モンゴル

国民党中華民国を率いる蒋介石が毛沢東の中国共産党に敗れた理由は外モンゴル放棄による中華大一統否定と正統性喪失にある!

孫文

孫文らの標榜した西洋的近代国家概念と辛亥革命後の中国的国家観、民族観を検討する。

1.辛亥革命前後の国家観の変容
 1)孫文らの標榜する民族革命
 2)辛亥革命以前の革命家の国家意識
 3)辛亥革命後の五族共和論への転換
2.中華世界分裂回避の論理
 1)漢族単一民族国家観の放棄
 2)清朝の帝国の原理の再認識
 3)中華大一統、中華天下意識の復活
3.中華民族国家理念の構築
 1)中華民族による一民族一国家の論理
 2)「大義覚迷録」の原理の援用
 3)漢族を中核とする「中華民族国家」
4.中華民国の中華世界支配の施策
 1)モンゴル、チベットの直轄化
 2)蒋介石による中華民族一元論
 3)外モンゴル放棄と中華大一統の原理への抵触

1.辛亥革命前後の国家観の変容

孫文2

1)孫文らの標榜する民族革命

清朝打倒を目指す孫文らの革命派が、満族支配の状況からの漢族の国家回復を目指すにあたって標榜した民族革命のシンボルとしては、「漢族」ではなく「中華」が強調されれていた。革命家の民族的文脈において、「漢」は「中華」そして「中国人」と同じものであったにもかかわらず、「中華」にこだわった理由は、「漢族」が「中華文明圏」としての独自の歴史と文化、そして生活領域をもつ偉大な「民族的」共同体であることを強調し、清朝の中国支配の不法性と漢民族国家の正統性を「中華」という呼び方で一層鮮明にすることにあった。(1)
章炳麟は、1907年の「中華民国解」で次のように述べている。「華と言い、夏と言い、漢と言い、互いに三つの意味を持ち合う。漢を族名にしてもそこに邦国の意味があり、華を国名にしても、そこに種族の意味もある。これに(未来の中国国家に)中華民国と名付けるわけである」。ここの「漢族」と「中華」の国家が同じサイズであり、換言すれば「中華国家」は、事実上漢族による「単一民族国家」であった。(2)
 

2)辛亥革命以前の革命家の国家意識

モンゴル帝国
このように辛亥革命以前の段階での清朝打倒を目指す革命家の意識には、新国家は「漢族」中心の「単一民族国家」がイメージされていた。すなわちこれは「漢族」による「中華世界」の回復を志向するものであり、事実上「漢化」の力学が革命原理として提起されていた。
しかし、清朝最大版図は従来の「中華文明エリア」を大幅に上回る規模であり、清朝の領域内には漢民族以外にもモンゴル族、チベット族、新疆エリアのムスリム等多数の民族が混在していた。もし新たな革命が純粋な単一民族国家を真剣に目指すとなれば、その領域は清朝最大版図ではなく、せいぜいが明朝最大版図から満洲を除く程度が関の山であり、モンゴル、チベット、新疆、満洲は「中華国家」から離れて独立させざるを得ない可能性があったと想定される。

3)辛亥革命後の五族共和論への転換

西太后
しかるに、1911年に辛亥革命の後に発足した中華民国は、「単一民族国家」志向では無く、「五族共和」を標榜する方向に変化しており、孫文自身も辛亥革命後に「漢・満・蒙・回・西の五族が一つとなって、独裁を排し、共和を建設する」「民国は五族を合わせて成立したものであり、全ての五族民衆は兄弟である」と述べた。(3)
まさにカメレオンのような変身ぶりであるが、このような方針転換の理由は何であろうか。漢族の「単一民族国家」と言う発想では、何が都合が悪かったのであろうか。

2.中華世界分裂回避の論理

五族共和

1)漢族単一民族国家観の放棄

このように革命前の「単一民族国家」志向から革命後に「五族共和」に方向性が変化した理由の一つは、革命の成功により満族に対する反感が急速に緩和したことや「単一民族国家」と言う行き方が中国の現実から遊離していることが明確化したためである、と言えよう。また在野の評論家的立場から国家政治の中心となってきた革命派としては、領土の分裂を回避したいとの意識が生じ、清朝の政治構造の基本であった「五族」をベースにしないと清朝の版図を維持して「共和制」を導入することが困難なことがはっきりしたことによる、と観て良いだろう。いま一つの理由としては、辛亥革命後に辺境の蒙・西・回の社会で一斉に独立運動が発生し、領土の分裂が現実化してくることで、中華民国の原理に「一民族一国家」という国民国家の基本理念を採用すると、そのまま中華世界の分裂に直結することが明確化したためでもあった。(4)

2)清朝の帝国の原理の再認識

順治帝

このような変化は、ある意味では、清朝の「帝国の原理」をそのまま継続していかないと、「多民族国家としての清朝最大版図エリアの大一統」が崩壊することに権力の座についた革命派がようやく気付いたことによる、と言えるだろう。雍正帝の「大義覚迷録」の精神は、ここに「中華民国」の多民族国家としての大一統の原理を提供することになったと言えようか。
このような考え方に立って蒙古・西蔵の事務を主管とする「蒙蔵事務局」(後に「蒙蔵院」)が設置され、蒙古・西蔵(新疆は既に省制に組み込まれ直轄化していた)に対して、清朝の「理藩院」の延長線上での民族統治政策が実施されたが、これは「皇朝」の統治が「共和」に代わったものの「中華世界の大一統」が中華民国においても清朝同様に前提とされていたことが了解される。(5)

3)中華大一統、中華天下意識の復活

中華天下

このように観てくると、中華民国の政治に清朝の「中華大一統」を標榜する統治方式が大きな影響を与えていることが明瞭になってくる。漢族国家の復興を掲げて遂行された辛亥革命により出現した政権の眼前には、清朝により大幅に拡大された「中華天下」があり、その拡大された中華エリアを有効に統治するためには、単に漢族至上主義を振り回すだけでは無理があった、と言えよう。
 

3.中華民族国家理念の構築

中華民族

1)中華民族による一民族一国家の論理

その後、孫文は「五族共和」の理念が、民族独立を志向する漢族以外の民族に「独立運動」の正統性を与えかねないと気付くに至り、「五族共和」に替わる中華民国の原理として、「中華民族」による「一民族一国家」としての「中華民族国家の」理念を強調し、「国民国家の理論に基づく近代国家建設の推進」と「多民族国家清朝の版図の継承」の両方を実現しようとした。(6)
ここで強調された「中華」は、辛亥革命以前に満州族を駆逐するために「漢族による単一民族国家」を建設する正統性を訴えるシンボルとしてのものではなく、満州族を含む「五族」を団結させ融和するためのシンボルとしての「中華」であった。(7)

2)「大義覚迷録」の原理の援用

大義覚迷録
この「中華」は、「漢民族だけの狭い中華」ではなく、またしても「大義覚迷録」の精神による「華夷一家」としての「中華」であり、「五族」が融和することで形成される「新たな民族」としての「中華」であった。それでは、中華民国においてはこのような「中華」はどのように実現されると考えられていたのか。
孫文によれば、「民族の同化」がその答えであり、「チベット・モンゴル・回・満は、みな自衛能力を持っていない。民族主義を高揚させ、チベット・モンゴル・回・満を我が漢民族に同化させ、一つの最大民族国家建設することは、漢族の自決に基づくものである」「我が党としては、民族主義においてはなお努力すべきで、必ずチベット・モンゴル・回・満を我が漢族に同化させ、併せて一大民族主義をもつ国家を成し遂げさせる」ということであった。(8)

3)漢族を中核とする「中華民族国家」

少数民族問題
ただし、ここで強調された「中華民族国家」の中身は、事実上「漢民族国家」に他ならず、「中華民族」も「漢族」が中核との認識であり、「漢族にとっての利害」が「中華民族にとっての利害」に一致するとの思い込みが強かった。このため中華民国国民政府にとって「中華民族国家」とは「漢民族国家」に他ならないという意識を超えることは困難であったと言えよう。(9)
孫文及びその後継者の考え方は、辛亥革命前は「五族を中華から排除」していたが、辛亥革命後は「五族を中華に同化」させる方針に変わったということであろう。孫文らは「西欧発祥の近代的国民国家体制」と「中華大一統としての多民族統一国家」の矛盾に対する回答として、このような行き方を採用したわけであるが、ここに「現在の中国の民族問題」の淵源の一つがありそうである。

4.中華民国の中華世界支配の施策

ダライラマ

1)モンゴル、チベットの直轄化

このような理念の変化に基づき、「中華民族国家化」すなわち「漢化」「五族の漢民族への同化」の過程が、「国民国家」形成に直結すると言う観点から1928年に蒙古、西蔵両地域を全て省制に移行させ「直轄化」「内地化」を推進することとした。ここに具体的な統治政策において、清朝の基本方針であった「藩部」の設置や五族の多様性を維持した「大一統」から、「内地化」「漢化」をベースとした「同化による大一統」に基本的な方針が変化したと言えよう。(10)
「中華天下」が外部からの侵略や併合の圧力を受け続ける中では、既に清朝期に新疆が省とされ「内地化」「中国化」が開始されていたことも考えると、このような中央集権的な施策はやむを得ないかもしれない。尚、現在の中華人民共和国では、これらの蒙古、西蔵、新疆はそれぞれ自治区となっており、省制は採用されていない。

2)蒋介石による中華民族一元論

蔣介石
このような行き方は、辛亥革命以降の旧「藩部」である「蒙古」「西蔵」「新疆」で顕在化してきた「中華世界からの離脱」を目指す動きへの対抗として実施された側面も強かった。その後蒋介石は1929年に「中華民族一元論」を唱え始め、「中華民族」とは「黄帝子孫に属する同一の宗族」であり、いわゆる五族を含めて既に中華民族として一体化、一元化した存在である、と主張したが、これは旧「藩部」の独立の動きを阻止し、「中華民族としての大一統」を維持するために人為的な政策的見地から集権化を進めざるを得なかったため、と理解される。

3)外モンゴル放棄と中華大一統の原理への抵触

国共内戦
国民党政権は、既に1927年に外モンゴルの「独立」を容認しているが、このことは国民党政権が「中華大一統」の原理を根底では把握していなかった証左ではなかろうか。(11)
中華民族一元論にしても「中華と夷狄の共存及び多くの夷狄を版図に組み込むことこそが中華帝国の存在理由である、と言う天下思想の原理」(12)への本質的な理解が欠けている、ということかもしれない。
このような国民党政権あるいは蒋介石の「中華大一統」に対する本質的なレベルでの理解の欠如が、中国共産党あるいは毛沢東の「中華大一統」に対する理解度の深さに敗れる過程が、この後の中国国民党の台湾への下野や、中国共産党の大陸支配に至る一つの要因を為した可能性もある。

尚、本稿でも取り上げた中華大一統や天下思想については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。
中国伝統の支配正統性の根拠である大一統,天下思想,儒家正統の解明!

参考文献
(1)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p41-p42
(2)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p42-p43
(3)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p43
(4)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p43-p44
(5)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p51
(6)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p45
(7)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p210
(8)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p214
(9)王柯:多民族国家 中国 岩波書店 2005 第二章 漢民族国家という幻想 p46-p47
(10)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p52
(11)加々美光行:中国の民族問題 岩波書店 2008 第Ⅰ章 清朝期から民国期までの民族政策 p53-p54
(12)王柯:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第5章「帝国」と「民族」 p207

トランプ大統領が非常事態宣言で建設するメキシコ国境の壁による異民族管理モデルは清朝極盛期の万里の長城方式である!

万里の長城

トランプ大統領がメキシコ国境に建設しようとしている万里の長城と大清帝国時代の長城の位置づけの同質性を、モンゴル、新疆、チベット等の藩部へ拡大した中国領土で理藩院制度の採用等により一定の安定した統治を実現した背景及び統治構造と原理も踏まえて解明する。

1.大清帝国の領土拡大の第一段階としての対モンゴル戦略
1)トランプ大統領がメキシコ国境に築く万里の長城と清朝極盛期の万里の長城
2)漢族農耕社会の安定確保のための最大の脅威であったモンゴルの併合
3)漢族を安定的に支配するための軍事力確保のためのモンゴル騎馬軍団のコントロール
2.大清帝国の領土拡大の第二段階としての対チベット戦略
1)モンゴル族コントロールのための施策の一環としてのチベット進出
2)広大な版図支配貫徹のための軍事力調達を目指した領土拡大
3)対モンゴル政策の一環としてのチベット進出とチベット仏教コントロール
4)トランプ大統領がメキシコ国境に築く万里の長城と軍事性のない大清帝国の長城
3.大清帝国の領土拡大の第三段階としての新彊確保
1)新彊エリア進出の目的
2)新彊に対する三様の統治方針

1.大清帝国の領土拡大の第一段階としての対モンゴル戦略

1)トランプ大統領がメキシコ国境に築く万里の長城と清朝極盛期の万里の長城

清朝最大版図

メキシコ国境地図
大清帝国の最大版図は、1759年に天山山脈南北両側地域が新疆と命名されたされた時点で完成し、この時点をもって現代に至るモンゴル、チベット、新疆を含む多民族国家「帝国としての中華」が成立した。清朝は、これらの新領土を直接支配地域と区別して間接支配地域とし、「理藩院」制度を採用して統治した。
それでは、このような清朝の領域拡大ひいては藩部の設置の主目的は、何だったのだろうか。これについては、広い意味で対モンゴル政策にあったという見方が出来る。

ちなみに、この時点で完成した間接支配地域と直接支配地域の境界線として、明時代に大規模に改修・新設された万里の長城が大清帝国でも活用された。
この段階では既に万里の長城の軍事的な意味合いは失われており、文明圏の境界・民族的な境界・経済的な境界というような今日トランプ大統領が、メキシコ国境に建設しようとしているのと類似した新「万里の長城」としての位置づけが確立していた。

2)漢族農耕社会の安定確保のための最大の脅威であったモンゴルの併合

モンゴル騎馬軍団
領土拡大の第一段階としての内モンゴル併合については、「遼東における漢族の農耕地域」を内モンゴルの軍事的な脅威から解放する点にあった。
元来、清朝はその経済基盤として漢族農耕社会を想定していたので、中国内地支配の目的も一義的には経済基盤の確立が、その主眼であった。このような漢族農耕社会の確保にとって最大の脅威が、モンゴルの軍事力だったのであり、その脅威を取り除くために内・外モンゴルの服属化は清朝にとって不可欠で喫緊の政策となった。(1)
このように清朝の帝国建設に向けた歩みは、場当たり的で論理性があまり感じられない「国民帝国」の構築過程と明らかに違って計画的であり、戦略に基づく政策の積み重ねと言う傾向を強く持っていた。

3)漢族を安定的に支配するための軍事力確保のためのモンゴル騎馬軍団のコントロール

理藩院
他方で経済的な基盤を形成する漢族に対して満洲族は、人口的に圧倒的に劣っており、中国内地を安定的に支配するためには、モンゴルの軍事的協力を確保しておく必要が有った。こうした事情によりモンゴルを適切に管理し、その軍事的なパワーを有効に活用していくために、盟旗制と言う行政・軍事組織を設置してその遊牧地を固定化し、理藩院を通じたモンゴル族の支配を実現した。(2)
こうして明の時代に中国を圧迫したモンゴル騎馬軍団を完全に取り込むことで、清朝が中華エリアをコントロールする軍事的な基盤が形成されていった。

2.大清帝国の領土拡大の第二段階としての対チベット戦略

1)モンゴル族コントロールのための施策の一環としてのチベット進出

ポタラ宮
さらに清朝のチベットへの進出についても、元々はモンゴル対策としての色彩が濃厚であった。すなわち、清朝の帝国支配に不可欠の戦力であるモンゴル族の信仰がチベット仏教であったということで、チベット仏教を通じてモンゴルをコントロールすることを目論んだわけである。ここで目指されたのがチベットを清朝の統治体制に組み込むことで、チベット仏教の教主であるダライ・ラマとパンチェン・ラマを清朝の影響下に置こうとしたことである。(3)

2)広大な版図支配貫徹のための軍事力調達を目指した領土拡大

モンゴル騎馬軍団3
満州人自身の人口は限られており、広大な版図の支配を貫徹することが自力では困難であるので強力なモンゴル騎馬軍団の戦力を取り込まなければならなかったのだが、このことにより派生的に清朝による様々な施策に繋がっていったことが明らかになってくる。ここに清朝の政策の一貫性と戦略性が垣間見えてくるところである。

3)対モンゴル政策の一環としてのチベット進出とチベット仏教コントロール

ダライラマ
清朝は、チベットのモンゴルへの宗教的影響力を低下させるべく最高活仏ダライ・ラマに集中する権威を分散させ、理藩院がチベット各地に散在する活仏を把握して、宗教的権威の拡散を図った。一方でダライ・ラマにチベット社会の支配をゆだね、かつダライ・ラマを清朝の監視下に置いた。こうして清朝の影響力をチベットに浸透させ、チベットの保護国化を推進したわけであるが、これらのチベット進出策の主目的は、先に指摘した通りチベット仏教をコントロールすることによりモンゴル騎馬軍団をも清朝の影響下に置こうと言う点にあった。チベット民族を直接の対象とする民族政策ではなく、ダライ・ラマの宗教的権威を調達することで、モンゴル族を懐柔する点に狙いがあった。(4)

4)トランプ大統領がメキシコ国境に築く万里の長城と軍事性のない大清帝国の長城

長城修復

ティファナ検問
こういうわけで元々清朝の内陸部への進出のねらいがモンゴル騎馬軍団のコントロール確保にあったため、チベットに対する宗教政策も民族政策もモンゴル政策の延長線上の派生的なものであった。明朝皇帝が四六時中モンゴル騎馬軍団に悩まされ、万里長城の維持強化に血道をあげていたのと較べると清朝の政策の何という卓抜した手腕と目のつけどころであろうか。ここには政治的なセンスの違いと共に、中華文明の「華夷の別」という発想の限界も露呈していると言えようか。

このように万里の長城は、春秋戦国時代に建設が開始された当初から明の時代まで、北方のモンゴル騎馬民族や女真族に対する長大で軍事的な要塞としての位置づけを一貫して保持してきたのであったが、大清帝国の極盛期に至ってモンゴル騎馬軍団を清朝が勢力圏に組み入れることに成功したことにより、万里の長城の位置づけが根底から変化することとなった。
すなわち、万里の長城は大清帝国という巨大な天下における中華文明圏と北方遊牧民等の文明圏の境界線という平和的ながら厳然とした位置づけに変化した、と言えるだろう。
このことは、トランプ大統領が最大の公約の一つとして推進を目指す、メキシコ国境における万里の長城の位置づけにも類似しており、中華文明圏=アメリカ先進文明圏と北方遊牧民等の文明圏=メキシコあるいはその後背に広がるヒスパニック文明圏の境界線と言い換えると、トランプ大統領の認識する世界観にかなり近づくのではないだろうか。

歴史的な事実としても、大清帝国は軍事的な意味合いを喪失した万里の長城を最大限活用して、中華文明圏と北方遊牧民等の文明圏の融合を許さず、一国両制を採用し、中華文明圏=中国内地と北方遊牧民等の文明圏=藩部を対置して、厳然と区別した統治政策を貫徹した。
すなわち中国内地の首都は帝都北京とし、藩部の事実上の首都は熱河離宮というように統治の中枢まで区別する徹底ぶりであった。

それに対して、今日のアメリカの特に南部国境に対する入国管理制度は、相当に甘く、国境線も一定のレベルでは管理されているものの、密入国が絶えず、1100万人規模の不法移民を抱える現状となっている。
このような状況は、残念ながら大清帝国の緻密で戦略的な国境管理政策に大幅に後れを取っている、というのが、両者を比べた場合にはトランプ大統領の認識となるだろう。

いずれにせよ、客観的にみても大清帝国の極盛期と現代アメリカ合衆国のどちらが、近代的で合理的な入国管理を含めた統治政策を推進しているか、を考えると前者に軍配が上がりそうな気がしてならない。
このあたりが、トランプ大統領及びその支持者にとって、現代のアメリカは国境の管理すらまともに出来ない、中途半端な国家とも考えられ、どうしても我慢ならないところであろう。
さらに、トランプ氏がメキシコ国境に厚く高い壁を建設すると高らかに公約して、大統領に当選してから相当な日々を経過した今日の時点でも、メキシコ国境に築くべき新万里の長城は、予算の問題や議会における与野党の政争等に阻まれ、任期中に着工出来るか否かの目途も立たないありさまである。
これでは、かつての大清帝国皇帝の方が、現代の超大国たるアメリカの大統領よりも遥かに圧倒的に政策遂行能力が高く、国境管理における責任能力も実行力も兼ね備えていた、と言わざるを得ないような気がしてくる今日この頃であり、トランプ支持者のオルトライトが現状に怒り狂うのもあながち不思議ではないかも知れない。

3.大清帝国の領土拡大の第三段階としての新彊確保

1)新彊エリア進出の目的

新疆征服

さらに新疆と命名された天山山脈の南北両側地域への清朝の進出と征服の目的もモンゴルの安寧とチベットの保持のためであり、これもまた対モンゴル政策の一環と言えるものであった。このことは乾隆帝が当時のモンゴルやチベットとの関連性が薄い西トルキスタン方面には決して進出しなかったことでも例証できるであろう。すなわち、清朝の東トルキスタン方面への征服の主目的は、モンゴルの安定とチベットへの外敵の侵入を阻止する防波堤を築くことであったと言えよう。(5)

2)新彊に対する三様の統治方針

新疆統治
新疆に関しては、北路、南路、東路の三地域でそれぞれ統治政策を異にしており、北路に関してはイリに軍政の根拠地を置いてジュンガルの影響力の一掃を図り、八旗兵や東北地方の少数民族及び服属したモンゴル族に土地を与え、ジャサク制をとり藩部特有の制度を採用して統治した。南路のイスラム地域に関しては、辮髪を強制せず、地域性を尊重しつつベクや派遣官僚による直接的な統治を進めた。東路は中国内地の延長との位置付けから、郡県制を採り、中国内地同様に科挙官僚による清朝の直接的支配を受けた。(6)

本稿で取り上げた清朝の中華帝国統治方針の戦略性については、以下のリンクでも詳しく取り扱っております。
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服は戦略的な帝国統治政策のモデルケースである!

参考文献
(1)石橋崇雄:大清帝国への道 講談社 2011 第四章 最大版図の形成 p198
(2)石橋崇雄:大清帝国への道 講談社 2011 第四章 最大版図の形成 p199
(3)石橋崇雄:大清帝国への道 講談社 2011 第四章 最大版図の形成 p199-p200
(4)石橋崇雄:大清帝国への道 講談社 2011 第四章 最大版図の形成 p200
(5)石橋崇雄:大清帝国への道 講談社 2011 第四章 最大版図の形成 p200-p201
(6)石橋崇雄:大清帝国への道 講談社 2011 第四章 最大版図の形成 p200-p201

米中冷戦の最中に習近平の狙う一帯一路のモデルは清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆への中華帝国版図拡大にある!

乾隆帝

清朝極盛期の中華帝国統治政策に関して、メルケルが習近平に贈呈した古地図にないチベット、新疆への侵略や領土拡張を中心に、中国領土の最大化の達成と安定統治に成功した歴史的意義を確認する。

1.歴代の中華帝国の最大版図の限界
2.清による中華帝国の最大版図の限界点拡大の実現
3.中国文明エリアに限定された統治原理と清朝最大版図の統治原理の関係
4.清朝最大版図の実現による新たな領土を統治する正統性

1.歴代の中華帝国の最大版図の限界

永楽帝

明 最大版図

明は、基本的に「東アジアの伝統的な中華帝国」であり、中華文明の中心的な価値観である「儒家正統と漢字」を前面に押し出した「中華」正統を重視した国家であった。
そのような明の領域はあくまでも沿海部を中心として河西回廊を含む古くからの漢人地域に、西南地方の少数民族地域を合わせたエリアをその限界としており、本節の主題となる新疆ウイグル、チベット、満州、モンゴルといった領域は明の支配地域からは遠く隔たっていた。
すなわち、明の支配領域は「儒学と漢字」を価値の源泉とする「中華文明」を奉じる漢人の居住領域=中国内地は十分に網羅することに成功していたが、「中華文明」に対して畏敬と思慕の念を抱いていない新疆ウイグル、チベット、満州、モンゴルと言ったエリアを版図とすることは実現出来なかった。(1)
そしてこの領域は元を除く歴代の中華帝国版図のエリア上の限界とも軌を一にするものであったと言えよう。漢族を中心とする「儒教文化圏」「儒学と漢字をあらゆる価値の源とする文明圏」のエリア=中国内地としての最大版図の限界は、歴史的に観てもこのあたりに有ると言えそうである。

2.清による中華帝国の最大版図の限界点拡大の実現

乾隆帝
清 最大版図

それでは、明およびそれ以前には「儒教文化圏」「儒学・漢字文明圏」=中国内地を最大版図の限界としていた「中華帝国」が、清の時代になって俄かにその領域拡大を実現したのは何故か、と言う点について検討していきたい。
結論として、この理由は清が漢人領域に対する「中華帝国」の論理にプラスして、漢人以外の領域に対しては「中華帝国」の論理以外の別の論理体系を構築し、それに基づいて有効かつ合理的な統治を実現したことが成功の要因と言えるのではないだろうか。
このあたりについては「藩部」に対する「理藩院」による統治体制=すなわち一国両制の確立と言うことで別項にて詳述する。
ここでは清がそれまでの主として漢人のみを対象とする「儒教と漢字文明をベースに据えた中華帝国」の枠組みを超えた「大清帝国」としての統治体制や統治論理を打ち出して今日に至る「帝国としての中国」の核心となる構造を完成させることに成功したことを強調しておきたい。

3.中国文明エリアに限定された統治原理と清朝最大版図の統治原理の関係

長城

辛亥革命以降の中華民国も現代の中華人民共和国も、漢人を国家の主な担い手として位置付けている意味では、明の統治論理に近いものがある。とはいえ、現代の中華人民共和国の支配する地理的な範囲は、「中華文明エリア」としての儒学・漢字・漢人の広がり=明の統治領域=中国内地とは全く異なる。このことは、現代の中華人民共和国が古来の「中華文明世界」の幾多の王朝の栄枯盛衰の延長線上に出来あがってきたという説明を難しくしている。(2)
中華人民共和国のエリアは、「中華文明正統の明のエリア」=中国内地だけではなく、「明やそれ以前の王朝が統治出来なかった範囲まで版図に入れた清のエリア」を継承しているが、この「清の統治エリア」は「中華文明正統エリア」=中国内地を大きくはみ出している。
このことは、清が中華帝国の範囲を拡大することで、それまでの「中華文明圏」のみに閉じられていた中華帝国の統治体制や統治の正統性の根拠を刷新し、「新たな領土を統治する体制」や「新たな領土を統治する正統性の根拠」を準備する必要性に迫られたことを意味しよう。

4.清朝最大版図の実現による新たな領土を統治する正統性

文殊菩薩

それでは、「新たな領土を統治する正統性の根拠」は、どのように調達されたのかについて検討してみよう。
大清皇帝は、モンゴルの騎馬兵力をはじめとしたチベット仏教徒から、仏教を保護する「神武英明皇帝」「文殊菩薩皇帝」として尊敬と服従を勝ち取り、東は漢人、西はジュンガルを押さえたことによって、清という帝国はついに「満州人の平和」を作り上げることに成功した。(3)
確かに清の極盛期に着目すれば、「儒教・漢字・漢人をベースとする中国文明エリア」「チベット仏教エリア」「イスラム教エリア」を中 心とする異なる文明圏を満州人の皇帝のもとに安定的に支配することに成功していたわけであり、まさに「パックス・ロマーナ」に勝るとも劣らない「満州人の平和」を現出していたと言えるだろう。そしてその統治の安定期は少なくとも17世紀後半から18世紀全体を通じて継続していたので、ソビエト社会主義共和国連邦(1917-1991)や大日本帝国(1868-1945)よりも長期に渡る安定期を現出することに成功したと言えようか。
それでは、清の皇帝の立ち位置はどこを起点にしていたのであろうか。「中華帝国」の名前の通り「儒学・漢字・漢人をベースとする中華文明」を基軸にしていたと捉えるだけで良いのであろうか。
そこにある意識は北アジア世界をも超えた大ハンの意識だったのではないか。そこには、まさに中華世界をも単に内包する一世界に過ぎないまでに拡大した「華夷一家」の世界帝国の意識があったのではないか。そして清の中では、夷は華を超える存在となっていたのではなかろうか。(4)

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p134
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p134
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p134
(4)石橋崇雄 大清帝国への道 講談社 2011 第五章 「華夷一家」多民族王朝の確立 p232

米中冷戦の渦中に独裁者を目指す習近平の理想は清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服と完璧な帝国統治の再現である!

Great China

新しく中国の事実上の皇帝となった習近平が目指すモデルで、ヒトラーやナポレオンの侵略より遥かに永続的で、トランプ大統領も評価する清朝極盛期の征服活動に関して検討する。
この時の侵略は中国にチベット,ウイグルの少数民族問題を発生させたが、清朝が極盛期に中華帝国領域=中国領土の拡張政策の要因を、蒙古騎馬兵力確保の視点を中心に、中華的価値観とは別個の視点から遂行された状況を明らかにする。

ここでは、2014年3月に訪独した習近平にメルケル独首相が贈った18世紀前半の中国古地図には、掲載されていなかった清朝の領土拡大のあり様を取り上げる。

1.清朝がモンゴル、チベット、新疆への中国領土拡大に着手した要因
 1)モンゴル騎馬兵力との同盟に向けたチベット仏教との関係強化の必要性
 2)清朝皇帝にとっての中華文明以外の価値の戦略的重要性
2.新疆エリアの混乱収拾とモンゴル騎馬兵力安定統治のためのチベットエリアコントロールの重要性
 1)新疆エリアの混乱とチベット仏教勢力の不安定化
 2)モンゴル騎馬兵力安定統治に向けたチベットエリアの混乱の収拾に向けた動き
 3)チベット平定とジュンガル平定による新領土の「新疆」命名
3.清による中国領土拡大過程と支配正統性の根拠の特殊性
 1)「中華文明的価値」に左右されない中国領土拡大方針
 2)モンゴル・チベットエリアにおける支配正統性の根拠
 3)チベット仏教側の支配正統性の原理としての「転輪聖王」

1.清朝がモンゴル、チベット、新疆への中国領土拡大に着手した要因

チベット,ポタラ宮

1)モンゴル騎馬兵力との同盟に向けたチベット仏教との関係強化の必要性

清朝が中国領土の拡大に着手したのは、清がモンゴルの騎馬兵力を同盟に引き込んでいく過程で、必要となったチベット仏教の正統な保護者の座を巡る主導権争いに端を発していると言えよう。
モンゴル高原は当時ダライ・ラマを政教の中心とするゲルク派チベット仏教が席巻しており、モンゴルの王侯貴族が清の皇帝を「ボグド・セツェン・ハーン(神武英明皇帝)」として、モンゴル共同のハーンとしても承認するためには、清の皇帝が文殊菩薩と仏教への帰依に基づいてモンゴル人が信仰するダライラマ及びゲルク派のチベット仏教を名実ともに保護することが大前提となった。
このような状況をうけて、清の皇帝がゲルク派の指導者であるダライラマに対して畏敬と尊崇の念を公式に明らかにする場を設定することが、政治的パフォーマンスとしても必須の課題となり、当時の皇帝ホンタイジは同時代のダライラマ五世を首都盛京に招くべくチベットに親書を送った。ホンタイジの死によりダライラマ五世との会見は実現しなかったが、ホンタイジの後継者たる順冶帝はダライラマ五世に改めて親書を送り、その誠意を伝えた結果、遂にダライラマ五世と順治帝の会見が1652年に北京で実現した。
順治帝はこの時に青海方面までダライラマ五世を出迎えようとしたものの天変地異や政治情勢の緊迫化等のため、結局北京での会談となった。順治帝はダライラマ五世への礼儀を重んじ北京城外まで出迎える等可能な限り礼遇して皇帝とチベット仏教との関係の深さを強調した。尚、北京の北海の白塔はこの時の会見も踏まえて順治帝が建立したと言われる。(1)

2)清朝皇帝にとっての中華文明以外の価値の戦略的重要性

順治帝
清朝皇帝は、このようにモンゴル騎馬兵力を取り込むことの布石の一環としてチベット仏教に接近した。このことは、「儒教・漢字」をベースとする「中華文明」とは異なる価値への清朝のアプローチが戦略的でかつ必須の課題であったことを物語っている。また清朝は、単に「中華文明」に取り込まれる存在と言うだけではなかったということの証左にもなるだろう。

2.新疆エリアの混乱収拾とモンゴル騎馬兵力安定統治のためのチベットエリアコントロールの重要性

モンゴル騎馬軍団

1)新疆エリアの混乱とチベット仏教勢力の不安定化

その後、新疆エリアにおいて西モンゴルの一部族であるジュンガルが台頭し、康煕帝時代から乾隆帝時代にかけて清との抗争を繰り広げるが、この清とジュンガルの争いにチベット仏教も巻き込まれることとなった。すなわち康煕帝時代にジュンガルの指導者ガルダン・ハーンがダライラマ勢力と連携して清に対抗しようとして敗退したが、その後にはダライラマ五世の没後に後継者となったダライラマ六世が放蕩に走ってしまった。これをうけて清とその協力者が「別のダライラマ六世」を擁立したところ、亡くなった「放蕩のダライラマ六世」の生まれ変わりの正統なダライラマ七世を担いだ人々が、清の皇帝に「放蕩のダライラマ六世」廃位取り下げとダライラマ七世の承認を求めるというような事態が発生した。(2)

2)モンゴル騎馬兵力安定統治に向けたチベットエリアの混乱の収拾に向けた動き

モンゴル騎馬軍団222
このように当時のチベット仏教は政治に翻弄されている状況が明らかであるが、同時に清朝皇帝も活仏としてのダライラマの正統性と転生の真実性に振り回されている有りようも認められる。モンゴル騎馬兵力を安定的に統治するためにもチベット仏教を完全にコントロールすることが、重要な政治課題であった清朝皇帝としてはこのような事態は可能な限り素早く収拾することが急務であった。
この時にはジュンガルのツェワン・アラプタンがラサへ侵攻しようとしているという状況が重なり康煕帝としても「ダライラマ六世」を巡る面子の問題とともに、ツェワン・アラプタンの軍事的政治的な脅威に対抗する必要に迫られ、「ゲルク派仏教を保護するのがジュンガルではなく清の皇帝である」ことをモンゴル・チベット全域に知らしめるべくラサに進攻することを決定し、併せて面子の問題は一先ず置いてモンゴル・チベット人の意向に沿う形で「放蕩のダライラマ六世」の復権と「ダライラマ七世」への権威の委譲を承認することとした。1720年の段階で後の雍正帝の皇子時代に推進された清のチベット平定作戦は、成功裡に終結し、モンゴル・チベット人の間で「文殊菩薩皇帝」の権威が確立した。(3)

3)チベット平定とジュンガル平定による新領土の「新疆」命名

ジュンガル平定
このように清朝皇帝によるチベット平定作戦は成功したが、清朝側もダライラマの正統性を巡ってモンゴル・チベット人側の主張を受け入れるという妥協を強いられた。清朝皇帝も上辺だけの介入では通用しないことを把握し、現地の内情を踏まえてチベット仏教信徒の意向を重視しながら果断に武力を行使することで、名実ともに「文殊菩薩皇帝」として敬愛される道を選んだと言えよう。
この後、乾隆帝は雍正帝時代の繁栄と倹約を通じて実現した空前の国庫の充実を背景にジュンガルの残党を徹底的に掃討し、ジュンガル及びタリム盆地のイスラム教徒を完全に清の版図に組み込み、新領土を「新疆」と命名した。(4)

3.清による中国領土拡大過程と支配正統性の根拠の特殊性

十全老人

1)「中華文明的価値」に左右されない中国領土拡大方針

このような過程で清は中国領土の拡大に成功するわけであるが、この領土拡大の過程で「儒教や漢字の優越」と言ったそれまでの「中華文明的価値観」が有効に働いた形跡が、あまり認められないのは紛れもない事実、と言えそうである。あくまでも清はモンゴル・チベット領域を遍く統べるためにゲルク派チベット仏教の保護者の座を目指して軍事的に活動し、必要に応じて政治的妥協も厭わなかったと言えよう。(5)

2)モンゴル・チベットエリアにおける支配正統性の根拠

チベット仏教
すなわち清朝皇帝は、モンゴル・チベットエリアにおいては、中華帝国皇帝の威光に基づき統治したのではなく、この地域の権威者であるチベット仏教の主流派の保護者として振舞うことで正統性を調達したのである。これは清朝皇帝が、明及びそれ以前の狭義の「中華帝国」エリア=中国内地を超越する存在となったために必要不可欠となった新たなる支配の正統性の根拠を巡る動きであった。

3)チベット仏教側の支配正統性の原理としての「転輪聖王」

アショカ王222
チベット仏教の側では、現実の政治的状況の中で具体的な力を持たない仏教勢力の側が生き延びるために権力者の庇護に頼るにあたって、権力者の高潔さや信仰心に関して厳しい基準を設定し、基準を満たした権力者が仏教を保護するために具体的な力を行使することを肯定していた。一般的にはそのような仏教の興隆のために武力を行使する権力者は「正法王」と呼ばれ、その中でも圧倒的な信仰と政治力をもつものは「転輪聖王」と呼ばれた。こうした中で古代インドのアショカ王に対して用いられていた「転輪聖王」の再来として、清の歴代皇帝たちもモンゴル人・チベット人から受け入れられることとなった。(6)
清朝皇帝たちは、そのような仏教を保護する権力者としての資格を得てモンゴル・チベットエリアの人々の支持と畏敬を確保し、それまでの中華帝国が成しえなかった中国領土の新領域への拡大とその長期で安定した支配を実現したと言えよう。

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p141
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p144
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p144-p145
(4)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第二章 内陸アジアの帝国 p146

米中冷戦に突入した習近平の独裁は清朝の軍機処の現代版としての中国共産党中央政治局常務委員会が基盤である!

天安門楼上

軍機処

習近平は遂に2018年3月5日に開催された全国人民代表大会で国家主席の任期撤廃を盛り込んだ憲法修正案を発表し、実質的な中華帝国皇帝への道を歩み始めました。ここでは清朝の最高意思決定機関である軍機処の権限とその役割が、現代の中国共産党中央政治局常務員会に脈々と受け継がれていることを清朝極盛期の統治方式から解明していきます。

1.清朝皇帝のチベット仏教保護者としての意識
1)清朝皇帝と従来の中華皇帝の意識の比較
2)清朝皇帝の文化的立ち位置
3)清朝に服属したモンゴル人やチベット人の中華文明への意識
4)モンゴル・チベット・新疆に君臨する清朝皇帝の立場
2.清朝による中国内地以外の新領域支配の実相
1)中国内地以外の新領域の支配状況
2)大一統の原則と礼部、藩部の統治論理
3)清朝の対外関係の論理
3.清朝皇帝の視点から捉える最大版図を実現した中華帝国の実像
1)中華帝国の拡大により鼎立する支配地域の状況
2)清朝皇帝にとっての軍機処の存在意義

1.清朝皇帝のチベット仏教保護者としての意識

1)清朝皇帝と従来の中華皇帝の意識の比較

文殊菩薩
清の皇帝はチベット仏教を保護する「神武英明皇帝」あるいは「文殊菩薩皇帝」としてモンゴル、チベット人から尊敬と服従を確保(1)し、それまでの漢人による中華帝国が成しえなかった空前の中国領土の拡大を実現したが、皇帝自身はチベット仏教に対してどのような認識と位置付けをいだいていたであろうか。
本来中華皇帝は「儒家正統と漢字を中心とする中華文明」の中心として存在し、周辺の文化・風俗に対してはランクの異なるものとして接するのが常であったと思量されるが、果たして清の皇帝はどうであったのか。
清の皇帝が漢文でモンゴル人やチベット人のためのチベット仏教の保護を説明する時は、「易経」からの出典による「神道を以て教を設ける」と言うフレーズを用いるケースが多く、これだけを観れば清朝の皇帝も従来の中華帝国の皇帝同様に「チベット仏教に対する尊崇は、見せかけであり、辺境の民を手なずけるための方便である」と言うようにも読み取れる。(2)
とはいえ、このような観方は「中華」寄りの観方であり、実際のところ清朝皇帝の胸の内がどのあたりにあったかということは、もう少し慎重に検討していく必要があるだろう。
またこのことは、清朝の支配構造やその政権基盤も含めて再確認していく必要があることは言うまでも無い。

2)清朝皇帝の文化的立ち位置

チベット仏教
一方で見方を変えれば、ここでいう「神道」とはチベット仏教のことであり、その力でモンゴル人、チベット人を教化し、平和と安定をもたらしているとすれば、元来の中華文明たる「儒家正統・漢字文化」に依拠する必要もなく、独自の世界観で自足することを認めているとも受け取れるだろう。(3)
こちらの方が、実際に近いのかもしれない。清朝は中華文明エリアとしての中国内地とそれ以外の地域を藩部として区別して支配したが、支配構造だけでなく文化的にも両者を並列的に捉えていたのではないだろうか。
いずれにせよ、清に服属した一般のモンゴル人やチベット人がこの後「儒家正統や漢字文化」を中華文明の精髄としてチベット仏教文化より優れたものとして受け入れたという形跡は観掛けられない。(4)

3)清朝に服属したモンゴル人やチベット人の中華文明への意識

八旗
清朝の支配者の感覚は一先ず置くとしても、モンゴル人やチベット人の側では、中華文明に対して、自分たちの誇るチベット仏教文化が劣っているという認識は皆無であったようである。「中華」と言う概念そのものがモンゴル語、チベット語、ウイグル・カザフ族が用いるトルコ語東部方言には未だに翻訳されていないという。(5)

4)モンゴル・チベット・新疆に君臨する清朝皇帝の立場

五族共和
それでは、中華文明に平伏したわけでもない新領土のモンゴル・チベット・新疆の人々に清朝皇帝が、服従と尊敬を勝ち得て一定の平和を築けたのは何故なのか。答えは既に記述してきたとおり、清の皇帝が新領土に対して中華文明の代表たる「儒家正統・漢字文化」を体現した存在として君臨するのではなく、全く別の顔で「文殊菩薩皇帝」「神武英明皇帝」たるチベット仏教の保護者として現れ「中華文明を押し付けるのではなく、個別の宗教文化を尊重し、保護育成を図った=教を尊重した」(6)ことによるのだろう。すなわち、清の皇帝は中華文明の代表でもなければ、チベット仏教の保護者というだけでもなく、実質的に展開した版図においてそれぞれの文明・文化を尊重し、平和と安定を保証するような存在を目指したのではなかったか。そしてその保証を得るためには版図の住人は、「皇帝の支配を受け入れさえすればよい」(7)のであった。
このように考えると清の帝国としての統治が中華文明と辺境との境界であった「万里の長城」の存在を前時代の遺物に変えてしまう空前の広がりと安定を確保した理由の一端が垣間見えるような気がするのである。

2.清朝による中国内地以外の新領域支配の実相

それでは、ここからは清朝の「中国内地」以外の地域支配について確認していきたい。

1)中国内地以外の新領域の支配状況

大清帝国

清の支配する漢人の「中国内地」以外の地域支配の在り方、枠組みは以下のように各地の実情に合わせて木目細かく設定されていた。
・「旗地」:八旗の旗人に分配された所領
・「盟旗」:モンゴルの王侯が軍事的な義務(定期的な狩猟訓練への供奉)⇒北京への参勤交代(年班)と引き替えに牧民と牧地への支配を認められたもの
・ダライラマ政権とそれに寄進された土地
・「ラマ旗」:チベット仏教寺院領が独立の旗となったもの
・「土司」「千戸長」「百戸長」:チベット高原東部等の各地の部族の長を西南の非漢人地域同様に認知し、小規模な地域支配が認められたもの
・クムル、トルファン:ジュンガル駆逐において清に協力したトルコ系ムスリム王の領地
・新疆のオアシス:イリ将軍の軍事支配の下で各地のトルコ系ムスリム有力者をハーキーム・ベグに任命

上記のエリアと皇帝との関係は、科挙官僚ではなく八旗の軍人を多用して維持されており、明らかに中国内地の漢人地域とは異なる統治が遂行されていた。(8)

2)大一統の原則と礼部、藩部の統治論理

朝貢
ここに取り上げた内容は、これまで中華大一統の原則として取り上げてきている金観濤の「大一統四原則」(9)を大きく逸脱していて興 味深い。また清朝がこのような多種多様な地域をまとめ上げ、拡大版「大一統」を安定的に実現してきた論理について確認しておく必要があるだろう。
また朝鮮や琉球などの朝貢国一般が「礼部」に管轄され儒家正統的な「礼」が、清と朝貢国を結合する原則となっていたが、新領土に関しては「理藩院」の管轄であり「藩部」と総称されており、その関係の基本にはチベット仏教やイスラムの教えを皇帝が保護するという認識が色濃く打ち出され、儀礼や文書に反映された。またロシアやネパールとの関係も朝貢国を取り扱う「礼部」ではなく「理藩院」が管轄していた。(10)

3)清朝の対外関係の論理

理藩院
このように清朝は、国内統治のみならず、対外関係に関しても儒家正統をベースとする「中華」文明の強い影響下の地域とそれ以外の地域で区別していたことがわかる。清朝は国内における「大一統」の維持に関しだけでなく、対外関係においても単なる「中華」の延長線上にはとどまらない「別の顔を持った帝国」としての幅の広さを示していたと言えよう。
このように「礼部」が管轄する「儒家正統・漢字文化・科挙官僚・朝貢国」の伝統中華文明エリアと「理藩院」が管轄する「チベット仏教・イスラム・八旗軍人・現地独自支配の尊重」の新領土エリアが、いわゆる「東南の弦月」「北西の弦月」として清の皇帝の権威と威令の下で異なる統治原理で服属し(11)、長期にわたり安定した清による平和を享受した源泉となった。

3.清朝皇帝の視点から捉える最大版図を実現した中華帝国の実像

1)中華帝国の拡大により鼎立する支配地域の状況

新疆モスク

このような状況を観れば、支配する領域の各地に対して最適な支配機構を誂えることに心を砕いた清朝皇帝が、「儒家正統・漢字文化・科挙官僚」をベースとする中華文明エリア=中国内地のみを清朝の中枢的なエリアとは認識していなかった、と想定出来るのではなかろうか。中華文明エリア=中国内地も藩部としての新領土エリアも等しく清朝皇帝の支配体制の下にあり、「チベット仏教」「イスラム」「儒家正統」というそれぞれの「神道」を以て教を設ける」対象として、それぞれ「モンゴル・チベットエリア」「新疆エリア」「中華文明エリア=中国内地」が存在したというのが、清朝皇帝から観た実像に近かったのではなかろうか。

2)清朝皇帝にとっての軍機処の存在意義


雍正帝の創設した軍機処は、「礼部」と「理藩院」の両者を有機的に結合し、縦割りを排して、清朝全体を見渡しつつ「迅速かつ効果的」な統治を実現するために必要不可欠な役割を担うこととなった。(12)
ここまで観てくると既に明らかなように清朝皇帝にとっての「神道」とは、「チベット仏教」「イスラム教」だけでなく「儒家正統」といえども、その中にスッポリと収まるような膨大な器の容器であったことが観えてくる。
清朝皇帝はこのように「神道を以って、教を設け」つつ、自らは超然と「軍機処」という、清朝内のあらゆる「神道」を超越する最高意思決定機関を通して全てを支配しようとしていた、と言うことになろう。
そのように考えれば、現代の中国共産党中央政治局常務委員会と清朝における軍機処の位置づけの類似性が一層浮かび上がってくる、と言えるだろう。

尚、本稿とも関連する清朝の中華帝国統治方針に関しては、以下のリンクでも取り扱っております。
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆征服は戦略的な帝国統治政策のモデルケースである!
清朝極盛期の乾隆帝のチベット,新疆侵略による永続的な中華帝国最大版図拡大実現の背景!

参考文献
(1)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p150
(2)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p150-p151
(3)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(4)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(5)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p152
(6)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p153
(7)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p154
(8)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p156
(9)金観濤:中国社会の超安定システム 研文出版 1987 第一章 中国封建社会の宗法一体化構造 p32
(10)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p157
(11)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p157
(12)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第三章 盛世の闇 p158