⭕️辛亥革命後に帝国的秩序維持を担った国民党政権の天下大一統への課題!

2023年6月10日

辛亥革命後にイギリスを筆頭とする植民地帝国の進出の中で脅威に晒されながらのヨチヨチ歩きともいうべき近代化を進める中華民国,国民党政権が帝国的秩序再建や中華大一統維持に向けて取り組む中での非常に困難な課題について検討していきます。

辛亥革命後の中華民国の課題

ウェスタン・システムの拡大とアジア諸国の再編

辛亥革命以前の中華世界においては、歴代の王朝によって彩られる強固な中華帝国の皇帝専制体制が続いてきた。しかるにアヘン戦争以来の西欧列強の中国侵略が活発化するにつれて、半植民地化され、結果的に統一的な帝国は瓦解の危機に瀕することとなった。中国の近代とは、このような瓦解しつつある伝統的な帝国を近代的に再編するための苦悩の歴史となったと言えよう。
これは、「西欧国家体制(ウェスタン・システム)の世界的拡大の過程においてアジア諸国が解体・再編成される近代化の苦悩」(1)でもあった。
また中東のイスラム世界は、このような近代的再編の過程で、跡形もなくなく解体された。(2)

西欧世界と対抗・共存可能な国家の再建

このような帝国瓦解の危機の中で、西欧世界と対抗・共存するために、必然的にウェスタン・システムの中核をなす独立した国民国家の建設を目指した(3)のが、中華民国=国民党政府の役割であったと言えよう。
国民国家の西欧的基準としては、市民的自由を有した国民を中心として、統一国家・統一市場の建設とそのための国民統合を目指すということになるが、中華世界においてはこの中核的存在たる「市民的自由を有した国民」は不在であったため、上からの国民国家建設が志向された。(4)

辛亥革命後の国民国家建設の主体

国家建設主体の正統性調達原理

それでは、このような上からの国民国家建設を行うにあたっての正統性は、どこから調達されるのであろうか。
「市民的自由を有した国民」は不在であるとすれば、そこに頼ることも出来ない。そこで出てきたのが、いわゆる「訓政独裁論」であった。
これは、「未熟な国民に代わって国民党が政治的軍事的に独裁政権を樹立し、上から強力に国民国家の建設と経済発展、政治制度の近代化を促進する」(5)と言うものである。
またこの「訓政独裁論」は、孫中山が好んで用いた「以党治国」論を中核にしていた。これは人民に代わって党が国家を統治するという「代行システム」を意味し、その前提条件としては「中国の国民には自己を統治する政治能力が存在しないと言う断定」があった。孫中山は、このように有能なエリート集団である国民党が全権を掌握し、無能な大衆を訓導することで、はじめて近代的統一国家の建設が可能であると考えていた。(6)

国民党による訓政独裁政権による国民国家建設の前提条件の整備

中国国民が無能であるとは思えないが、国家安全保障上の緊急の非常事態においては、軍隊的な指揮命令系統の一貫した一枚岩の組織で、紡錘陣形で一点突破せざるを得ないようなこともあるだろう。ただし、民意のチェックの無い長期独裁権力は、確実に腐敗堕落するので、訓政独裁に関してもその停止条件と次の体制への平和的移管方式を明確にしておくことは大前提となろう。
こうした国民党による「訓政独裁政権」のもとで、強力な近代的国民国家建設を目指して、その前提となる「軍事面の統一」「財政面の統一」「思想的な統一」が推進されることとなった。(7)それでは、国民党によるこれらの3つの国民国家建設の前提条件整備の行方はどうなったのであろうか。

軍事面の統一の推進状況

軍権の全面的掌握の失敗

まず軍事統一についてであるが、国民党政権時代は抗日戦争・国民党内部の軍事抗争・共産党との内戦等、常に戦争と内戦に明け暮れていた。このため国民党政権としては、軍閥割拠の状況を排除し、国民党のもとに全軍を掌握する体制確立が急務となった。
北伐戦争における国民革命軍すらも、元は旧軍閥の私兵集団を糾合したものであったので、蒋介石はこれらの軍隊を国民革命軍総司令のもとに再編・統一すべく1929年1月に編遣会議を招集し、全ての軍隊を中央の全国編遣委員会に従属させようとした。しかし、地方軍閥が既得権益保持のために反発し、反蒋戦争となった。この反蒋戦争は張学良らの協力で抑えきったものの、国民党政権=蒋介石が軍権を全面的に掌握することには失敗した。(8)

軍権の全面的掌握失敗の影響

抗日戦争や共産党との内戦以前の問題として、国民党内部の軍権の掌握にこれだけ手間取ると、このような戦争の時代に政治的な主導権を握ることが困難になってしまうだろう。袁世凱が権力を伸張させた理由が、清朝政権下及び辛亥革命後におけるその軍事的なパワーの結集に成功したことにあったのと裏腹に、国民党政権では軍権が分散していたことが、国家権力が集中的に発揮出来なかった主要な一因とも言えるだろう。

財政面の統一の推進状況

国民党政権維持の基盤となった財政面の統一

次に財政面の統一についてであるが、国民党政権はこの方面では一定の成果を収めたと言えよう。そして、このことが国民党政権が、中華世界の最も困難な時代に20年にわたって政権を維持出来た根拠の一つと言えようか。
財政的な強化の第一の要素としては、中国ナショナリズムが求め続けていた関税自主権の回復の実現が挙げられる。まず「関税自主権の回復が、1928 年の中米関税条約から 1930 年の日中関税協定にいたる諸条約によって達成された。同時に、28年関税から 34年関税にいたる交渉過程で、関税の引上げにも成功を収めた」(9)のであった。

幣制改革の実施と国家経済の寡占化

さらに財政的強化に貢献した第二の要素としては、幣制改革があった。1935年11月イギリスのリース・ロス指導下に、中央銀行・中国銀行・交通銀行に法幣発行の権限を与え、イギリス・ポンドとリンクさせようとした。このような通貨の統一と安定化政策は、中国経済の発展にインパクトを与えることに成功した。一方で政府が通貨発行の三銀行を支配し、蒋介石が軍事費捻出のために通貨増発と金融市場操作に走ったことと、「四大家族」と言われる官僚資本家による国家経済の寡占化が進んだこと、のために健全な財政統一は実現しなかった。(10)

経済の一部資本家による私物化の弊害

この財政面の状況は、国民党政権にとって強い追い風となしうる成果であったように思われるが、どちらかというと蒋介石及び一部の資本家たちによって、その成果が職権乱用的に私物化されてしまった印象が強い。本来は軍事的に追い詰められつつも、関税自主権の回復と言った国権発揚の機会をフルに活かしたり、通貨の統一と安定化による健全な経済発展の可能性を目先の利益につなげるだけでなく、もう少し長期的な資本主義的な市場の発展につなげていければ、その後の歴史も変わってきたかもしれない。

思想面の統一の推進状況

孫中山の三民主義の思想イデオロギー化推進

最後に思想面の統一についてであるが、これは孫中山の「三民主義」を思想イデオロギーの中核に据えようとする運動の形態を取った。国民党政権の「訓政独裁」が成り立つ前提条件は、人民大衆の政治的未熟にあるとするのであれば、人民を政治的に教育=訓導していく必要があるだろう。
孫中山によれば、「バラバラの砂」である人民を団結した国民に改編する必要があるのであり、国民統合の課題を実現する必要があった。
また蒋介石は、自由な市民の自由な連合による国民統合ではなく「三民主義」による強引な思想統一を目指した。これは、1934年以降「新生活運動」による道徳主義的民族復興運動となり、抗日戦争期には「国民精神総動員」運動として組織された。これらは「忠孝仁愛信義和平」をスローガンに国家と国民党に忠誠をつくすことを目的とした国民意識の統合であった。

思想統一による国民統合の挫折

このような運動は、国民党内では汪精衛による「国民の思想統一による蒋介石個人独裁化」批判につながり、一方では青年層への共産主義思想の浸透もあって、思想統一による国民統合は挫折した。
こうして思想統一は、人民の政治的成熟を志向しながら、党イデオロギーへの強制的な政治動員しか産み出さず、自由な政治的選択と自主的な政治参加の機会を失わせ、自律的な政治的成熟を困難にした。こうして国民不在は継続することとなり、そのために以党治国の訓政独裁と言う過渡的体制は、その後も継続していくこととなった。(11)

中華民国時代の中国と昭和初期の日本の対比

「国家・国民意識総動員」を必要とした日本の危機の時代

ここで我が国との対比してみると、明治維新後の大日本帝国について言えば、明治時代の国力増強の成果も踏まえて、第一次世界大戦の戦勝もあり、大正時代には民主主義も開花して自由で豊かな「大正デモクラシー」時代を謳歌したということがあった。
その後、状況が激変し大恐慌から戦争の時代に突入して「国家総動員」を基調とする太平洋戦争での日米決戦にまで至ることとなった。
すなわち、自由な市民が繁栄を謳歌した時代を潜り抜けた先の危機の時代においては、上からの「国家総動員」=「国民意識総動員」や「赤紙」による強制的な国民の戦争への徴兵が遂行されたわけである。

日本の危機の時代状況と中華民国の状況の類似性

そういう観点から見れば、中華民国=国民党政府時代の中国は、まさに大日本帝国に当てはめれば、その全期に渡って昭和初期並みあるいはそれ以上の危機の時代であったとも言えるわけであり、そこにおいて常に上からの「訓政」や「国民意識総動員」が行われたのも無理のないこととと言えるかもしれない。
結局、このような経過を辿る中で中国国民党による近代的国民国家建設の試みは失敗に終わり、中国国民党との内戦に勝利した中国共産党が同様な政治課題に取り組んでいくこととなった。

尚、本稿とも関連する中華民国、国民党政府時代の中国の混乱については、以下のリンクでも取り扱っております。
孫文,蒋介石,国民党政府が目指した近代化,国民国家建設,帝国的秩序再建の行方!

参考文献
(1)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p345
(2)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第2章 「西洋の衝撃」とイスラム国際体系 p65
(3)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p346
(4)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p346
(5)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p354
(6)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p355
(7)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p355
(8)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p356
(9)久保亨(信州大学):第九回 2009年12月18日 「関税自主権の回復と幣制改革」ASNET講義録 平成21年度冬学期「書き直される中国近現代史(その2)」
(10)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p357-p358
(11)横山宏章:中国の政治危機と伝統的支配 研文出版 1996 第12章 中国における国民国家建設の課題と方法 p357-p358