう。

②トランプ大統領も強調する移民大量流入の弊害としての漢族の人口減少が誘発する混乱要素

騎馬民族
このように移民の大量流入により、中国において漢族が人口比率の上で優位ではなくなってしまいました。ある意味では、漢族も人口的には「少数民族」の一構成要素に転落してしまっていたとも言えるでしょう。このような漢族の人口減少はどのような事態を惹起することになるのでしょうか。
こうした中国の中核地域である中原地帯における人口の減少により支配階級は、積極的に辺境の少数民族を内地に引き入れて労働力に充てるようになり、漢族と少数民族の人口比問題は一層少数民族側が多数になるように傾く傾向が継続することとなりました。さらにこれらの新規に流入してきた少数民族の大多数は、遅れた氏族部落制あるいは奴隷制の段階にあったため、中国に既に存在していた「中華大一統」の要件を構成する「宗法一体化構造」にとって巨大な衝撃をもたらす要因ともなりました。(6)

英語が使えるかどうかも怪しい安価な労働力として、アメリカ国内で手っ取り早く集めやすいヒスパニックが歓迎されるということはあるでしょう。一方でトランプ大統領は、メキシコに工場を建設し、安価なコストで製造した製品をアメリカに持ち込んで、儲けるというような行き方をやり玉にあげようとしているようです。まあともかくアメリカの隣国のメキシコは、これまではアメリカの懐深くに入り込んで、結構な儲けを確保していたでしょうが、トランプ政権発足後はかなり慌て始めているかもしれません。

「中華帝国大一統」の基礎となる漢族を主体として形成されてきた「宗法一体化構造」そのものが、少数民族の人口比率拡大により、その成立基盤を掘り崩され、成り立たなくなってしまった状態となりました。さらに民族構成にこのような巨大な変化が生じた以上、かなり長い歴史的過程を経ない限り、民族の融和を完成させて混乱要因を克服することはほとんど不可能となったのです。(7)

確かに、一旦アメリカにとって、その成立基盤を脅かすような価値観の異なる移民が大量に流入した場合、流石に移民で成り立った国であるアメリカも構造的な混乱要素を抱え込むことになり、立ち直るのに相当な時間を要することになるでしょう。
トランプ大統領の出現とそのヒスパニックや中東からのアメリカのそれまでの価値観と異なる移民を制限する政策は、魏晋南北朝時代の歴史の展開を子細に検討した範囲では、アメリカの将来にとって一種の救世主的な結果をもたらす可能性も否定出来ないのかもしれません。

2)「中華帝国大一統」のメカニズムを揺るがした第二の混乱要因

儒教

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①魏晋南北朝時代の知識人に広まっていた消極性と仏教の伝来

後漢の中・後期における知識人の政治生活は厳しく士官の道も拓けていませんでした。また学術界は、退屈で煩瑣な経学の考証が主流をなしており、儒学の信仰の危機の時代となっていました。このため魏晋南北朝時代の知識人は、儒学を批判して別に活路を求めるため、諸子百家を研究したり、原始儒家の経典を発掘しようとしたので、多くの沈滞消滅していた学派が息を吹き返しました。このような諸学派の研究が儒教独尊以来の行き詰まりを打開するとともに、経学は急速に衰退することとなりました。
こうした、経学の衰退・各派学説の活発化により小規模な百家争 鳴の到来ともなりましたが、その後は清談・玄学と道家が勃興し、イデオロギー構造の主流となっていきました。(8)

②儒家正統の国家統治イデオロギーとしての地位喪失と仏教の影響力拡大

中国仏教
こうして前漢武帝時代に董仲舒により大成され、国教化された儒家正統は、その地位から追い落とされ、中国は「中華帝国大一統」の重要要件である「統一した国家学説」を喪失し、漂流することを余儀なくされるに至りました。
さらに後漢後期に伝来した仏教が、中国のイデオロギーに巨大な影響を及ぼし始めることともなりました。仏教も伝来直後には、それほど大きな影響を与えていませんでしたが、その後魏晋時代の玄学の勃興により仏教的な思想も受け入れられる範囲が拡大していき、伝播のスピードも速まっていきました。仏教は、国家の混乱状態の中で人々が逃げ場所を求める中で、心の平安を提供する役割を果たしつつ広まっていき、玄学とともに宗法一体化構造の機能不全をもたらす重大な一因を為すに至りました。(9)
本来、宗法一体化構造とは、統一した国家学説を信仰する知識人に依拠して官僚機構を組織し、封建的礼制によって家庭と国家の等級秩序を維持することをベースに成り立っており、当時の状況としては知識人が儒家の信仰を持つことが前提となっていました。(10)
そうした中で、仏教や玄学が知識人に幅広く浸透し、儒家の思想が観向きもされないありさまになると言うことは、到底安定した一体化構造を構築することは困難な状況に陥っていたと言えるでしょう。

③外来文明の衝撃としての仏教とその受容過程

中国仏教2
仏教は「中国が初めて遭遇した強力なパワーを持つ外来文明の衝撃」(11)であり、中国文明はそれをそのまま鵜呑みにすることも、真っ向から否定することもせずに、時間をかけて消化する道を選び、「中国的特色ある仏教文化」が後に開花することとなりました。
このような行き方は、今日の「中国的特色ある社会主義」「中国的特色ある資本主義市場経済」「中国的特色ある国民国家」を志向する状況と一脈通じるものがあるのではないでしょうか。

現代に通じる魏晋南北朝期の中国の混乱要因と北魏による中華大一統再現策の効果の分析!

中華帝国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(2)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p168
(3)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p168
(4)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p168
(5)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p168
(6)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p169-p170
(7)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p169
(8)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p170
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p172
(10)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p172
(11)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第六章 撹乱、衝撃と準安定構造 p172

中華帝国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

中華世界を支配する王朝が、その支配正当性を調達し、中華世界を「帝国」として統治するための根拠となる論理としての「大一統」「天下思想」「儒家正統」について検討する!

1.「帝国としての中国」の基本類型としての「多重型」帝国と「多元型」帝国の検討
1)漢人支配者による「多重型」帝国の構造
2)異民族支配者による「多元型」帝国の構造
2.中華世界に成立した「中華王朝」の帝国性の検討
1)「中華王朝」の基本的性格
2)「帝国としての中国」成立のための条件
3)中国支配正統性の根拠
4)中国支配の正統性必須要件としての「大一統」
3.中華帝国統治のための基本的イデオロギー
1)董仲舒による中華統治のイデオロギーの体系化
2)「天下思想」における「政治秩序」の論理
3)「天下思想」と「民意」の反映としての農民大反乱の正当化
4)「天下」の範囲と「大一統」の実現
5)「天下思想」と「天命」による支配正統性の調達原理

1.「帝国としての中国」の基本類型としての「多重型」帝国と「多元型」帝国の検討

騎馬民族

歴史上における「中華帝国」は、その支配者の出自も踏まえて基本的に「多重型」と「多元型」の二つの類型に分類できると言えよう。

前者は発祥地が「漢人地域=中華」であり、主として「一元的天下」「三重的構造」「周辺の四夷」と言う三つの要素を備える帝国構造を指し、後者は「周辺の四夷」エリアにおいて成立し、その後に中国に入る征服王朝で正統な中華王朝を志向しながらも純粋な民族的性格や民族の根拠地を重視する帝国構造を指す。(1)

この類型に従えば、例えば隋唐、宋、明などは前者となり、遼、金、元、清などは後者となろう。考えてみれば中華世界を、漢族が完全に支配していた時期と言うのは、そんなに長いものでは無いとも言えそうである。10世紀からの1000年間でも宋は、北部地域を遼や金に支配されており、挙句の果てが元による中華世界全面支配に至った。その後、ようやく明が中華世界を全面的に漢族の天下を回復するが、それも1368年から1644年までの間だけで、その後は中華世界全体が清の全面的な支配を受けた。そのように考えると中華世界においては、総じて多元型の中華帝国が優勢だったと言えようか。

1)漢人支配者による「多重型」中華帝国の構造

万里の長城

漢人支配者によるいわゆる「多重型」の中華帝国構造においては、「中華」と「四夷」の関係は流動的であり、「中華」を第一地帯とすれば「四夷」は第二地帯、あるいは第三地帯となる。第二地帯と第三地帯の相違は、第二地帯は中華に接しており中華帝国の主権の範囲内であるが、第三地帯は「属国」として中華帝国が「宗主権」を持つエリアとなる。第一地帯は第二地帯が中華文明に漢化され変質することで拡大し、第二地帯も第三地帯の変質により拡大するという流動性を持つ。このように漢人支配者による中華帝国においては中華文明圏の拡大が、直接統治領域や主権領域の拡大につながっていく。(2)

このような多重型中華帝国構造における中華文明圏の拡大現象であるが、これにははっきりとした限界があったと言わざるを得ないだろう。すなわち、この領域は明の最大版図を限界として内陸部への拡大は困難であったと思われる。これは漢民族の居住領域とほぼ同一エリアであり、清朝においてはっきりした中国内地と藩部の領域・境界における中国内地エリアが、中華文明圏の限界だったと言えようか。

2)異民族支配者による「多元型」中華帝国の構造

異民族支配
異民族支配者によるいわゆる「多元型」の中華帝国構造においては、帝国の主権領域が「中華」と「支配民族エリア」という二つの地域からなるが、帝国の主権・宗主権を持つ「支配民族」が「中華」を包囲する形で「四夷」を形成する格好となる。この場合にも「中華」の漢人の「中華意識」は消えることがなく、「異民族支配者」側も「中華」文明をそのまま優越的存在として受け入れることは無い。基本的に「多元型」中華帝国においては「異民族支配者」は人口的には圧倒的に少数の集団であり、元における「モンゴル・色目・漢人・南人」、あるいは清における「満・蒙・旗・漢」と言うような民族的身分制度を採用し「異民族支配者」以外の他民族の力も借りて「中華」支配を実施した。「多元型」中華帝国においては、このような支配構造を継続する中で帝国における「中華」の重要性の再認識や政治的重心の中華への移行が不断に継続され、異民族支配者そのものの性格が徐々に「中華」化していくような傾向が底流に常に存在した。(3)

このような多元型中華帝国においては、その領域は中華文明圏を超えた広がりを観せることが多く、特に清においては乾隆帝時代に最大版図を形成するに至った。多元型中華帝国においては、中国内地と異民族領域の統治をどのように両立させるかが課題であり、この状況は帝国的構造を内包する現代の中華人民共和国にも引き継がれてきていると言えよう。

2.中華世界に成立した「中華王朝」の帝国性の検討

ここで中国に成立した「中華王朝」の帝国性について再検討してみたい。
中華皇帝

1)「中華王朝」の基本的性格

中華王朝については、「中華世界」の地域全体か、その一部を支配して都城を築き中央集権的に皇帝が支配する政治体制の下で、「儒家正統と漢字文化」を基調に統治する王朝であり、いわゆる「中原」を「中華文明」に基づき支配する「王朝国家」と言えよう。(4)

このような中華王朝国家は歴史上に数多く存在した。五胡十六国の各国も五代十国の各国も、このような条件に当てはまる国家であったと言えよう。しかし、本ブログのテーマである「中華帝国」としての有りよう備えるかどうかとなると条件が異なってくる。単なる「王朝国家」と「帝国」としての実体を兼ね備えた国家とは別次元の存在であった。すなわち「中華王朝」が全て「帝国」としての実体を備えていたかと
いうと、そうとは言い切れない。

2)「帝国としての中国」成立のための条件

伝国の璽

「中華」あるいは「中国」として自らを認識出来るためには、中央の「中華」と周辺の「非中華=四夷」が「王朝国家の内部」に存在することが必要であり、そのような「四夷」をも取り込む「大一統」を実現した国家のみが「帝国」としての実体を備えていたのであり、「中華文明=漢人エリア」だけでなく「四夷=非漢人エリア」も天子の威令で従わせることが「大一統=中華帝国」成立の要件であった。(5)

このように本ブログ全体の主題でもある「中華帝国」成立の基準は、王朝が「中華」だけでなく周辺「四夷」を支配下や勢力範囲に取り入れているかどうかということであり、周辺の「四夷」を支配下や勢力範囲に取り入れた「大一統の状態にあること」こそが「帝国としての中国」の本質である。これは現代の中華人民共和国にもそのまま引き継がれており、沿海部から中原地域を中心とする漢族地域のみならずチベット、モンゴル、新疆エリアを完璧に掌握してこその「大一統」であり、「大一統」の成立の可否は支配正統性にも直結する最重要課題となるだろう。
こうしてみると、外モンゴルを喪失した蒋介石率いる中華民国が中華世界の支配正当性を「喪失」し、中華世界から退場することになったことも説明出来るかもしれない。

3)中国支配の正統性根拠

南宋文化

基本的に歴代の中華王朝は、「大一統=中華帝国」を目指し、かつ人々からもそのように期待される存在であったが、一方で「偏安」(一地方に割拠して統治)に甘んじる王朝は、「大一統」に反する無能な王朝として非難されるだけでなく、政権や支配層の正統性が追及されることとなった。例えば三国時代の呉は中華王朝としての正統性が問われており、「偏安」の典型である「南宋」はモンゴルに滅ぼされ中華を失うことで皇帝の天子としての「正統性」が問題視されている。(6)

このようなわけで、史上の中華王朝は「正統」性を証明するために「大一統」を志向し、「中華帝国」の実体を追い求めてきたと言えよう。およそ「中華世界」において政権を確固として維持していくためには、「王朝」として成立しているだけではダメで、「中華帝国」としての実体を有している必要があったわけであり、それには「大一統」が必須要件だったということである。
このあたりの状況は、「中華世界は広すぎて統一はなかなか困難であるので適正な領域に分割して支配すべき」と言う一見効率的な統治体制かと思われた三国時代の「天下三分の計」が、その後二度と再び顧みられることがなかったことからも窺い知れよう。

4)中国支配の正統性必須要件としての「大一統」

康熙帝

「中華における支配の正統性」は、支配者の民族的出自で判定されるのではなく、「大一統」を実現することができれば、それは正統の「中華王朝」の要件を満たすと考えられた。このような正統性の問題を突き詰めて行くとそこには「中華」的な政治上の神話が浮かび上がってくる。すなわち「正統」の根源は「天」で、「天が一つ、天下が一つ、天子も一人」であり、天下のあらゆる民は、天が選んだ天の代弁者である天子に従うべきだ、と言う考え方である。(7)

3.中華帝国統治のための基本的イデオロギー

董仲舒

1)董仲舒による中華統治のイデオロギーの体系化

漢の儒者の董仲舒は、「儒家正統」の「儒教」化、神学化に貢献したが、その中で彼は「天人合一論」「天人感応論」を打ち出し、儒学の諸学から離れた「独尊」的な立場を確固たるものとした。また董仲舒は、「天子は天から受命し、天下は天子から受命する」「天地・陰陽・四時・日月・星辰・山川・人倫を通じ、徳が天と地に達す者は、皇帝と称す。天は其れを子息と見做して守り、天子とたたえる」との見解を披歴し、「天人三策」において、「一統は、天地の常、古今の道」と述べて、漢の武帝に「中華帝国」の理念として提言した。

このように「儒家正統」は、董仲舒により、「中華帝国」の存立に不可欠な理論的基盤を提供し、周代から継続してきた「天下思想」が、中華帝国の統治イデオロギーとして体系化された。(8)
こうして、董仲舒によって「大一統」「儒家正統」「天下思想」が一体化し、「中華帝国」の統治イデオロギーとして理論化、体系化され、清朝崩壊まで一貫して継続されてきたと言えよう。現代の中華人民共和国においても「儒家正統」の指導イデオロギーの地位はマルクス主義や毛沢東思想等に変化してきてはいるもののベースとなる「大一統」の方向性や「天下思想」の在り方が、大きな変化を受けていないのではなかろうか。

2)「天下思想」における「政治秩序」の論理

天下思想

「天」を最高権威とする「天下思想」において政治の秩序は、「天」「天下」「天子」「民」の四者の関係で構成されるもので、その関係 性は「支配者が天から天命をうけて天子になり、天子が「徳冶を実施して民が服従し、「華」と「夷」が服従して「大一統」としての天下が成立する」というものであり、循環的に「天下」が成立することで天の意志が実現される」とされた。このような四者の関係において、「天下」の最高権威は「天」であり、地上の支配者である皇帝は「天」から「天命」をうけてはじめて「天子」としてみとめられるのであり、「天」は民とは直接関係せず「天命」を与えた「天子」あるいはその治める「天下」を仲介とするとされた。すなわち地上の支配者たる皇帝も「天子」として「天」の意志に従って行動することが求められ、「天命」を見失えばその地位が失墜するような存在であった。そういう意味では、この四者の関係は、「天命」と「天子」の支配の正統性を巡って緊張感を孕んだ微妙なものであったともいえよう。(9)

3)「天下思想」と「民意」の反映としての農民大反乱の正当化

黄巾の乱

この論理については、単なる机上の空論とは言えないであろう。清朝以前のあらゆる王朝は大規模な農民反乱を鎮圧しきれずに崩壊しているのであり、これは日本のような「万世一系」というかなり特殊な国体を維持してきた状況から見れば変化に富み、民意を反映するシステムであったと言えるかもしれない。このような支配の正統性を巡る構造は、現代の民主主義とは異なり、選挙の時期や議員の任期が決められたものとは言えないが、民意の最低限の保証を担保し、暴虐で非人間的な政治を牽制するような役割を果たしていたのではないかと推測される。人民は本当に耐えがたくなれば、少なくとも300年以内にあらゆる王朝を倒すだけの力は確保していたと言えるのであろう。

4)「天下」の範囲と「大一統」の実現

天子

このような「天下思想」の在り方を俯瞰すると、「天命」をうけた「天子」の徳冶の対象は、中華の民に限られるのではなく「四夷」の民も当然ながら徳冶の対象として予定されているのであり、「中華帝国」の有りようとしては、「大一統」により「四夷」も取り込むべく領域拡大に精励することが「天子」の本分として期待されていたとも解釈できよう。またそのような「大一統」を実現し維持しているという、そのこと自体が、「徳冶」の証左であり、「天子」たる皇帝が「天命」をうけて天に支持された正統な存在であることを天下に明らかにする絶好の機会でもあった。
このようなわけで、歴代の中華王朝は、その「大一統」の「中華帝国」的性格が色濃く強力な支配体制を確立しているほど安定していると言えるのであり、本論文でも取り扱う「清の極盛期」はそういう意味でも典型的な時代と認識している。

5)「天下思想」と「天命」による支配正統性の調達原理

永楽帝

このような「天」「天子」「天下」「民」と言う四者関係において、「民の側が天命をうけた正統な天子に支配されることに納得し、民の側から聖天子と称え得るような状態」が現出していれば支配の正統性は何重にも担保されることになるであろう。「天下思想」は歴代中華王朝にそのような機会を提供し、「大一統」の天下を上手く「演出」あるいは「実現」できた王朝にはその実力の何倍もの恩恵をもたらすとともに、天命を失った王朝の存在を否定し歴史から退場させる論理を供給し続けて来たとも言えよう。

尚、中華王朝の交替をめぐる宿命論的な循環については次項の課題とする。

現代に通じる魏晋南北朝期の中国の混乱要因と北魏による中華大一統再現策の効果の分析!

トランプ大統領の不法移民流入制限の根拠は魏晋南北朝時代の中国の混乱が証明する!

継続課題
「天・天下」と「帝国」の関係性の論究。「統治の正統性」の根拠の検討。

参考文献
(1)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p200
(2)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p201
(3)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p202
(4)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p203
(5)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p203-p204
(6)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p205
(7)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p206
(8)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p207
(9)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章 「帝国」と「民族」 p207-p208