⭕️毛沢東が文革で劉少奇、鄧小平ら走資派を処断したのはなぜか?

2023年6月10日

毛沢東の大躍進政策の失敗等で壊滅的な打撃を受けた中国経済を再建しようとして政権を引き継いだ、劉少奇・鄧小平らの実権派・走資派が生産活動において大きな成果を挙げ、その後の改革開放を先取りするような功績を残したにもかかわらず、文化大革命で徹底的に叩かれることになった背景と毛沢東あるいは習近平も根深く受け継いでいるかも知れない危険性な傾向を検討していきます。

文革の標的とされた劉少奇・鄧小平の「調整政策」

それでは、文革期の毛沢東らの用語法が語られた契機となった劉少奇・鄧小平らが採用した「調整政策」とはどんなものだったのであろうか。また毛沢東は、どのような意識からこれらの用語法を使いだしたのであろうか。

食糧危機解決のための政策

「調整政策」に関しては、何よりもまず食糧危機の解決のため、農民の生活意欲を高めて生産力を回復させるべく自留地、家庭副業、農村自由市場の復活が図られ、公社の規模が削減され、その権限も下部へと委譲され、公共食堂も廃止された。また大躍進期に急膨張した都市人口の農村への移住政策も着手された。さらに工業の分野でも思い切った縮小措置が行われ、大躍進期に一斉に出現した、主として小規模工場の大半が効率の悪さのため切り捨てられた。(1)

ネコ論(=鼠を捕るネコであれば何でもよい)による政策遂行

「調整政策」は1962年半ばから本格化したが、「農家生産請負責任制」「市場自由化の積極的利用」「物的刺激制による生産効率性追求」を三本柱とし、1964年には毛沢東から「三自一包」政策と総称された。このうち「農家生産請負責任制」については、1962年2月に鄧小平が「黄色いネコでも黒いネコでも鼠を捕るネコは良いネコだ。過渡期においては、生産回復に有利な方法があれば、どんな方法でもそれを採用すれば良い。」と言うネコ論を語って有名になった。(2)

「調整政策」遂行段階での党主席たる毛沢東の隔離の進行

このような一連の「調整政策」遂行のプロセスにおいて重大な問題が発生しつつあった。それは、党主席たる毛沢東と党、及び政府実務官僚との間に明らかにある種の乖離が生じ始めていたことである。
大躍進の挫折のあとということもあり、その最大の責任者である毛沢東は多少とも隔離された位置にあったようで、政策の具体的な措置にあたって、しばしば実質的に無視されたと言う。(3)

劉少奇・鄧小平らの「調整政策」に対する毛沢東の認識

毛沢東の「調整政策」への反感

毛沢東は、このような「調整政策」に対して、当初から反感を抱いており、特に「農家生産請負制」に関して、1962年7月には陳雲に「田を分けて戸別単独経営をやらせることは、集団経済を崩壊させる修正主義である」と述べ、さらに1962年8月の北戴河会議では、農村の階級分化、貧富の格差拡大をもたらしつつあるとして「社会主義に向かうのか、それとも資本主義に向かうのか?」「党内の一部の者は悪質化し、汚職腐敗し、妾を持ち、単独経営をやるなど、看板は共産党で支部書記だが、明らかに大衆を奴隷化している」と述べた。(4)

毛沢東の「個人経営」への拒否反応とコミューン的革命原理への郷愁

この個人経営か集団経営かということは、毛沢東にとっては決定的な分岐点になったようである。
個人経営は、必然的に階級分化を産み出し、貧富の差を生じ、あらゆる悪徳、ブルジョア・イデオロギーを発生させ、社会主義を内部から解体させる。このような毛沢東の資本主義的な市場原理に対する拒否反応は、19世紀以来の国際資本主義の中国進出、それにともなう伝統的中華帝国の解体、それからの再生というこれまでの全歴史過程が刻印されていた。その対極に位置して、その歴史に対抗するのは、毛沢東自身の革命過程が紡ぎ出したコミューン的原理だった。(5)

毛沢東の思想的政策的岩盤

このように毛沢東の思想的・政策的岩盤には、アヘン戦争以来の中華帝国の動揺と苦難の歴史が常に想起されており、またそれへの唯一の有効な解決策は孫文以来誰もが成し遂げられなかった中華世界の解放を実現した自らのコミューン的な革命手法である、との確信と信念が存在した、と言えよう。

文革の始動と全党を挙げた「走資派」「実権派」への階級闘争

 

毛沢東による文革を規定する用語法としての「走資派」「実権派」の提起

こうした中で毛沢東は、1964年6月には、「農村の基層組織の三分の一の指導権は、既に手中には無く、地主、ブルジョア分子に簒奪されている」(6)と述べ、さらに1964年12月には「官僚主義者階級と労働者階級・貧農下層中農階級とは鋭く対立しあう階級である。これら資本主義を行く指導者は既に労働者の血を吸うブルジョア階級に変質したか、変質しつつある」と述べるまでにエスカレートし、遂に1965年1月には、「今次の運動の重点は、党内のあの資本主義の道を歩む実権派を一掃し、都市農村の社会主義の陣地を一層強固にし発展させることにある。あの資本主義の道を歩む実権派は、表舞台にも、舞台の背後にもいる」と述べて、「階級闘争」の攻撃の対象を党内の幹部、特に党中央の幹部に向けた。ここに文革を規定する毛沢東の用語法である「走資派」「実権派」の概念が提起されるに至った。(7)(8)

「調整政策」とその推進者への階級闘争の開始

ここに至って、「調整政策」は、その現実的な当否を超えて、一挙に「尖鋭な階級闘争」「資本主義の道を歩む実権派」の出現と言う方向に展開し、それが党全体の課題とされることととなった。こうして「調整政策」とその推進者は、中華人民共和国の体制を支えるイデオロギーに抵触することが提起されたと言えよう。幹部の不正が摘発され、それが「ブルジョア分子の出現」「ブルジョア的権力の出現」と規定された段階で、全党を挙げた階級闘争が開始されることは、まさに公定イデオロギーの貫徹の法則的な帰結であった。(9)

米中冷戦状況下の習近平の政治目標は文化大革命期の毛沢東個人崇拝と中華帝国皇帝専制体制再現である!

<参考文献>
(1)野村浩一:現代中国 現代中国の政治世界 岩波書店 1989 Ⅰ 現代中国政治の展開と動態 p21
(2)加々美光行:歴史の中の文化大革命 岩波書店 2001 序章 文化大革命をどう見るか p24
(3)野村浩一:現代中国 現代中国の政治世界 岩波書店 1989 Ⅰ 現代中国政治の展開と動態 p23
(4)加々美光行:歴史の中の文化大革命 岩波書店 2001 序章 文化大革命をどう見るか p25
(5)野村浩一:現代中国 現代中国の政治世界 岩波書店 1989 Ⅰ 現代中国政治の展開と動態 p25
(6)野村浩一:現代中国 現代中国の政治世界 岩波書店 1989 Ⅰ 現代中国政治の展開と動態 p25
(7)安藤正士:現代中国 歴史と近代化 岩波書店 1989 Ⅶ 文化大革命の諸問題 p235
(8)加々美光行:歴史の中の文化大革命 岩波書店 2001 序章 文化大革命をどう見るか p25-p26
(9)野村浩一:現代中国 現代中国の政治世界 岩波書店 1989 Ⅰ 現代中国政治の展開と動態 p26