西洋の衝撃により崩壊したイスラム世界帝国たるオスマン帝国!

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

オスマン帝国における近代化の動きは、帝国の根底を揺るがす徹底的過ぎる改革だったともいわれており、明治維新のように伝統を維持しつつ国家体制を変革することに失敗したために、帝国及びイスラム世界秩序の双方ともに崩壊することになった、との認識がある。

1.バルカン非ムスリム諸国民の独立とイスラム世界秩序=オスマン帝国の行く末
1)徹底的過ぎる改革がもたらす事態
2)危機に対処するオスマン帝国の柔軟性と根本的改革の遂行
3)バルカン喪失後のオスマン帝国の課題
2.バルカン非ムスリム諸国家喪失後の生き残り策を模索するオスマン帝国
1)帝国解体の危機への二様の対処策としてのイスラム的世界秩序回帰と近代国際体系への参加
2)ムスリム臣民内のアラブ民族意識の芽生えとトルコ主義の拡大
3.西洋の衝撃によるオスマン帝国の解体の流れ
1)ナショナリズムの高揚とイスラム的世界秩序の崩壊
2)オスマン帝国の疑似国民国家化への志向とその崩壊過程
3)イスラム世界の自己完結性の喪失とオスマン帝国のトルコネーションステート化

1.バルカン非ムスリム諸国民の独立とイスラム世界秩序=オスマン帝国の行く末

1)徹底的過ぎる改革がもたらす事態

ペレストロイカ
イスラム的世界帝国と言うのは、オスマン帝国の存立基盤であった。もっと広くとらえればイスラム世界一体化の成立基盤でもあったのではなかろうか。もともとイスラム的世界秩序の理念においては、「イスラムの家」の政治的統一が前提とされ、ムスリムの諸国家から構成される国際体系は全く想定していなかった(1)と言う点から観ても、徹底的過ぎる改革が帝国の存立基盤を犯して、逆に帝国の崩壊に導いてしまったのかもしれない。近年ではソ連を崩壊に導く遠因となったペレストロイカなども、このような例に当てはまるだろう。
ペレストロイカは、体制変換モデルを提起しながら、以下のような三重の矛盾を内包していたという。

①ペレストロイカは、ソビエト共産党の一党ヘゲモニーの堅持を意図しながら、市民社会の登場と成熟を前提とし、その歴史的所産であることを強調し続けていた。
②ペレストロイカが、社会主義経済システムの枠内での経済活性化の道を模索しながら、他方で資本主義的制度の多様な導入を画策していた。
③ペレストロイカは、本質的には国家=党の支配の中央集権的なメカニズムとしての「帝国」を維持しようとしながら、民主化・分権化を強調し、共和国主権を求める絶え間ない動きを引き出してしまった。(2)

このように改革の姿勢が、「帝国」の存立基盤を動揺させ、世論の大勢がそこになびいてしまうと、そういう動きをとどめることは困難であ
ろう。

2)危機に対処するオスマン帝国の柔軟性と根本的改革の遂行

ロマノフ王朝
とはいえオスマン帝国は、ソビエト社会主義共和国連邦のように突如として崩壊するようなことは無かった。あらゆる予想を裏切って、オスマン帝国はスペイン帝国、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国、ポーランド選挙王国、神聖ローマ帝国、ブルボン王朝、ナポレオン王国、権力ある存在としての教皇庁やロマノフ王朝、ハプスブルグ帝国、ホーエンツォレルン帝国よりも長生きした。(3)
イスラム的世界帝国の根幹レベルからの改革を目指すと言う方針のもとで、1839年に「ギュルハネ勅書」が、1856年には「改革の勅
令」が出され、オスマン帝国の臣民は、その宗教に関わらずほぼ平等の権利を有することとなった。オスマン主義と呼ばれるこの方針は、イ
スラム的な伝統的帝国概念を根底から覆し、世俗的多民族国家としてのオスマン帝国の延命を目指す画期的なものであったが、ムスリム臣民には浸透したものの、非ムスリムのバルカン諸民族のナショナリズムや民族独立運動を抑え込むことには失敗し、オスマン帝国のイスラム的世界帝国から世俗的多民族国家への転換に至る道は閉された。(4)

3)バルカン喪失後のオスマン帝国の課題

ムスリム

このようにオスマン帝国は自らイスラム的世界帝国の本質を放棄し、世俗的多民族国家への転換を図りながらも、このような方針の直接の要因となったバルカン諸国をつなぎとめることには失敗してしまった。これにより、非ムスリムのキリスト教徒を主体とするバルカンの喪失がほぼ既定事実化してくると、今度はオスマン帝国にとってムスリム臣民を如何にしてつなぎとめて、帝国を維持していくかが課題となってくる。

2.バルカン非ムスリム諸国家喪失後の生き残り策を模索するオスマン帝国

1)帝国解体の危機への二様の対処策としてのイスラム的世界秩序回帰と近代国際体系への参加

正統カリフ時代
非ムスリムのバルカン諸民族の独立と外圧の高まりの中でオスマン帝国はその存立のためにいくつかの方策を探ったが、その一つは伝統的なイスラム的国際体系観に回帰し、イスラム世界の統一と全ムスリムの団結により危機に対処することであった。スルタン・カリフ制の理論を援用しつつ、オスマン帝国の君主としてのスルタンが同時に地上における預言者ムハンマドの代理人であるカリフとして、全世界のムスリムの指導者として君臨する、との考え方である。いま一つの方策はトルコ民族のナショナリズムを拠り所に近代的国際体系に参加し、ネーションステートの一員になるという考え方であり、これには大トルコ民族主義とアナトリアを中心とするネーションステートを形成しようとするトルコ主義とがあったが、これはトルコ主義へと徐々に収斂していった。(5)

2)ムスリム臣民内のアラブ民族意識の芽生えとトルコ主義の拡大

アナトリア

オスマン帝国におけるムスリム臣民は、トルコ人だけではない。元々オスマン帝国はイスラム世界の辺境の一帝国に過ぎなかった(6)ので
あり、マホメットの出自やメッカ・メジナの周辺民族を想起すれば、アラブ人の動きをここで確認しておく必要があるだろう。
ムスリム意識からトルコ人意識が出てき始めていた19世紀後半にはムスリム臣民のうちアラブ人にもアラブ人意識が芽生え、アラブ・ナショナリズムへと結実していくこととなった。このようなアラブナショナリズムの形成はイスラム世界の伝統的秩序観に決定的な亀裂をもたらした。またこれが近代西欧に由来するナショナリズムへの志向に対抗する、イスラム世界の伝統への回帰としてのパン・イスラム主義の発展を阻害する要素となった。(7)
同じムスリムのアラブ人からも離反されては、オスマン帝国の取るべき道は、アナトリアを中心とするネーション・ステートの形成をベースとするトルコ主義に収斂せざるを得なくなるだろう。

3.西洋の衝撃によるオスマン帝国の解体に向けた奔流

1)ナショナリズムの高揚とイスラム的世界秩序の崩壊

イスラム世界帝国

このように18世紀以降の西洋の衝撃によりイスラム世界における伝統的国際体系は、徐々に掘り崩されイスラム的世界帝国としてのオスマン帝国は解体に追い込まれていった。こうした世界帝国崩壊の過程で、ナショナリズムの高揚と主権平等のネーションステート形成に向けた流れが奔流のように噴出した。(8)

2)オスマン帝国の疑似国民国家化への志向とその崩壊過程

中華帝国
オスマン帝国はかつて民族と宗教の多様性のダイナミズムを誇る世界帝国としてイスラム世界及びバルカン半島を支配していたわけであるが、「西洋の衝撃」を受けてその多元的な支配構造を「疑似国民国家」化して西欧のリードする新しい世界システムに適応しようとした。
このような「疑似国民国家」に変質したのはオスマン帝国だけではなく、「中華帝国」も同時期に同じ様な対応を取っていた。(9)
「中華帝国」では「天の思想あるいは天下主義がいつのまにか明確な輪郭をともなった国民主義へと変質していた」。(10)ここで言う「天=天下」が中華エリアのベースであったが、清の時代に藩部を取り込んで大幅に拡大した「天下としての中華エリア」=「清朝最大版図」が、そのまま「国家領域」として受け入れられ、「天下の民」=「国民」=「中華民族」と捉えなおされることで非常に自然な形で「疑似国民国家」中華民国が誕生したと言えよう。そしてこの延長線上に現在の中華人民共和国も位置づけられるだろう。
他方オスマン帝国は、非ムスリムを抱え込んだイスラム的世界帝国の位置付けを、まずバルカン半島の非ムスリムの独立で喪失し、ムスリムを包括するイスラム的世界帝国の位置付けをアラブ民族主義の台頭で放棄し、究極的にはアナトリアをベースとするトルコ主義に純化した国民国家を選択することで、あらゆる「帝国」としての歴史に訣別したと言えよう。

3)イスラム世界の自己完結性の喪失とオスマン帝国のトルコネーションステート化

トルコ共和国

こうしてイスラム世界は、「西洋の衝撃」を被ることで、それまでの自己完結性を喪失して、グローバルシステムとしての近代国際体系の一部に組み込まれ、「中東」と呼ばれる一地域として再編成されることとなった。そうした動きの中で記述の通りオスマン帝国の中核たるトルコ民族もアナトリアを中心にトルコナショナリズムによって世俗的な近代西欧の方式をベースとしたトルコ共和国というネーションステートを成立させ今日に至っている。

尚、「西洋の衝撃」が、オスマン帝国に与えた影響を西欧キリスト教文明に対峙したイスラム世界帝国としてのオスマン帝国という見地から分析した以下のリンクもご参照ください。

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国のようなイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

<参考文献>
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p25
(2)進藤榮一:ポストペレストロイカの世界像 筑摩書房 1992 ペレストロイカの本質 p61-p63
(3)アラン・パーマー:オスマン帝国衰亡史 中央公論社 1998 第三章チューリップ時代とその後 p57
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p61-p62
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p62-p63
(6)鈴木董:帝国とは何か 岩波書店 1997 多様性と開放性の帝国 p160
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p64
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p64
(9)山内昌之:帝国と国民 岩波書店 2004 序章 ひきさかれた帝国 p14
(10)村田雄二郎:帝国とは何か 岩波書店 1997  中国皇帝と天皇  p125-p126

西洋の衝撃で崩壊したかに見える中東安定の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

トランプ大統領シリア

トランプ大統領は、シリアのアサド政権の反政府側市民への毒ガス使用への報復を実行しましたが、これまでシリア情勢の主導権を握っていたロシアとの関係も含めて、果たして複雑な中東情勢に切り込んでいく十分な戦略を持ち合わせているのでしょうか?

1.「同じ啓典の民」としてのキリスト教徒とムスリムの相違
1)初期のキリスト教とイスラムの相違
2)政治的支配者と信仰の関係
2.イスラム的世界秩序と華夷の別の比較
1)「戦争の家」の異教徒の取り扱い
2)異質な存在への対応
3.イスラムにおける国際関係
1)イスラムにおける民族と国家
2)ムハンマドとその後継者の国際的な立場
4.イスラム的世界秩序と西洋の衝撃
1)イスラム的世界秩序の理念
2)西洋の衝撃による激動

1.「同じ啓典の民」としてのキリスト教徒とムスリムの相違

古代キリスト教

それではここで「同じ啓典の民」であるキリスト教徒とムスリムの相違について確認しておきたい。

1)初期のキリスト教とイスラムの相違

キリスト教徒は、イエス・キリストの布教開始以来コンスタンティヌス大帝の改宗まで、三世紀にわたって少数派であり、つねに疑惑の対象であり、またしばしば国家による迫害を受けた。その間にキリスト教徒は独自の組織を広げざるを得ず、抵抗の一環として「教会」を形作った。他方イスラム教の創始者ムハンマドは、自分自身がコンスタンティヌス大帝のようなものだった。彼の在世中にイスラム教徒は政治的にも宗教的にも忠実な信奉者となり、メディナの預言者ムハンマドの共同体は、この預言者自身を地域と人々の統治者と仰ぐ国家となった。ムハンマドの支配者としての活動の記録は「コーラン」と最も古い口述伝承に収められ、現在まで世界中のムスリムの歴史的自己認識の核となっている。(1)
このように体制や国家と宗教との関係が初期のキリスト教徒とムスリムの間では、根本的に相違していた。このためキリスト教においては、国家あるいは敵対する組織に対抗するための「教会組織」が発達しており、宗教としての原体験の段階において抵抗運動的な迫害への耐性が備わっているとも言えよう。

2)政治的支配者と信仰の関係

千夜一夜物語

こうした理由のために預言者ムハンマドとその信奉者にとっては、神かカエサルかという選択は生じなかった。なぜならば支配者=信仰の守護者でもあったからである。しかるに多くのキリスト教徒にとっては、これは罠となる選択であった。ムスリムの教えと体験の中にカエサルは存在しなかった。神は国家の長であり、預言者ムハンマドは神の代理人として教え、支配した。預言者としてのムハンマドには後継者はおらず、イスラムの宗教・政治共同体の最高指導者としてはムハンマドは歴代カリフの始祖だった。このようなカリフの任務は、教義の説明や解釈ではなく、その支持と保護、つまり臣民がこの世で良きムスリムとして人生を送り、来世への準備を整えられるようにすることだった。このような目的のためカリフは、イスラム国家の内部では神から与えられた聖法を維持、擁護し、出来れば国境を広げ全世界にイスラムの光
明を広げることが期待されていた。(2)

2.イスラム的世界秩序と華夷の別の比較

華夷の別

1)「戦争の家」の異教徒の取り扱い

イスラムにおいては、「聖戦」が完遂され全世界的に「戦争の家」が「イスラムの家」と化しても「全人類がムスリムに化する」ことが想定されていたわけではなかった。「戦争の家」の異教徒は、「ハルビー」と呼ばれ交戦相手国の国民のように取り扱われたが、この「ハルビー」は「偶像崇拝者」と「啓典の民」に大別された。このうち偶像崇拝者には「改宗か死か」の選択が迫られたが、「啓典の民」にはムスリムの共同体との契約により被保護民(ズィンミー)として固有の宗教、法、生活習慣を保ちつつ、イスラム法の許容する範囲での自治生活が認められた。(3)

2)異質な存在への対応

イスラム寛容

このようなイスラム的世界秩序観に較べると中華帝国における「華夷の別」のような発想が差別思想ではあるものの、平和的な思想に観えてくる部分もある。中華文明エリアにおいては、「華」が「夷」を武力で教化するようなことは何ら要請されておらず、「夷は華の文化さえ身に付ければ華になる」(4)とされた。とはいえイスラム世界の中においては、「イスラム的寛容」なるものが異質の宗教・民族・価値観を包含しながらも、他の諸地域において異質の価値体系を有する者同士が激しく対立していた状況に比較すると、「相対的に安定した共存関係を実現し維持していた」(5)ことも間違いないところであった。

3.イスラムにおける国際関係

イスラム軍楽隊

1)イスラムにおける民族と国家

イスラムにおける国際関係は、「イスラムの家」と「戦争の家」に属する様々な異教徒の集団との間の関係として捉えられる。また「イスラムの家」も異教徒の諸集団も基本的には「国家」としてではなく「宗教共同体」として捉えられた。これはイスラムが政治と宗教の分化を認
めないことに由来する考え方であり、イスラムとは人間活動のあらゆる分野においてアッラーの命に従うこととされた。またイスラム法も近代的な意味での法律ではなく、あくまで人間活動のあらゆる分野における行動の規範を意味していた。こうして「イスラムの家」に属するムスリムのアイデンティティーの根源は、何よりもムスリムであることに求められた。(6)
このようにイスラムが全てに優先するような考え方からは、民族や国家の概念は後景に退くことになるだろう。イスラム世界においては、近
代に至るまでムスリムか非ムスリムかの違いはあっても民族や国家の区別は無かったというのが、実際のところだったと考えてよいだろう。

2)ムハンマドとその後継者の国際的な立場

ガブリエル

ムスリム共同体の唯一の指導者は、預言者ムハンマドの在世中は、ムハンマドであったが、彼の没後は「地上における預言者ムハンマドの代理人」がつとめることとされた。ムハンマドは、「最後の預言者」とされたので、その後のムスリム共同体の指導者は、あくまでもムハンマドの預言者としての側面ではなく、政治的なリーダーシップの側面を受け継ぐ存在であった。このような指導者はカリフあるいはイマームと呼ばれ、イスラム国際体系の理念においては、「イスラムの家」の唯一の指導者として、イスラムにアイデンティティの根源を持つ構成員を持つ宗教共同体を率いていた。(7)
イスラム共同体は、この世における神の意図が具体化される場所である。彼らを支配するイスラムの統治者は、預言者ムハンマドの後継者であり、預言者が神から預かったメッセージの守護者だった。
「聖法」の維持と適用、その適用範囲の拡大が神から与えられた統治者の義務だった。これを遂行することにあたって原則的には、何の制約も無かった。(8)
イスラムにおけるムハンマドの存在は非常に大きく、歴代のイスラム世界の政治指導者は、ムハンマドの後継者とされたが、ムハンマドの存在は「最後の預言者」として、他の指導者とは画然と区別された。
また政治の構成単位は宗教共同体であって、「宗教」が中心に位置している点が、大きな特徴と言えるだろう。

3)「宗教共同体」間の関係をベースにするイスラム国際体系

ムハンマド

イスラム国際体系の理念においては、「イスラムの家」に対抗する「戦争の家」に属する異教徒も国家や民族で捉えるのではなく宗教共同体として捉えられていた。また「戦争の家」から「イスラムの家」に編入されても集団として存続している場合は、同様に宗教共同体として位置づけられていた。このようにイスラム国際体系の理念は、「宗教共同体」間の関係がベースになっており、「国家」を基本単位とする近代的な国際体系とは異質であった。(9)

4.イスラム的世界秩序と西洋の衝撃

イスラム寺院

1)イスラム的世界秩序の理念

ムスリム国家と異教徒の隣国との間には絶え間ない義務としての戦争状態が続いた。それはいつの日か間違いなく不信仰者に真の信仰を与え、全世界を「イスラムの家」組み入れる勝利で終わるはずだった。同時にイスラム国家と共同体は、啓蒙と真理の宝庫であり、その外側には蛮行と不信が渦巻いている。神がご自身の共同体に与える恩寵はムハンマドの時代から勝利と支配と言う形で証明されてきた。(10)

2)西洋の衝撃による激動

モスク

7世紀にイスラムが勃興して以来、営々として築き上げられてきたこのようなイスラム世界秩序は、その後「西洋の衝撃」の中で動揺し、結果的には西欧型の国民国家体系に組み込まれて解体・崩壊してしまった。他方で中華世界は、乾隆帝時代に確定した清朝最大版図を継承し、「元来の明朝期の中華文明エリアを遥かに超える帝国的枠組み」を堅持して今日に至っている。
次項では「イスラム世界秩序の崩壊」を「オスマン帝国崩壊」の枠組みを援用しながら捉え直し、なぜ「西洋の衝撃」の中で「イスラム世界秩序が崩壊」したのか、について以下のリンクのように検討していく。また「オスマン帝国指導層」あるいはトルコ民族が最終的に選択したトルコ共和国の成立の意味を「帝国としての中華」の在り方と比較しながら考えていきたい。

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国のようなイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

参考文献
(1)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第8章中東諸国家の性格 p200
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第8章中東諸国家の性格 p200
(3)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p18
(4)王柯:「天下」を目指して 農文協 2007 第一章 「天下」のもとでの華夏と四夷 p13
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p19
(6)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p20
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p20-p21
(8)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第16章対応と反発 p427
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p21
(10)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第16章対応と反発 p428

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

スレイマン大帝

ロシアンゲート疑惑の渦中にいるトランプ大統領は、初の外遊先に中東を選びましたが、具体的な中東和平の道筋を示さなかったため関係者間に失望の色も出ているようです。ここでは今後の中東和平のカギとなるオスマン帝国によるイスラム世界秩序安定と崩壊のあり様を検討します。

今回は、主として西洋の衝撃および帝国内の臣民の民族意識の高揚等を主たる要因として取り上げつつ、イスラム世界秩序とオスマン帝国の解体過程を確認していきます。

1.西洋の衝撃はどのような形をとったのか?
1)軍事的政治的脅威以外の要素の影響
2)イスラム世界における民族意識の状況
3)西洋思想の影響による愛国心と民族主義の発揚
2.イスラム世界秩序を体現するオスマン帝国への西洋思想の浸透
1)徐々に浸透する西洋思想
2)バルカン半島の非ムスリム諸国民に浸透する西洋思想
3)ギリシアの独立とその影響の連鎖
3.西洋の衝撃に対応するオスマン帝国側の西洋化改革
1)タンズィマート=オスマン帝国内で本格化する体系的改革
2)明治維新に類似するタンズィマートの方向性
3)タンズィマートの目指したゴール

1.西洋の衝撃はどのような形をとったのか?

1)軍事的政治的脅威以外の西洋の衝撃の影響

オスマン帝国分裂

西洋の衝撃は、外側からの軍事的政治的脅威という要素のみでなく、オスマン帝国の臣民の意識にも影響を与えることとなった。
もともとオスマン帝国においては、各構成員の民族意識は希薄であり、イスラム的な世界帝国の一員として、ムスリム、非ムスリムの両者にとって宗教にアイデンティティの核が存在し、民族や人種は後景に退けられていた。こうした中で、18世紀以降の西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国では、イスラム的世界帝国の概念に揺らぎが生じ、構成員とその所属する集団の枠組みにも徐々に変化の兆しが現れ始めた。(1)

2)イスラム世界における民族意識の状況

カーバ神殿

伝統的なイスラム世界では、キリスト教国と同様に国民と国家はしばしば民族と地域の同義語だった。中東のイスラムの三大民族であるアラブ人とペルシャ人、トルコ人は自分たちの言語や文学、歴史や文化、共通と推測される起源、独特の風俗やしきたりを誇りをもって意識していた。自分たちの出生地への素朴な愛着もあった。郷土愛、地元自慢、郷愁は西欧文学と同じようにイスラム文学でもおなじみのテーマであるが、そこには一切の政治的メッセージは含まれていない。
西欧思想が入ってくる前は、民族や民族の郷土が政治的主体や支配力を持った存在であるという思想が認められも、知られてもいなかった。ムスリムの存在基盤はあくまでも信仰であり、その忠誠心は信仰の名において支配する支配者や王朝に帰属していた。(2)
あくまでもムスリムのアイデンティティにとって信仰が第一義であり、郷土愛や地元への愛着・郷愁はあってもそれは感傷的なもので、政治的な信念や忠誠心にまでつながるようなものでは無かった。これが西欧思想の影響で大きく変化することになったのである。

3)西洋思想の影響による愛国心と民族主義の発揚

イスラム愛国心

愛国心と民族主義は、イスラム世界にとって異質な存在であった。
愛国心とは、単なる出生地への素朴な愛情ではなく政治的なもので、必要とあれば自国への兵役義務を負い、要求があれば政府に金も出すという西欧文明に深く根ざした感情である。英仏米では愛国心は「国内の多様な人種を同じ国民的忠誠心のもとに統一すること」「真の唯一の主権の源は教会でも国家でも無く、国民にあると言う強い確信をもつこと」という二つの思想に結び付いている。また民族主義とは、国家や身分ではなく、「言語」「文化」「共有の出自」などで定義された「民族国家」という概念に繋がる思想であり、日常の現実に当てはまり易く、中東の現実にもぴったり当てはまった。特に民族主義は、中東に紹介されると自由を主張する反体制運動に結び付いた。自由とは外国の支配や分割統治に終止符打つことであり、民族の独立と団結を達成することを意味した。(3)

2.イスラム世界秩序を体現するオスマン帝国への西洋思想の浸透

1)徐々に浸透する西洋思想

ギリシア独立
こうした思想の浸透は、幕末の黒船に似た衝撃がイスラム的世界帝国にも遂に押し寄せてきたということでもあったろうが、この場合の衝撃は極東のビッグバン的なインパクトとしての衝撃よりも、ジワジワとボディブローのように浸透してきたというべきだろう。既述の通りオスマン帝国は西欧諸国と近接しており、通商関係や外交関係の往来は確立していた。こうした中でオスマン帝国への西欧思想の影響はまず バルカンのキリスト教徒臣民の間に浸透していくこととなった。

2)バルカン半島の非ムスリム諸国民に浸透する西洋思想

メフメット二世

西洋の衝撃の主体である西欧諸国は、当時グローバルシステムとなりつつあった近代西欧国際体系のもとで、基本単位としてネーションステートを構成していたが、このネーションステートの構成のアイデンティティの核はいわゆるナショナリズムにより支えられていた。一国民一
民族一国家というような方向性を標榜する近代西欧におけるナショナリズムの影響は、特にバルカン半島の非ムスリム臣民の中にいち早く浸透し、イスラム的世界帝国としてのオスマン帝国の解体を促し、近代西欧の国家のありようをモデルにしたネーションステートを形成していこうという民族独立運動が盛んになっていった。(4)
バルカン半島のキリスト教徒臣民は、「啓典の民」としてムスリム共同体との契約により、人頭税(ジズヤ)や土地税(ハラージ)の支払い
及び一定の行動制限に服することを条件として、保護(ズィンマ)が与えられた被保護民(ズィンミー)として固有の宗教と法と生活習慣を保ちつつ、イスラム法の許容する範囲内で自治生活を営むことが認められていた。(5)
このような「啓典の民」が、自分たちのアイデンティティに目覚める過程でオスマン帝国はその存立基盤を徐々に犯されていくことになっ
た。

3)ギリシアの独立とその影響の連鎖

バルカン独立
特にギリシア人は、オスマン帝国支配下にあっても伝統的に通商や留学を通じて西欧とのつながりが深かったため、他より早く18世紀後半にナショナリズムが高揚し、19世紀にはほぼバルカン全域がナショナリズムに呑み込まれた。
これらの動きはバルカンの諸民族が、主権平等のネーションステートを成立させ、グローバルシステムとしての近代西欧国際体系に積極的に参加していこうとする民族独立運動につながり、1830年のギリシア独立以降は19世紀から20世紀初頭にかけて続々と独立に成功していくことになった。(6)

3.西洋の衝撃に対応するオスマン帝国側の西洋化改革

タンジマート

1)タンズィマート=オスマン帝国内で本格化する体系的改革

西洋の衝撃が、外からの軍事的政治的脅威に加えて、内からのキリスト教徒臣民のナショナリズム覚醒と民族独立運動の発展という脅威として作用してきた中で、18世紀終わり以降にオスマン帝国側においても従来の伝統主義的な小手先の改革を放棄した、本格的な西洋化を目指す体系的な改革が行われ始めた。(7)
オスマン帝国支配層も復古主義的な改革だけでは、これまでに無い多様な危機に対処してオスマン帝国の質的改善に取り組むのに不十分であるという認識にようやく至ったということであろう。
タンズィマートと呼ばれる一連の体系的西洋化に基づく改革は、開明的な実務官僚によって担われたが、彼らは自らもフランス語を中心とする西欧諸国語に通じ、西欧諸国に駐在経験を持つ直接の西欧経験を持つ人々であった。(8)

2)明治維新に類似するタンズィマートの方向性

明治維新

日本の明治維新期においては、伊藤博文をはじめとする元勲クラスの多くの藩閥官僚が西欧への留学経験を持っていた。しかるに、清朝の儒家正統系の科挙官僚や満洲旗人にそのような海外体験を持った存在を目にすることは困難であった。そういう意味では、オスマン帝国のタンズィマートは、その結末はともかくとしてより本質的で西欧の実態を把握した上での根本的な改革を志向する明治維新にも類似する画期的なものであったと受け止められよう。一方で清朝における改革が西洋の発展の本質を十分に理解しないまま行われた、小手先のものにとどまった理由もこのあたりにあるかも知れない。ただし、これは長期的に観れば正解だったとも言えるのではないか。結果的に、「オスマン帝国は、イスラム的な本質を見失って解体崩壊消滅の道を辿った」(9)のに対して、中華帝国は頑迷固陋なまでに西洋との距離を保ち続けながらも結局「従来の中華文明エリアをはるかに超える清朝最大版図を継承して中華帝国としての一体性を維持」することに成功している。また西洋と距離を置くと言う意味では、「天安門事件において明確になった今日の議会制民主主義への中国共産党の独自の認識」(10)にまで行きつくのではないだろうか。

3)タンズィマートの目指したゴール

ケマルパシャ
オスマン帝国のタンズィマート推進者達にとっては、支配組織の合理化を通じて直接の軍事的政治的外圧に対処しつつ、帝国領内の非キリスト教徒臣民のナショナリズムと民族独立運動による帝国解体の危機にいかに対応するかが喫緊の急務であった。この時の対応策として、西洋化の推進者達はオスマン帝国の構成員のアイデンティティを宗教におくイスラム的世界帝国から世俗的多民族国家に転換することを目指した。(11)

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国が確立していたイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

参考文献
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p59
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第17章新しい思想 p458
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第17章新しい思想 p458-p460
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p59-p60
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p18
(6)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p60
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p60-p61
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p61
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p65
(10)野村浩一:現代中国 民主化運動と中国社会主義 岩波書店 1990 中国の権力と伝統 p198
(11)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p61

西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析から現下の中東問題の本質を解明!

カーバ神殿

トランプ大統領が初の外遊先に選び、その解決に意欲を燃やす中東問題の本質を、イスラムにより構築された世界秩序を中心に、それ以前の中東文明の特徴も視野に入れて詳細に分析、検討する。

1.中東文明の特徴
1)中東、中国、インドの古代文明の比較
2)古代以来の中東文明の特徴
3)大変動の連続により忘れ去られた古代文明の遺産
2.中東における古代文明抹殺の要因
1)ヨーロッパにおける古代文明の継承
2)中東における古代文明の位置づけ
3)新たに成立したイスラムへの確信と信念
3.ムスリムが認識する世界の状況
1)イスラムとは何か
2)「イスラムの家」と「戦争の家」の区別
4.イスラムにとっての世界認識
1)東部、南部地域の異教徒への認識
2)西方地域の異教徒=キリスト教徒への認識

1.中東文明の特徴

ハムラビ法典

イスラムについて言及する前に、まずは中東文明の特徴について観ておきたい。

1)中東、中国、インドの古代文明の比較

中東は、元来世界で最も古い古代文明発祥地の一つであったが、同様に古代より文明の中心地となってきた中国やインドに比較すると「多様性」「不連続性」と言う二つの特徴が存在する地域でもあった。
他方で中国文明は、初期から今日に至るまで一貫して「同じ言語」「同じ文字」「同じ宗教・哲学」を奉じてきた。これは夷狄に対する「中華文明」として認識されてきており、今日の中華人民共和国に至るまで自己認識の連続性が存在し、天下思想が裏返ったような形での中華民族にもつながる中国文明を共有してきた。
またインドについても「ヒンドゥー教」「ナーガリー文字」「サンスクリット語」の古典や経典などはインド文明を貫く支配的な要素であり、インド人の間では古代から現在に至るまで一貫する本質的なものと認識されている。(1)
中国もインドもこのように古代以来一貫してその文明の中核となる古典文化の精髄を継承発展させてきたことは事実であり、歴史的な変遷の中でも、このような中核的要素が完全に拡散したり消滅したりするような事態は発生しなかった。

2)古代以来の中東文明の特徴

ラクダ,隊商

しかるに古代以来の中東には、そのような一貫性はなく。古代から現代までの連続性も無かった。古代においても中東の文明は多様性に富んでおり、「漢字」や「ナーガリー文字」、「儒教哲学」や「ヒンドゥー教信仰」のような共通の結合要素は無かった。また初期のこのような違い以上に、古代中東では不連続性と言う特徴が指摘出来る。
中国やインドでは古代以来の学問の記録が現在に至るまで大切にされ研究されてきているが、中東においては古代文明の遺産は紛失したり忘れられたり、葬り去られてきた。中東の諸言語は死語となり、原典に残された文字は誰も読めなくなった。古代に信仰された神々も一部の研究者しか把握していない状況にある。さらに言えば、中国やインドに匹敵するその文明エリアを示す具体的な集合名詞すら存在しない。「中東」とは具体性の無い方位や方角を現わす言葉に過ぎないのである。(2)
確かにメソポタミア文明、チグリス・ユーフラテス文明、ハンムラビ法典を産んだバビロニア文明などについても今日まで連綿と受け継がれてきたものは無いに等しいのが実情であろう。かのハンムラビ法典にしても同地でその内容が語り継がれてきたわけでもなかった。

3)大変動の連続により忘れ去られた古代文明の遺産

古代文明

このような中国、インドと中東の相違の原因は何かと言えば、中東には一連の社会的大変動の波が何度も押し寄せたのが原因と言える。すなわち主として4つの大変動がこの地域に津波にように押し寄せたのであった。それらはギリシア化、ローマ化、キリスト教化、イスラム化の4つであり、このような大変動が進行する間に古代中東の文字文化は大半が消し去られてしまった。当然ながら最後の波であるイスラム化の影響は最も大きく、7世紀以来この地域の大勢を特徴づけることとなった。古代エジプト語、アッシリア語、バビロニア語、ヒッタイト語、古代ペルシア語その他の言語は捨て去られ、東洋学者達の手で解読されるまでは、現地でも全く忘れ去られていた。このようなわけで中東地域の集団的な自意識の中で古代文明と自分達との関連に関する自覚は、中華文明やインド文明に対するそれぞれの文明圏の人々の感覚に較べて、著しく希薄である。(3)

2.中東における古代文明抹殺の要因

マホメット

それではなぜそのようなことが起きたのか、中国でもインドでも強大な武力を持つ他文化の他民族による支配に服するような事態は発生したにもかかわらず、中東のように古代文明が抹殺されることが無かったのはなぜか。ここでは、中国・インドでは無くヨーロッパを比較対象として検討してみよう。

1)ヨーロッパにおける古代文明の継承

ヨーロッパにおいては、古代文明圏としてローマ帝国が存在した。その西ローマ帝国を壊滅させたゲルマン民族たちは、自らの統治体制において、少なくともローマ帝国の形態や組織の維持に大きな努力を傾注した。彼らはローマ帝国の宗教であるキリスト教を取り入れ、その言語であるラテン語の使用を目指し、自分達の習慣をローマ帝国政府と法律の枠組みに合わせようと努めた。
こうしてゲルマン民族は、自分たちがローマ帝国の正統性を継承する存在であることを証明しようとしたのであった。(4)
このように「夷狄」が「中華」に憧れ、自分達の支配の正統性の根拠を支配された側の高度な文明の継承者であると証明することに求めるというような現象は、何も「中華文明」エリアだけでなく、ローマ帝国の遺領においても発生していたわけである。これに対して、中東では何が起こったのか。

2)中東における古代文明の位置づけ

コーラン

中東や北アフリカのキリスト教徒ローマ帝国の領土の大半を征服したムスリム・アラブ人は、古代ローマ文明を尊重したり、支配正統性をローマ帝国の継承に依存するようなことは一切無かった。
彼らは自分たちの宗教であるイスラム、自分たちの言語であるアラビア語、自分たちの聖典である「コーラン」を持ちこみ、独自の帝国をつ
くりあげた。イスラム支配の到来は、新しい社会、新しい政治組織の始まりを示し、イスラムはその主体意識の基盤であり、正統性と権威の源であった。

3)新たに成立したイスラムへの確信と信念

カーバ神殿

この新たに樹立されたイスラム社会では、アラビア語がヘレニズム社会のギリシア語、ヨーロッパのラテン語、インドにおけるサンスクリット語、中国における漢字と同じような役割を果たした。(5)
他者あるいは他文明支配の正統性の根拠が、多分に独りよがりの感はあるものの、確信と信念を持ってイスラムが正統であると言いきれる存在がムスリムであった。このようなムスリム・アラブ人にとっては、自分達の持ちこむイスラムの信仰、アラビア語、コーランが絶対的な存在で、元々現地に存在した文明は「過去の遺物として公然とは認められず、正統性も与えられなかった」(6)のである。
このようなムスリムたちにとって、世界のありようはどのように受け止められていたのであろうか。

3.ムスリムが認識する世界の状況

ウィーン包囲

1)イスラムとは何か

イスラムとは、預言者ムハンマドによって伝えられた唯一神アッラーの教えに「帰依」することを意味し、その教えを受け入れた者を「ムスリム(帰依者)」と呼ぶ。ムスリムにとって、人の住む世界は「イスラムの家」と「戦争の家」に二分される。このうち「イスラムの家」とはムスリムの支配下に入り、イスラム法が十全に行われているような地域を意味する(7)
このようにイスラム世界は、預言者ムハンマドがアッラーの教えを伝えたことに由来する「イスラム教」という宗教をベースに成り立ってお
り、その社会や文化・風俗への浸透の度合いも中華帝国における儒教に匹敵するものであったと言えよう。

2)「イスラムの家」と「戦争の家」の区別

イスラムの家

「イスラムの家」に対する「戦争の家」は、ムスリムの支配下に入らず異教徒の支配下にあって、イスラム法の行われていない地域を意味する。従って「戦争の家」は多種多様な異教徒や共同体がせめぎ合う世界であった。これに対して、「イスラムの家」は実態はともかく、理念上は唯一の指導者のもとにある統一体と考えられムスリム諸国家が並存する状況は想定されていなかった。(8)
「戦争の家」に関しては、実態通りであろうが、「イスラムの家」については、アッバース朝成立当時の後ウマイヤ朝の成立や10世紀のア
ッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝の三人のカリフの鼎立状況の発生などにより形骸化していった。これらの政治体は通常「ダウラ」と呼ばれ、本来の統一体としての姿を失った「イスラムの家」における「ダウラ」の支配の正統性を理論的に根拠づける試みも行われ た。
これは「普遍的なイスラム法の秩序を、それぞれの地域で守り実行する」(9)と言う点に求められた。
イスラム的世界秩序観は、「イスラムの家」が「戦争の家」を次第に包摂していき、全世界が「イスラムの家」となることが予定される世界
観であり、そのための手段としてはムスリムの不断の努力としての「ジハード」が要請されていた。この「ジハード」はあらゆる手段が考えられるが、主として軍事的な「聖戦」がベースとされた。(10)

4.イスラムにとっての世界認識

モンゴル,イスラム

1)東部、南部地域の異教徒への認識

歴史・地理関連文書に反映されているイスラム国境以遠の諸地域に対する認識の仕方は、場所によって明確な違いがあった。イスラム世界の東部と南部にはムスリムにとって、学ぶべきものをたくさん持っている文明人も野蛮人もいたが、イスラムの信仰に関しては真剣に立ち向かってくる相手はおらず、イスラム世界にとってのゆゆしきライバルはいなかった。異教徒は比較的素直でイスラム世界へ引き入れやすく、実際にそういう道を選んだ人が多かった。中国やインドは一度もイスラム世界に挑戦することも無く、脅威にもならなかった。モンゴル族は大きな影響を与えたが、やがて自身がイスラムに改宗しイスラム世界の拡大に貢献した。(11)
確かに中国もインドも進んでイスラム世界に侵入したことは無かった。清朝最大版図を形成した乾隆帝も既述の通り、東トルキスタンを征服しながら、西トルキスタンには決して侵攻しようとはしなかったということもある。両文明圏ともに、異なる文明圏にまで手を広げることには慎重であったということであろうか。

2)西方地域の異教徒=キリスト教徒への認識

十字軍

ところが西方とりわけイスラム世界の北西国境に位置するギリシアやローマなどのヨーロッパ・キリスト教国では状況が違い、ここではムスリムもライバル達が、自分たちと同じように神の最終的啓示の保持者であり、その信仰を全人類に広める義務があるという使命感を抱いた世界的宗教の信者であると言うことをはっきり認めていた。こうしたことからムスリムにとっては、異教徒と言えばキリスト教徒を意味するようになり、「戦いの家」と言えばキリスト教徒ヨーロッパを指すようになっていった。(12)

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国のようなイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

参考文献
(1)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p345-p346
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p346
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p346-p347
(4)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p347
(5)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p347-p348
(6)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p348
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p27
(10)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(11)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第14章西欧からの挑戦 p384-p385
(12)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第14章西欧からの挑戦 p385

西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国が確立していたイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

千夜一夜物語
トランプ政権は、エルサレム首都承認をいち早く宣言する中で、中東情勢混迷の淵源たる西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国による安定したイスラム的世界秩序の後に発生した、パレスチナ問題やアルカイダ、イスラム国などのイスラム過激派問題、反米イランへの対処などをオバマ政権より要領よく解決出来るのでしょうか?

今回は、「西洋の衝撃」にさらされたオスマン帝国の国家再建に向けた長期的な取り組みを検討します。

1.オスマン帝国にとっての「西洋の衝撃」
1)オスマン帝国と中華帝国の西洋の衝撃度の比較
2)西欧にとってのオスマン帝国の衝撃
2.オスマン帝国にとっての西欧キリスト教世界
1)聖戦遂行対象としての西欧キリスト教世界
2)近接するライバルを有するオスマン「世界帝国」
3)オスマン帝国と西欧キリスト教世界の共存関係の成立
3.西欧キリスト教世界の優位とオスマン帝国の衰退傾向
1)オスマン帝国と西欧の力関係の逆転
2)オスマン帝国に蔓延する復古主義的な国力回復論
3)オスマン帝国内での本質的な改革論の芽生え

1.オスマン帝国にとっての「西洋の衝撃」

ウィーン包囲

1)オスマン帝国と中華帝国の西洋の衝撃度の比較

オスマン帝国にとっての「西洋の衝撃」は、中華帝国にとって青天の霹靂のように突如としてあらわれたものというよりも緩やかに段々と訪れてきたものと言えよう。すなわちオスマン帝国は、西欧キリスト教世界と近接しており、対立と交流の中でオスマン優位から西洋優位に転換していくような形をとっていた。
逆に言うと、オスマン帝国は西欧にとって、長らくイスラムの衝撃の主体であり、1683年に至っても第二次ウィーン包囲を実現するなどその勢力は西欧世界にとって脅威のレベルを維持していた。(1)

2)西欧にとってのオスマン帝国の衝撃

スレイマン大帝

スルタン・メフメット四世は3000万人以上の臣民を持つ国王だったのであり、これはフランスのルイ14世の2倍、神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世の6倍であった。ドナウ川流域での思いがけない敗北のあともオスマン帝国はまだまだ侮りがたい大国だった。(2)
イスラムのヨーロッパへの貢献は計り知れないほど大きい。その中には、イスラム独自のものもあれば、彼らが地中海東岸部の古代文明やはるか彼方のアジアの文化から取り入れ、加工したものもある。ギリシアの科学や哲学はヨーロッパでは忘れられたが、ムスリムはそれに改良を加え、保持した。
中世のヨーロッパはインドの数字、中国の紙、オレンジやレモン、綿や砂糖、様々な種類の植物とその栽培法など、少数の例外を除いて大部分を地中海沿岸の自分たちよりずっと進んだ高度の文明を持つイスラム世界から学んだり入手したりした。(3)

2.オスマン帝国にとっての西欧キリスト教世界

1)聖戦遂行対象としての西欧キリスト教世界

コンスタンティノープル陥落

このようにオスマン帝国と西欧諸国との関係は、中華帝国と西欧諸国との関係とは全く異なり近隣関係とでもいうべきものであった。
中華帝国にとっての西欧諸国の存在は、自ら支配する天下の外縁のそのまた遥かな彼方に存在する別世界のような様相を呈していたのに較べると、オスマン帝国にとっての西欧はまさに眼前の敵であり、征服すべき異教徒であり、コンスタンティノープルの陥落の実績も示す通り、ある時点までは畏怖するほどのこともない存在であった。
宗教にアイデンティティの根源をおく、イスラム的世界帝国としてのオスマン帝国においては、その国際体系観もまた、イスラム世界の伝統を踏まえたものであった。そこでは、人間の住む世界は、「イスラムの家」と「戦争の家」に明確に分かれており、二つの部分は不断の対立と緊張の関係にあるものとして捉えられていた。こうした前提のもとでのオスマン帝国の最大の存在理由は、「イスラムの家」の拡大のための聖戦の遂行であり、西欧キリスト教世界は目前の「戦争の家」として聖戦遂行対象として取り扱われた。(4)

2)近接するライバルを有するオスマン「世界帝国」

オスマン世界帝国

「中華帝国」の外延にも帝国の存亡を揺るがすような騎馬民族が常に存在し、外征や万里長城による辺境防衛強化等で対応する必要があった。このように軍事的には圧倒的に優勢な騎馬民族も「中華」から観れば、文明的には夷狄であり、到底対等とは考えられない存在であった。しかるにオスマン帝国に隣接する西欧キリスト教世界は、16世紀においてもギリシア・ローマ以来の文明の延長線上でキリスト教と言う共通の価値観を有し、徐々にその国力を強めつつあった。そういう意味で、オスマン帝国はその初期の段階から高い文明を持ち、価値観の相容れないライバルに近接する位置関係を有する「世界帝国」であったと言えよう。

3)オスマン帝国と西欧キリスト教世界の共存関係の成立

ヴェネチア

オスマン帝国は、その成立の当初から西欧キリスト教世界に対する聖戦を連年遂行しながらも、その一方で絶えざる交流も存在していた。東西通商の接点に位置するオスマン帝国にとっては、ヴェネツィアをはじめとする西欧諸国との交易を継続して利益をあげることが重要であり、「イスラムの家」たるオスマン帝国と「戦争の家」に属する諸国との間の長期的で安定した外交関係も徐々に成立することとなった。(5)
オスマン帝国とヴェネツィア等との交易は、朝貢のような形式を取らず都市の市場を通じて行われた。(6)またオスマン帝国と西欧キリスト教諸国の外交関係の恒常化やヴェネツィア大使の常駐のオスマン帝国からの使節の派遣などは、そのような国際関係に関する知識や技術を蓄積する過程でオスマン帝国の有する伝統的なイスラム的世界秩序観のイメージと現実の変容過程に影響を与えたことは間違いないだろう。(7)少なくともアヘン戦争以前の中華帝国には朝貢や互市関係、保護国、藩部と言った国際関係しかなく、対等な外交関係は望むべくもなかったことを考えれば、オスマン帝国の国際感覚は、その環境面からも研ぎ澄まされていったであろうことは想像に難くない。

3.西欧キリスト教世界の優位とオスマン帝国の衰退傾向

1)オスマン帝国と西欧の力関係の逆転

ルイ14世

第二次ウィーン包囲失敗ののち1699年のカルロヴィッツ条約においてオスマン帝国はハンガリーを喪失した段階において、東西の力関係がようやくはっきりと西欧側有利に変化したように受け止められる。しかるに、この段階においてもオスマン帝国支配層の間では、重大な国際関係上の地位の後退であり、危機的事態は認識しつつも、西欧とオスマンとの彼我の関係が根本的に西欧側優位に転換しつつあることを把握していなかった。
西欧においては、この時期に平等の主権国家を基本単位とするグローバル・システムとしての近代西欧国際体系が確立されつつあったが、オスマン帝国の支配層は伝統的なイスラム的な世界観に縛られ、伝統的なモデルに基づいて行動していた。(8)
この時のオスマン帝国支配層の認識としては、パラダイムの変化というような意識はなく、単に内政改革や緊張感の維持、士気の高揚といった要素を強調することで、目前の危機から脱出できるとの確信があった、とみられる。このような感覚はオスマン帝国と西欧世界の交流やオスマン帝国側の外交経験や西欧世界に関する「十分な深い認識がある」との確信により、当事者として事態の変化を敏感に感じ取ることを困難にさせたことはありうるだろう。

2)オスマン帝国に蔓延する復古主義的な国力回復論

トルコ国旗
また「西洋の衝撃」=西欧側の力関係の向上以前からオスマン帝国の内政は混乱をきたしており、それに対する対策論や改革論が日常的に論じられ、スレイマン大帝時代の黄金期に復古するべきとの論調が主流となる風潮の中で、「カルロビッツ条約」以降の勢力退潮の傾向も同様な文脈で語られる状況が蔓延していた。(9)
国力の衰退を絶頂期への復古主義によって克服しようと言う方向性はどこでも観られるところであり、枚挙に暇がないとも言えるだろう。
18世紀半ばの国力が衰退した清朝において流布した乾隆帝の極盛期を理想化した魏源の「聖武記」のような大清賛美論(10)は、スレイマン大帝の黄金期を賛美する議論と軌を一にすると思われる。そしてこのような空論的な議論が行われる時、国力は一層傾いていくケースも数多い。
ただし、「カルロビッツ和約」が、一部の人が書いているようなオスマン帝国にとって思いがけない不幸な出来事と言うわけでもなかった。
この和平条約で、トルコは西側からの挑戦を回避することが出来、おかげでロシアからの脅威やアジアでの危機への対処が可能になるという副産物ももたらした。(11)

3)オスマン帝国内での本質的な改革論の芽生え

イスタンブール

オスマン帝国側の危機感が復古主義的な黄金期への回帰で解決されるという論調が主流的な中で、一方では伝統への復帰のみでは新しい事態に対応しきれないという考え方も早くも18世紀初頭より育ち始めていた。
この中では伝統的体制は維持しつつ、部分的に西欧の新知識と技術を導入し、部分的な革新を行うことが目指された。このような対応の例としては、1719年にオスマン帝国大宰相が、フランスに使節を派遣するにあたり「政治的任務の他に、フランスの繁栄の手段と学術について」も調査せよと命じ、これを受けて、この時の大使がフランスの文明、風俗についての詳細な報告書を提出したということがあった。(12)
このような具体的な対応の中で、オスマン帝国の西洋認識は着実に深まっていったことは間違いないだろう。またこのような経験値が「西洋の衝撃」の緩衝材となり、オスマン帝国の突然の弱体化や崩壊をある程度緩和する役割を果たしたことは間違いないと認識される。
とはいえ、このような「西洋優位」との認識に基づく対応は、一方で一層の西欧への反発と伝統への回帰の傾向ももたらした。これによりオスマン帝国の政治は、18世紀から19世紀にかけて開明派と伝統派の闘争を生み出すこととなっていく。(13)

尚、本稿に関連して、西洋の衝撃によりオスマン帝国あるいはイスラム世界秩序がどのように変容していったかについては、以下のリンクにて詳しく分析しております。
西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!

さらにイスラム世界秩序とは、そもそもどのようなものだったのかについては、以下のリンクにて取り扱っております。
西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

トランプ大統領が故意に混乱させる中東の基本構造をイスラム分析の視点から考察する!

西洋の衝撃への対処の失敗がオスマン帝国崩壊=イスラム世界秩序解体に直結した!

参考文献
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p54
(2)アラン・パーマー:オスマン帝国衰亡史 中央公論社 1998 第二章 西欧からの挑戦 p34
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第14章西欧からの挑戦 p386
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p54
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p55
(6)飯田巳貴:近世のヴェネツィア共和国とオスマン帝間絹織物交易
第2章17世紀前半のイスタンブル公定価格(ナルフ)台帳からみる絹織物消費市場 p48
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p54
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p55
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p55-p56
(10)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第四章 さまよえる儒学者と聖なる武力 p220-p221
(11)アラン・パーマー:オスマン帝国衰亡史 中央公論社 1998 第二章 西欧からの挑戦 p49
(12)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p56-p57
(13)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p57