⭕️西洋の衝撃としての西欧によるアジア,アフリカの植民地化を国民帝国概念で解明!

2023年6月10日

「帝国」に関する諸類型のうち、西欧列強のアジア・アフリカに対する侵略と植民地支配の主体となった「国民帝国」について、西欧における国民国家の成立から西欧内部への民主的先進的な規範と西欧外部への暴力的で圧政的な規範のダブルスタンダードを基調とするウェスタン・システム及びその中核を形成したメカニズムや「国民帝国」とは対極的な存在であった「世界帝国」との比較もまじえて検討していきます。
この「国民帝国」という主体は、国内では圧政からの解放を標榜する民主主義的な行き方を強調しながら、対外的には植民地での暴力や非人道的な搾取を徹底的に繰り返すなど多くの矛盾に満ち満ちた存在となっており
その政治的・概念的構造は非常に興味深い観察対象となります。

「国民帝国」の特徴と行動原理

ここからは近代のウェスタン・システムの中核を成した「国民帝国」について検討していく。
「国民帝国」とは、「主権国家体系の下で国民国家の形態を採る本国と異民族・遠隔支配地域から成る複数の政治空間を統合していく統治形態」であり、「世界体系としては、多数の「帝国」が同時性をもって争いつつ手を結ぶ」もので、「本国と支配地域が格差原理と統合原理に基づく異法域統合として存在」していた。(1)
このように「国民帝国」とは、本国においてはイギリス、フランス、ベルギーのような極めて先進的で民主的な国民国家の形態を取りながら、アジアやアフリカへの対峙においては経済的・軍事的な優位性をベースに、「文明化の使命」などと言った正当化言説を掲げて、異なる民族や政治社会の意志を無視して支配・統治・制御を行うという帝国体系が重ねあわされていたのである。(2)
これこそは非常に矛盾に満ち満ちたダブルスタンダードの典型とも言える存在であったろう。すなわち、欧州本国においては、自ら以上の最高決定権を持たない主権・国民国家間の法的平等を前提に相互の内政干渉を拒絶する国家体系を構築していた(3)にも関わらず、植民地に対しては国家主権も基本的人権も踏みにじる収奪行為に明け暮れていたことは歴史的な事実である。
このように「国民帝国」は矛盾に満ちた存在として出現し、全ての諸国民が国民国家の理念に目覚めた時には当然ながらその存在を許されることはなく、必然的に陽炎のように消滅せざるを得ないような不安定な存在であったとも言えるだろう。
当に本国で民主主義や人民主権あるいは福祉国家というような理念が花開きつつある同じ瞬間に、人類史上でも稀にみるような悲惨な運命を植民地諸国に陥れたのが国民帝国という不思議なシステムであった。

「国民帝国」とは対極的な存在である「世界帝国」の特徴と行動原理

それでは、ここからは近代の国際体系を規定した「国民帝国」の存在についてより深く観ていくことにしたい。
まずここで「帝国とは何か?」ということを最大公約数的に規定しておく。それは「多民族・多宗教・多文化からなる広領域的政治社会」ということになるだろう。(4)

「世界帝国」の概念

次に帝国同士の並列的な存在を許容する「国民帝国」と対極の存在である「世界帝国」の概念についてもここで確認しておく。
「世界帝国」とは、上帝から天命を得た天子や神から委託された預言者、神の名代たる法王などが権力と権威によって、神や天の命令を代行して地上の世俗世界(天下)を治めるという宇宙論的な観念に支えられた帝国である。このような世界帝国は、儒教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などの諸宗教の教義や世界観に基づき固有の発現形態を持っていた。このような世界帝国は、神や天と言う絶対的な権威を基盤としており、自ずと普遍的な存在であるという世界観を有していた。このため自ら統治するエリアの外に存在する「異教徒」も本来はその統治対象であるという認識から、領域拡張や異教徒の取り込みは自明のこととされた。この世界帝国の「世界」とは自ら知りうる世界の全てであり、観念的には全世界と同義であった(5)

本ブログの全体のテーマは、「中華帝国」であるが、ここで挙げたように「世界帝国」としては、キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教など幾つかの普遍的な理念を掲げる「中華帝国」以外の帝国も実在した。
このうちイスラム教を理念とするオスマン帝国については、西欧の衝撃に対応した「世界帝国」のモデルケースの一つとして別項にて取り上げる予定である。

「世界帝国」と「国民国家」の本質的な相違点

次に「世界帝国」と「国民国家」の国境を巡る本質的な相違について検討してみたい。
「世界帝国」は、普遍的世界観と異教徒をも統一しようとする志向性を強く有しており、帝国の外延を常に拡張しようとする存在である。このように「世界帝国」においては、境界を可能な限り外へと押し広げようとすることを基本的属性としており、帝国の境界は流動的・不確定であることが帝国の生命力の根源の一つでもあった。また外延の茫漠さが、外部を持たない無限性や他者の存在を無に帰するのに役立ってもいただろう。このような開放系としての帝国の有りようは、国境を画定して領域を固定化し内部の固有性を軸として均質的統治を図る、自他の峻別に基づく閉鎖系としての主権・国民国家とは本質的に相違している。(6)

こういうわけで、世界帝国には明確な国境の概念は無いのが本来の姿であり、逆に国民国家は自らの存立基盤を確保するためにも明確な国境の存在が不可欠であった。世界帝国の外には荒涼たる原野や巨大な山脈、砂漠などの人跡未踏の地が広がるというイメージであり、一方で国民国家の国境の外には同様な国民国家が存在して共存しつつ競争するイメージであろうか。
また国民国家は、個別性を持った成員を平等に取り扱うことで統合することを志向するのに対して、世界帝国はその内部に相互に対抗する異質性や個別性を多様に内包しながらも、それらに対する支配者側の超越性により統合することを志向する。(7)

世界帝国の存立基盤がこのような支配者の超越性に由来する以上、世界観の異なる外界からの衝撃が強力であればあるほど、脆く崩れやすい状況に陥ることは自明であろう。オスマン帝国も清帝国もこのような西欧の衝撃に抗し切れず崩壊の道を辿ることとなった。
ただし、オスマン帝国は、跡形もなく消滅したが、清帝国の領域および臣民は、ほぼそのまま後継国家に引き継がれ今日に至っている。

「世界帝国」は、その唯一性と普遍性を基盤に成立しており、理念的には他の帝国の存在は想定されていないのが普通であった。
一方の「国民帝国」は、国民国家の延長線上に存在しており、国民国家が他の国民国家との関係性で成り立っていた。異民族・異文化の統治を国民国家が相互に認証しつつ、比較優位を求めてより多くの空間と資源を自己の統治領域に組み込むべく覇権を追求していく競合過程の中で国民帝国が徐々に形成されていったと言える。(8)

「国民帝国」が繁栄していた時代

西欧国民国家間の競争と対外発展の連動

競合する国民国家間での競争が欧州の外での覇権競争につながり、その際の領域拡大の延長線上で結果的に「国民帝国」が形成されていったということになろうか。こうしてみると「国民帝国」というのはアジア・アフリカが覚醒する寸前に西欧の優位が極大化していたという特殊な時代環境の産物ということになるのであろう。
「国民帝国形成期」に西欧諸国を突き動かしていた衝動は、主権・国民国家体系の世界への普及というような高尚なものではなく、あくまでも自己保存・発展すなわち生き残りのためのなりふり構わぬ活動であった。現に存在する西欧の秩序はそのままに、他の地域を市場として再編成し、結果的に広域的多民族統治を行う国家形態へと移行していく中で徐々に国民帝国が形成されていった。この駆動力となる精神的基盤は、ナショナリズムであったが、ドイツ・イタリアなどのナショナリズムはその中でも先行するイギリス・オランダ・フランスの超域的資本主義活動や国民国家形成に対抗して自分たちの国民経済や政治社会の固有性を維持するための防御的なものであったという違いがある。(9)

「国民帝国」とはこのように西欧国民国家の危機意識の中に育まれ、アジア・アフリカ等のその他の世界を動乱の渦に巻き込んでいった。国民国家の形成により本国では、徐々に福祉政策や選挙制度の充実等の国民のための政策が取られ始めている中で、本国外地域の人民をかつてない不幸に追い込んでいったのは極めて対照的な有りようであり、このあたりは、人類の進歩とは何かを考えさせられる事案でもある。

西欧国民国家による世界分割の帰結としての国民帝国

いずれにせよ「国民帝国」は「世界帝国」のように普遍的理念の下に文明圏全体を支配するような存在とは異質であり、あくまでも本国たる「国民国家」を持ち明確な国境としてのボーダーを持った存在であった。
このため「国民帝国」相互間でもボーダーにより他の「国民帝国」と領域を接合しつつ、競合し並立するという関係が成り立っていた。
国民国家とは元来等質性をもった民族と領域性をもった土地との緊密な結びつきによって形成される「血と土の共同体」であるとすれば、「国民帝国」にように「民族と土地」を超えて拡張していくのは「国民国家」としては矛盾している。しかるに西欧の国民国家は、自らが生き延びるためには非西欧世界を自己の勢力圏に取り込み領域を拡張していくしか道が無い。また元来世界帝国とは、外縁を持たず外部に競合する他者を持たない卓越的な存在であり、境界線などというものは概念的に受け付けなかったが、国民帝国としては他の国民帝国との領域的区別を明確にするために人為的な境界線が必要不可欠であった。(10)

このように「帝国」としても「国民国家」としても相矛盾する要素を抱え込んだ「国民帝国」は当初からその存立基盤に脆弱さを併せ持った存在だったと言えよう。

尚、今回取り上げた国民帝国の意外な脆さや崩壊の原理については、以下のリンクで詳しく検討しています。
西欧の帝国主義列強によるアジア,アフリカ植民地支配の理念と法律体系!

参考文献
(1)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p89
(2)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p89
(3)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p89
(4)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p90
(5)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p90
(6)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p91-p92
(7)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p91-p92
(8)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p92
(9)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p93
(10)山室信一:帝国の研究 名古屋大学出版会 2003 第3章 「国民帝国」論の射程 p94