帝国支配の本質とその統治構造!

トランプ時代を迎えた世界の緊迫した情勢を帝国をキーワードに把握し、世界及び日本の在り方を包括的に検討し、アメリカがアメリカファーストに走る状況下での日本、中国、中東、欧州の対応を構想する。 

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西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国が確立していたイスラム世界秩序をトランプ政権は再建可能か?

      2018/12/04

千夜一夜物語
トランプ政権は、エルサレム首都承認をいち早く宣言する中で、中東情勢混迷の淵源たる西洋の衝撃で崩壊したオスマン帝国による安定したイスラム的世界秩序の後に発生した、パレスチナ問題やアルカイダ、イスラム国などのイスラム過激派問題、反米イランへの対処などをオバマ政権より要領よく解決出来るのでしょうか?

今回は、「西洋の衝撃」にさらされたオスマン帝国の国家再建に向けた長期的な取り組みを検討します。

1.オスマン帝国にとっての「西洋の衝撃」
1)オスマン帝国と中華帝国の西洋の衝撃度の比較
2)西欧にとってのオスマン帝国の衝撃
2.オスマン帝国にとっての西欧キリスト教世界
1)聖戦遂行対象としての西欧キリスト教世界
2)近接するライバルを有するオスマン「世界帝国」
3)オスマン帝国と西欧キリスト教世界の共存関係の成立
3.西欧キリスト教世界の優位とオスマン帝国の衰退傾向
1)オスマン帝国と西欧の力関係の逆転
2)オスマン帝国に蔓延する復古主義的な国力回復論
3)オスマン帝国内での本質的な改革論の芽生え

1.オスマン帝国にとっての「西洋の衝撃」

ウィーン包囲

1)オスマン帝国と中華帝国の西洋の衝撃度の比較

オスマン帝国にとっての「西洋の衝撃」は、中華帝国にとって青天の霹靂のように突如としてあらわれたものというよりも緩やかに段々と訪れてきたものと言えよう。すなわちオスマン帝国は、西欧キリスト教世界と近接しており、対立と交流の中でオスマン優位から西洋優位に転換していくような形をとっていた。
逆に言うと、オスマン帝国は西欧にとって、長らくイスラムの衝撃の主体であり、1683年に至っても第二次ウィーン包囲を実現するなどその勢力は西欧世界にとって脅威のレベルを維持していた。(1)

2)西欧にとってのオスマン帝国の衝撃

スレイマン大帝

スルタン・メフメット四世は3000万人以上の臣民を持つ国王だったのであり、これはフランスのルイ14世の2倍、神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世の6倍であった。ドナウ川流域での思いがけない敗北のあともオスマン帝国はまだまだ侮りがたい大国だった。(2)
イスラムのヨーロッパへの貢献は計り知れないほど大きい。その中には、イスラム独自のものもあれば、彼らが地中海東岸部の古代文明やはるか彼方のアジアの文化から取り入れ、加工したものもある。ギリシアの科学や哲学はヨーロッパでは忘れられたが、ムスリムはそれに改良を加え、保持した。
中世のヨーロッパはインドの数字、中国の紙、オレンジやレモン、綿や砂糖、様々な種類の植物とその栽培法など、少数の例外を除いて大部分を地中海沿岸の自分たちよりずっと進んだ高度の文明を持つイスラム世界から学んだり入手したりした。(3)

2.オスマン帝国にとっての西欧キリスト教世界

1)聖戦遂行対象としての西欧キリスト教世界

コンスタンティノープル陥落

このようにオスマン帝国と西欧諸国との関係は、中華帝国と西欧諸国との関係とは全く異なり近隣関係とでもいうべきものであった。
中華帝国にとっての西欧諸国の存在は、自ら支配する天下の外縁のそのまた遥かな彼方に存在する別世界のような様相を呈していたのに較べると、オスマン帝国にとっての西欧はまさに眼前の敵であり、征服すべき異教徒であり、コンスタンティノープルの陥落の実績も示す通り、ある時点までは畏怖するほどのこともない存在であった。
宗教にアイデンティティの根源をおく、イスラム的世界帝国としてのオスマン帝国においては、その国際体系観もまた、イスラム世界の伝統を踏まえたものであった。そこでは、人間の住む世界は、「イスラムの家」と「戦争の家」に明確に分かれており、二つの部分は不断の対立と緊張の関係にあるものとして捉えられていた。こうした前提のもとでのオスマン帝国の最大の存在理由は、「イスラムの家」の拡大のための聖戦の遂行であり、西欧キリスト教世界は目前の「戦争の家」として聖戦遂行対象として取り扱われた。(4)

2)近接するライバルを有するオスマン「世界帝国」

オスマン世界帝国

「中華帝国」の外延にも帝国の存亡を揺るがすような騎馬民族が常に存在し、外征や万里長城による辺境防衛強化等で対応する必要があった。このように軍事的には圧倒的に優勢な騎馬民族も「中華」から観れば、文明的には夷狄であり、到底対等とは考えられない存在であった。しかるにオスマン帝国に隣接する西欧キリスト教世界は、16世紀においてもギリシア・ローマ以来の文明の延長線上でキリスト教と言う共通の価値観を有し、徐々にその国力を強めつつあった。そういう意味で、オスマン帝国はその初期の段階から高い文明を持ち、価値観の相容れないライバルに近接する位置関係を有する「世界帝国」であったと言えよう。

3)オスマン帝国と西欧キリスト教世界の共存関係の成立

ヴェネチア

オスマン帝国は、その成立の当初から西欧キリスト教世界に対する聖戦を連年遂行しながらも、その一方で絶えざる交流も存在していた。東西通商の接点に位置するオスマン帝国にとっては、ヴェネツィアをはじめとする西欧諸国との交易を継続して利益をあげることが重要であり、「イスラムの家」たるオスマン帝国と「戦争の家」に属する諸国との間の長期的で安定した外交関係も徐々に成立することとなった。(5)
オスマン帝国とヴェネツィア等との交易は、朝貢のような形式を取らず都市の市場を通じて行われた。(6)またオスマン帝国と西欧キリスト教諸国の外交関係の恒常化やヴェネツィア大使の常駐のオスマン帝国からの使節の派遣などは、そのような国際関係に関する知識や技術を蓄積する過程でオスマン帝国の有する伝統的なイスラム的世界秩序観のイメージと現実の変容過程に影響を与えたことは間違いないだろう。(7)少なくともアヘン戦争以前の中華帝国には朝貢や互市関係、保護国、藩部と言った国際関係しかなく、対等な外交関係は望むべくもなかったことを考えれば、オスマン帝国の国際感覚は、その環境面からも研ぎ澄まされていったであろうことは想像に難くない。

3.西欧キリスト教世界の優位とオスマン帝国の衰退傾向

1)オスマン帝国と西欧の力関係の逆転

ルイ14世

第二次ウィーン包囲失敗ののち1699年のカルロヴィッツ条約においてオスマン帝国はハンガリーを喪失した段階において、東西の力関係がようやくはっきりと西欧側有利に変化したように受け止められる。しかるに、この段階においてもオスマン帝国支配層の間では、重大な国際関係上の地位の後退であり、危機的事態は認識しつつも、西欧とオスマンとの彼我の関係が根本的に西欧側優位に転換しつつあることを把握していなかった。
西欧においては、この時期に平等の主権国家を基本単位とするグローバル・システムとしての近代西欧国際体系が確立されつつあったが、オスマン帝国の支配層は伝統的なイスラム的な世界観に縛られ、伝統的なモデルに基づいて行動していた。(8)
この時のオスマン帝国支配層の認識としては、パラダイムの変化というような意識はなく、単に内政改革や緊張感の維持、士気の高揚といった要素を強調することで、目前の危機から脱出できるとの確信があった、とみられる。このような感覚はオスマン帝国と西欧世界の交流やオスマン帝国側の外交経験や西欧世界に関する「十分な深い認識がある」との確信により、当事者として事態の変化を敏感に感じ取ることを困難にさせたことはありうるだろう。

2)オスマン帝国に蔓延する復古主義的な国力回復論

トルコ国旗
また「西洋の衝撃」=西欧側の力関係の向上以前からオスマン帝国の内政は混乱をきたしており、それに対する対策論や改革論が日常的に論じられ、スレイマン大帝時代の黄金期に復古するべきとの論調が主流となる風潮の中で、「カルロビッツ条約」以降の勢力退潮の傾向も同様な文脈で語られる状況が蔓延していた。(9)
国力の衰退を絶頂期への復古主義によって克服しようと言う方向性はどこでも観られるところであり、枚挙に暇がないとも言えるだろう。
18世紀半ばの国力が衰退した清朝において流布した乾隆帝の極盛期を理想化した魏源の「聖武記」のような大清賛美論(10)は、スレイマン大帝の黄金期を賛美する議論と軌を一にすると思われる。そしてこのような空論的な議論が行われる時、国力は一層傾いていくケースも数多い。
ただし、「カルロビッツ和約」が、一部の人が書いているようなオスマン帝国にとって思いがけない不幸な出来事と言うわけでもなかった。
この和平条約で、トルコは西側からの挑戦を回避することが出来、おかげでロシアからの脅威やアジアでの危機への対処が可能になるという副産物ももたらした。(11)

3)オスマン帝国内での本質的な改革論の芽生え

イスタンブール

オスマン帝国側の危機感が復古主義的な黄金期への回帰で解決されるという論調が主流的な中で、一方では伝統への復帰のみでは新しい事態に対応しきれないという考え方も早くも18世紀初頭より育ち始めていた。
この中では伝統的体制は維持しつつ、部分的に西欧の新知識と技術を導入し、部分的な革新を行うことが目指された。このような対応の例としては、1719年にオスマン帝国大宰相が、フランスに使節を派遣するにあたり「政治的任務の他に、フランスの繁栄の手段と学術について」も調査せよと命じ、これを受けて、この時の大使がフランスの文明、風俗についての詳細な報告書を提出したということがあった。(12)
このような具体的な対応の中で、オスマン帝国の西洋認識は着実に深まっていったことは間違いないだろう。またこのような経験値が「西洋の衝撃」の緩衝材となり、オスマン帝国の突然の弱体化や崩壊をある程度緩和する役割を果たしたことは間違いないと認識される。
とはいえ、このような「西洋優位」との認識に基づく対応は、一方で一層の西欧への反発と伝統への回帰の傾向ももたらした。これによりオスマン帝国の政治は、18世紀から19世紀にかけて開明派と伝統派の闘争を生み出すこととなっていく。(13)

尚、本稿に関連して、西洋の衝撃によりオスマン帝国あるいはイスラム世界秩序がどのように変容していったかについては、以下のリンクにて詳しく分析しております。
西洋の衝撃にさらされたオスマン帝国=イスラム世界秩序の崩壊過程を検証する!
さらにイスラム世界秩序とは、そもそもどのようなものだったのかについては、以下のリンクにて取り扱っております。
西洋の衝撃で崩壊したイスラム世界秩序と中東文明の分析からトランプ政権が直面する中東問題の本質を解明!

参考文献
(1)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p54
(2)アラン・パーマー:オスマン帝国衰亡史 中央公論社 1998 第二章 西欧からの挑戦 p34
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第14章西欧からの挑戦 p386
(4)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p54
(5)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p55
(6)飯田巳貴:近世のヴェネツィア共和国とオスマン帝間絹織物交易
第2章17世紀前半のイスタンブル公定価格(ナルフ)台帳からみる絹織物消費市場 p48
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p54
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p55
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p55-p56
(10)平野聡:大清帝国と中華の混迷 講談社 2007 第四章 さまよえる儒学者と聖なる武力 p220-p221
(11)アラン・パーマー:オスマン帝国衰亡史 中央公論社 1998 第二章 西欧からの挑戦 p49
(12)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p56-p57
(13)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第二章「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p57

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