中外一体

移民難民流入による混乱阻止の成功事例を提供する大義覚迷録で雍正帝が表明した異民族統治政策!

トランプ大統領の移民政策は、アメリカの国論を分断し混乱を助長しつつも、アメリカファーストの理念に照らせばテロや犯罪の増大・治安悪化の脅威の前では市民の安全安心のために必要不可欠と想定されますが、そのモデルは大義覚迷録で雍正帝が表明した中華帝国としての国家像や実態としての清朝の異民族支配状況及び現代に至る拡大された中華領域大一統の貫徹にも直結する共通性が感じられます。

1.清朝極盛期の皇帝による平和の理想の実現
1)清朝皇帝による華夷一家と中外一体の実現
2)辛亥革命以降の中華エリア統治原理と大義覚迷録の連関性
3)「大義覚迷録」の思想の本質と清朝皇帝による平和の実相
2.華夷一家を実現した清朝最大版図統治の複雑性と今日性
1)「華夷一家」の実現から「華夷融合」に至る道筋の険しさ
2)「中華帝国大一統の原理」の適用領域を超える清朝最大版図を支配するための原理

1.清朝極盛期の皇帝による平和の理想の実現

1)清朝皇帝による華夷一家と中外一体の実現

順治帝

清朝極盛期に実現した拡大した中華天下の状況は「中外一体」とも表現された。それでは、「中外一体」とは、どのような意味であろうか。雍正帝の政治思想である「華 夷一家」との関係はどのようになるのだろうか。
「中外一体」という表現は、もともと「中国」であったか「外国」であったかを問わず、いまや皇帝の実力と公正な支配に服して平和を享受する人々はすべて臣民で平等であり、一君万民であることを強調するために唱えられたと考えられる。(1)
雍正帝は、漢民族のエリートに向けて自らの思想を説明する場合も、満州人自身は夷狄であることを否定せず、満州人は漢人から観て「外人」「外国人」であることも認めていた。とはいえ、文化的な出自と人間性や実力との間にはあまり関連性はなく、「華」が儒学や漢字を産み出したからと言って、「華」が「外国」に優越しているという発想自体には特に何の実証的な根拠もないことは、「外国人」たる満州人が「華」を支配し、中国の領土を拡大し、極盛期を現出していることで明らかであった。一人の皇帝のもとで平和を享受する人々を出自の違いで差別する理由も必要も無いというのが、雍正帝の考え方であった。(2)
歴史的にも元は確かに清と同様に「夷狄」が「中華」を支配したが、雍正帝の言うように親が赤子を育てるように丁寧な政治を漢人に対して行ったかというと、大きな相違があったと言えるだろう。元は、西域の色目人を重用し、同じ中国内地でも華北の金の領土の出身者は漢人、最後に服従した華中以南の南宋エリア出身者を南人あるいは蛮子として、法制上は最下級の人民として扱った、ということもある。(3)

2)辛亥革命以降の中華エリア統治原理と大義覚迷録の連関性

明領域

翻って考えてみれば、現在の中華人民共和国の領土が、外モンゴル以外は実質的に清朝の極盛期の版図を引き継いでいるわけであり、この「華夷一家」たる「大義覚迷録」の思想の延長線上に近現代の中国が存在しているとも言えるであろう。(4)
もし近現代の中国がいわゆる「華」にあくまでも拘ったとすれば、その領域的な広がりの限界は、「儒学と漢字をベースとする漢人エリア」にとどまり、せいぜいが満州を除く明朝版図=中国内地を統治するのみであったのではなかろうか。
そういう意味では、雍正帝は清末から辛亥革命以降の「中華民族」概念や「国民国家」中国の概念を先取りしていたのかもしれない。
清朝極盛期の漢人士大夫層が、そのような概念に思い至るのが困難であったのは想像に難くないが、その後も梁啓超の議論が出てくるまでは、有効な「中華の大一統の具体的な理念」が漢人士大夫側から提出されることは無かったと言えよう。(5)

3)「大義覚迷録」の思想の本質と清朝皇帝による平和の実相

清朝皇帝

ここで漢人士大夫層の「華夷思想」に対抗する「大義覚迷録」の政治思想を支える実質的な「清朝皇帝による平和」と「清朝の成功」とは何かを具体的に明らかにしておきたい。

①清朝の支配者である満州人の側に武勇と実力が備わっており、かつ華美や贅沢から離れて質素倹約に努め、政治と軍事の主導権を維持するに相応しい、徳のある存在であり続けること
②反満思想や民族差別が存在しない「真の平等の楽園」が本当に実現していると思われるような状況が現実に存在していること
③清の皇帝のもとで「儒学、漢字を中心とする華」だけでなく、チベット仏教やイスラムなどの宗教的・文化的存在が保護されるとともに、それぞれの存在が独自の有りようを維持し続けることが可能であること(6)

少なくとも、これらの「大義覚迷録」の精神を支える条件は、雍正帝から乾隆帝にかけての清朝極盛期にはかなりの程度満たされており、清朝皇帝が「中外一体」の史上空前の版図を「華夷一家」の精神で安定して支配する基盤を提供し続けたと言えよう。

2.華夷一家を実現した清朝最大版図統治の複雑性と今日性

1)「華夷一家」の実現から「華夷融合」に至る道筋の険しさ

万里の長城

それでは、「華夷一家」として同じ清朝という新たな枠組みを作りだした「中外一体の体現者としての大清帝国」において、「華夷一家」の先に「華夷融合」のようなことは図られたのであろうか?
漢人による民族差別の源流には、「華」の儒学・漢字の文化が「夷」に圧倒的に勝っているという信念があった。このような民族差別を止揚するためには「華」と「夷」は一家として、同じ「清朝」に暮らすといえども、「夷」としての満州人やモンゴル人は、それぞれの固有の 宗教・文化を維持し続けることが必須との認識が雍正帝や乾隆帝には強かった。(7)
このような清朝皇帝の基本方針に基づいてどのような政策が採用されたかと言えば、「清朝による平和」のおかげで軍事的意味を失った万里長城を「華」と「夷」を分け隔てる文化的な境界線として再利用するということであった。
別記するようにモンゴル騎馬軍団の軍事力を帝国安定の基盤と考えていた清朝皇帝達は、モンゴル人が「華」に染まって文弱化し、モンゴルの文化や宗教の保護者として大ハンに推戴されて成立した大清国の基盤が揺らぐことを看過出来るわけもなかった。
こうして万里長城に軍事的に頼り切っていた明とは違った意味で、「中外一体」「華夷一家」を実現した清朝皇帝も万里長城に頼って「中」と「外」、「華」と「夷」の関係の固定化をはかる必要に迫られてしまったのである。(8)

2)「中華帝国大一統の原理」の適用領域を超える清朝最大版図を支配するための原理

歴代長城

このように考えてくると金観濤の定式化した「大一統の原理」は、あくまでも明及びそれ以前の「儒学・漢字・漢人を基盤にした儒教文化圏たる中華世界」エリア=中国内地を対象としており、清朝が新たに中華帝国の版図に付け加えた「夷」の世界たる「藩部」は別の論理で統治されざるを得ないということにもなろうか。そしてこれは今日の中華人民共和国では、「省」と「自治区」の違いとして現れ、特にチベットや新疆においては民族問題を内包していると言えよう。
すなわち「中華帝国」は、「清の極盛期」において「儒教と漢字をベースにする漢人エリア=中国内地」と言う枠組みを超えて、一方に漢人の中華文明エリア=中国内地を中核として保ちつつ、「清の皇帝の庇護の下で、その支配さえ受け入れれば、特定の文化的価値を押し付けることはなく、既存の文化や社会の安定は全力で保証する」、という方向性を見出して、中国領土の拡大とその安定的な統治を長期的な視野と規模で実現したと言えるだろう。
ただし、これは「大清帝国極盛期の歴史的枠組みの中での安定と平和」を実現したものであるが、この論理が現在の「帝国としての中国」の論理に直結しているか否か、また近代における危機の中で「帝国としての中国」が分裂と崩壊を免れた真因となったのかどうかについては、別項にて十分な検討が必要である。

尚、大義覚迷録で雍正帝が示した寛容で世界帝国に相応しい異民族統治方針については、以下のリンクでも詳しく取り上げています。
大義覚迷録で雍正帝が強調した中外一体,華夷一家はトランプ大統領の非寛容な移民政策と正反対である!

参考文献
(1)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997 中国皇帝と天皇 p118
(2)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立p224
(3)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第二章 民族統合・建国から大清国の成立 p104
(4)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第二章 民族統合・建国から大清国の成立 p224
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p172
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p172
(7)宮崎市定:世界の歴史6 宋と元 中央公論社 1975 元王朝の興亡 p400
(8)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p174

異民族の平和的な永続支配原理を提供する雍正帝の大義覚迷録の中核概念としての中外一体,華夷一家,大一統の検討!

大義覚迷録

アメリカ市民のための適切な国境管理とルールに従わない不法な侵入者への対策、無差別なテロの脅威への積極的な対処などを基調とするトランプ大統領の移民政策は、大義覚迷録で雍正帝が論証した中外一体や華夷一家、大一統を中心とする清朝の異民族支配体制や中華帝国正統支配者としての統治原理をモデルとする。

1.清朝の中華帝国支配者としての地位の正統性をめぐる課題
 1)華夷思想を止揚する論理の構築の必要性
 2)清朝における思想弾圧の限界
 3)雍正帝による教育を主体とした思想改造の試み
2.華夷思想に反駁する清朝の中華帝国支配正統性の論理としての「大義覚迷録」
 1)雍正帝による華夷思想への反駁の切り札=「大義覚迷録」
 2)「大義覚迷録」の体裁とその狙い
 3)「大義覚迷録」に観る華夷思想への反駁の論理
 4)清朝による最大版図実現の強調
 5)天命を請けた清朝皇帝のとるべき道

1.清朝の中華帝国支配者としての地位の正統性をめぐる課題

1)華夷思想を止揚する論理の構築の必要性

科挙試験

康熙帝から雍正帝にかけての時期に清帝国の独裁体制は完備されてきたが、政治思想においては、満州人が中華に対する外夷と漢人から称されれば、清朝皇帝の支配正統性は失われることになりかねない。漢族を中心とする「中華文明世界」の再興を標榜していた明朝の後継として中国内地の統一・支配を達成した清朝にとっては、この明朝期に強化された華夷思想(中華思想)は、とりわけ大きな政治思想上の重大問題となった。(1)
このように清は、その支配体制を確立し、支配領域の拡大に成功しながらも常に「中華帝国の支配者の地位の正統性」を巡っては、特に政治思想を牛耳っている漢人士大夫層との間に緊張関係を孕み続けていたと言えよう。清の支配が安定的に確立するためには、この漢人の「中華思想」をどのように止揚して新たな論理を構築するかが課題となっていた。

2)清朝における思想弾圧の限界

雍正帝22

清朝の支配者である満州人は、出身が漢人から観れば「外夷」であることは事実であり、この事実は清の武力がいかに強くても解決出来ない相談であった。また清朝がどれほど中華としての体制を整備しようとも、漢人の納得は得られないであろう。
「文字の獄」による思想弾圧の効果もあまり上がっているとは言えず、むしろ対象者は拡大する一方であり、力と恐怖による弾圧は継続し過ぎると逆に日常化と慣れにより効果が減少するばかりであった。
また「文字の獄」による連座的な弾圧は深い恨みを増幅するばかりで、国力が低下すれば弾圧そのものも難しくなる。(2)
このような武力による思想弾圧の効果の限界を見据えて、雍正帝はどのような手を打つことになるのであろうか。

3)雍正帝による教育を主体とした思想改造の試み

聖諭広訓

こうした情勢において雍正帝は、主として教育による思想改造を試みようとした。
中華世界の精神的柱となっている儒教は、思想改造の典型であり、その影響が政治・社会まで及んだ世界でも類のない例外的な存在である。宗教に限りなく近いほどの影響力を中国社会の隅々にまで及ぼす、この儒教の影響に類似するような思想を皇帝自ら展開して、上からの思想改造を貫徹することを雍正帝は目指すこととなった。(3)
時間はかかるが、永続的でより深い影響を社会全体に及ぼすべく教育という手段を雍正帝は選択したわけであるが、これは現代中国においても反日教育や愛国教育による体制維持補強策として採用されている施策と類似しているとも言えようか。
人民大衆への思想改造教育としては既に先帝康熙帝が、「聖諭広訓」を作成し、郷村で唱えさせ、中央から強制させる形で民衆の教化を推進していたが、その効果は今一つ上がっていなかった。そこで雍正帝は、民衆の上に居て大きな影響力を持つ読書人や文官などの士大夫層への教化を推進すべく、君臣の道や王朝の大道まで視野に入れた華夷思想を克服する論理を展開しようとした。華夷思想が何世紀にもわたって華から夷に対して突き付けられてきた民族主義的政治思想であるとすれば、夷の側から華に対して正攻法で理論的に反論する政治思想を展開しなければならない。(4)

2.華夷思想に反駁する清朝の中華帝国支配正統性の論理としての「大義覚迷録」

1)雍正帝による華夷思想への反駁の切り札=「大義覚迷録」

大義覚迷録
このような観点に立って、雍正帝は夷の側から華に対して清帝国の中華帝国支配正統性の論理を展開し、それまで「中華世界」で繰り返し説かれてきた華夷思想に反駁する政治思想を確立すべく著したのが「大義覚迷録」であった。
「大義覚迷録」の意味は、雍正帝の大いなる徳によって清朝の正統性に疑義を持つ不逞の輩の迷いを覚まさせる記録ということであり、これは雍正帝が開いた御前裁判の記録となっている。この「裁判」の被告は朱子学の流れを汲み、強い反清思想を唱え、今は亡き呂留良の思想に影響されて、実際に反清運動を展開していた曾静らであり、弁護士はなく、検事も裁判官も雍正帝自らが、その任にあたった。(5)
このような裁判記録は古今東西でも異例であり、いかに西欧の啓蒙専制君主といえども、国民を教化するために自ら裁判を行い、その記録を公表して国民に宣布するというような施策を行っていない。
こうしてみると、実は本当の意味での啓蒙専制君主とは、プロイセンのフリードリヒ大王らではなく、雍正帝のことであるかもしれない。

2)「大義覚迷録」の体裁とその狙い

正大光明

雍正帝が、敢えて上諭として自分の考えを公布することなく、「公平」な裁判記録という体裁を取ったのは、反清運動の当事者に自己主張させた後、雍正帝の理論に屈服させ自己批判させることで、清朝の正統性を認めさせた方がより説得力があり、中華世界の各界各層に受け入れられる可能性が高い、と認識していたのが、その理由である。(6)
確かに絶対的に優位な立場にあるものの独りよがりの理論よりは、反対者と議論して相手が説得され納得した上で自己批判して受け入れられた理論の方が説得力があるだろう。このような手続きを採用する雍正帝の卓見と論理性の高さは、やはり清朝極盛期を現出するに相応しい才能を感じざるを得ないところである。
全四巻からなる同書には、上諭10篇、雍正帝の尋問に対する曾静の供述47条の他、謂わば改心した曾静による自己批判の始末書ともいうべき「帰仁説」などが収められている。(7)

3)「大義覚迷録」に観る華夷思想への反駁の論理

董仲舒

それでは、ここから「大義覚迷録」の内容について検討してみよう。
まず呂留良の思想については、以下のように一刀両断している。
「逆賊呂留良らは夷狄を禽獣のようにみている。かれらは未だにわかろうとしていない。上天は中国内地に有徳のものがいなくなったので、これに嫌気がさして放棄したのである。そのため我々外夷を中国内地の君主にしたのである。逆賊呂留良らの論に従えば、これは中国を皆禽獣とみなすことと同じではないか。どうして、内を中国とし、外を夷狄とするのか。自分をののしるか、人をののしるかに過ぎない。」(8)
これは天命論に従えば、天命の喪失(天子の失格)はただちに皇帝の地位を失う(9)ということになるので、中国内地に有徳のものが居なくなったのであれば、漢人が天命を喪失し、外夷に天命が降って皇帝の座が譲渡される、という議論につながってくるだろう。
このように雍正帝は、中華文明伝統の天命思想を援用しながら華夷思想に反駁を試みている。

4)清朝による最大版図実現の強調

長城

次に中華帝国大一統の領域については、「昔から断絶することなく継承されてきた中国一統の領域は、もともと今のように遠くまで広がっていたわけではない。ただその領域の中にあるもののうち、中国化しようとしなかった者がいると、これを夷狄として排斥してきた。漢、唐、宋の全盛時代に北狄や西戎が代々にわたって辺境の患を成したことがあった。これは彼らが、いまだこれらの王朝に臣下として服従しておらず、彼らの領域やこちらの領域といった区分が存在していたためである。我が清朝が君主となって中国内地に入り、天下に君臨して以来、モンゴルを併合したことで、極辺に居た諸部族はすべて版図に帰服した。これは中国の領土が開拓され、遠くまで広がったことに他ならない。このことは、中国の臣民にとっての大いなる幸以外のなにものでもない。どうしてなおも華夷、中外の区分があるなどと論じる意味があるのであろうか。」(10)とし、新たに天命を請けた外夷出身の清朝のおかげで中華帝国大一統の領域が歴史上空前の広がりを持ち、中華の人々に恩恵をもたらしていることを強調している。
特に明朝が苦しめられたモンゴルを併合した(11)ことの意味は大きく騎馬民族を堰き止める万里の長城の軍事要塞としての意味はもはや無くなっていった。

5)天命を請けた清朝皇帝のとるべき道

天命 皇帝

天命を請けた君主の取るべき道としては、「君主になった者が取るべき道は、まさに民を赤子のように慈しむことである。臣下となった者が取るべき道は、まさに君主に父母のように仕えることである。もしも子供が父母から虐待されれば、当然恨み逆らうであろう。我が清朝における君主は、須らく父母が赤子を慈しむように民に接する道に徹してきた。それにもかかわらず、逆賊らはなおも密かに中傷誹謗の限りを尽くし、君主がその道を知らないと言い続け、いわれのない反抗を続けている。」(12)
このように新たに天命を請けた清朝のもとで、それまでの夷の領域だった外部世界も含めて広大なエリアが、中国の領域に組み込まれ、長城は建設された時点の防衛的な意味を喪失することとなった。このように中華帝国領域内で「華夷一家」が成立してしまえば、清朝の支配の正統性は天命を請け続ける資格があるか否かに還元されるが、清朝の天子の政治は臣民を赤子のように慈しんでいるので、当然ながら天命は維持され続けるとの主張である。夷狄としての満州人皇帝による華に対する政治的反駁は、このように説得力ある形でなされたのである。

尚、雍正帝が大義覚迷録で論証した世界帝国としての本来あるべき異民族統治政策については、以下のリンクでも取り扱っております。
大義覚迷録で雍正帝が表明した異民族統治政策はトランプの大統領令より,遥かに寛容である!

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p134
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p134
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p134
(4)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p232
(5)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p218
(6)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p219
(7)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p220
(8)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p220
(9)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p221-p222
(10)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222
(11)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222
(12)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p222