⭕️西洋の衝撃以前のイスラム世界秩序と中東文明の成り立ちの分析!

2023年6月10日

西洋の衝撃以前のイスラム世界秩序と中東文明の成り立ちの分析という観点から、西洋の衝撃に晒される以前のイスラム世界秩序や中東地域に根差した古代からの文明的な特質をイスラム世界成立以前の段階から分析し、ヨーロッパ文明とイスラム文明の根本的な相違やイスラム特有の世界秩序の考え方などを検討していきます。

中東文明の特徴

イスラムについて言及する前に、まずは中東文明の特徴について観ておきたい。

中東、中国、インドの古代文明の比較

中東は、元来世界で最も古い古代文明発祥地の一つであったが、同様に古代より文明の中心地となってきた中国やインドに比較すると「多様性」「不連続性」と言う二つの特徴が存在する地域でもあった。
他方で中国文明は、初期から今日に至るまで一貫して「同じ言語」「同じ文字」「同じ宗教・哲学」を奉じてきた。これは夷狄に対する「中華文明」として認識されてきており、今日の中華人民共和国に至るまで自己認識の連続性が存在し、天下思想が裏返ったような形での中華民族にもつながる中国文明を共有してきた。
またインドについても「ヒンドゥー教」「ナーガリー文字」「サンスクリット語」の古典や経典などはインド文明を貫く支配的な要素であり、インド人の間では古代から現在に至るまで一貫する本質的なものと認識されている。(1)
中国もインドもこのように古代以来一貫してその文明の中核となる古典文化の精髄を継承発展させてきたことは事実であり、歴史的な変遷の中でも、このような中核的要素が完全に拡散したり消滅したりするような事態は発生しなかった。

古代以来の中東文明の特徴

しかるに古代以来の中東には、そのような一貫性はなく。古代から現代までの連続性も無かった。古代においても中東の文明は多様性に富んでおり、「漢字」や「ナーガリー文字」、「儒教哲学」や「ヒンドゥー教信仰」のような共通の結合要素は無かった。また初期のこのような違い以上に、古代中東では不連続性と言う特徴が指摘出来る。
中国やインドでは古代以来の学問の記録が現在に至るまで大切にされ研究されてきているが、中東においては古代文明の遺産は紛失したり忘れられたり、葬り去られてきた。中東の諸言語は死語となり、原典に残された文字は誰も読めなくなった。古代に信仰された神々も一部の研究者しか把握していない状況にある。さらに言えば、中国やインドに匹敵するその文明エリアを示す具体的な集合名詞すら存在しない。「中東」とは具体性の無い方位や方角を現わす言葉に過ぎないのである。(2)
確かにメソポタミア文明、チグリス・ユーフラテス文明、ハンムラビ法典を産んだバビロニア文明などについても今日まで連綿と受け継がれてきたものは無いに等しいのが実情であろう。かのハンムラビ法典にしても同地でその内容が語り継がれてきたわけでもなかった。

大変動の連続により忘れ去られた古代文明の遺産

このような中国、インドと中東の相違の原因は何かと言えば、中東には一連の社会的大変動の波が何度も押し寄せたのが原因と言える。すなわち主として4つの大変動がこの地域に津波にように押し寄せたのであった。それらはギリシア化、ローマ化、キリスト教化、イスラム化の4つであり、このような大変動が進行する間に古代中東の文字文化は大半が消し去られてしまった。当然ながら最後の波であるイスラム化の影響は最も大きく、7世紀以来この地域の大勢を特徴づけることとなった。古代エジプト語、アッシリア語、バビロニア語、ヒッタイト語、古代ペルシア語その他の言語は捨て去られ、東洋学者達の手で解読されるまでは、現地でも全く忘れ去られていた。このようなわけで中東地域の集団的な自意識の中で古代文明と自分達との関連に関する自覚は、中華文明やインド文明に対するそれぞれの文明圏の人々の感覚に較べて、著しく希薄である。(3)

中東における古代文明抹殺の要因

それではなぜそのようなことが起きたのか、中国でもインドでも強大な武力を持つ他文化の他民族による支配に服するような事態は発生したにもかかわらず、中東のように古代文明が抹殺されることが無かったのはなぜか。ここでは、中国・インドでは無くヨーロッパを比較対象として検討してみよう。

ヨーロッパにおける古代文明の継承

ヨーロッパにおいては、古代文明圏としてローマ帝国が存在した。その西ローマ帝国を壊滅させたゲルマン民族たちは、自らの統治体制において、少なくともローマ帝国の形態や組織の維持に大きな努力を傾注した。彼らはローマ帝国の宗教であるキリスト教を取り入れ、その言語であるラテン語の使用を目指し、自分達の習慣をローマ帝国政府と法律の枠組みに合わせようと努めた。
こうしてゲルマン民族は、自分たちがローマ帝国の正統性を継承する存在であることを証明しようとしたのであった。(4)
このように「夷狄」が「中華」に憧れ、自分達の支配の正統性の根拠を支配された側の高度な文明の継承者であると証明することに求めるというような現象は、何も「中華文明」エリアだけでなく、ローマ帝国の遺領においても発生していたわけである。これに対して、中東では何が起こったのか。

中東における古代文明の位置づけ

 

中東や北アフリカのキリスト教徒ローマ帝国の領土の大半を征服したムスリム・アラブ人は、古代ローマ文明を尊重したり、支配正統性をローマ帝国の継承に依存するようなことは一切無かった。
彼らは自分たちの宗教であるイスラム、自分たちの言語であるアラビア語、自分たちの聖典である「コーラン」を持ちこみ、独自の帝国をつ
くりあげた。イスラム支配の到来は、新しい社会、新しい政治組織の始まりを示し、イスラムはその主体意識の基盤であり、正統性と権威の源であった。

新たに成立したイスラムへの確信と信念

この新たに樹立されたイスラム社会では、アラビア語がヘレニズム社会のギリシア語、ヨーロッパのラテン語、インドにおけるサンスクリット語、中国における漢字と同じような役割を果たした。(5)
他者あるいは他文明支配の正統性の根拠が、多分に独りよがりの感はあるものの、確信と信念を持ってイスラムが正統であると言いきれる存在がムスリムであった。このようなムスリム・アラブ人にとっては、自分達の持ちこむイスラムの信仰、アラビア語、コーランが絶対的な存在で、元々現地に存在した文明は「過去の遺物として公然とは認められず、正統性も与えられなかった」(6)のである。
このようなムスリムたちにとって、世界のありようはどのように受け止められていたのであろうか。

ムスリムが認識する世界の状況

イスラムとは何か

イスラムとは、預言者ムハンマドによって伝えられた唯一神アッラーの教えに「帰依」することを意味し、その教えを受け入れた者を「ムスリム(帰依者)」と呼ぶ。ムスリムにとって、人の住む世界は「イスラムの家」と「戦争の家」に二分される。このうち「イスラムの家」とはムスリムの支配下に入り、イスラム法が十全に行われているような地域を意味する(7)
このようにイスラム世界は、預言者ムハンマドがアッラーの教えを伝えたことに由来する「イスラム教」という宗教をベースに成り立ってお
り、その社会や文化・風俗への浸透の度合いも中華帝国における儒教に匹敵するものであったと言えよう。

「イスラムの家」と「戦争の家」の区別

「イスラムの家」に対する「戦争の家」は、ムスリムの支配下に入らず異教徒の支配下にあって、イスラム法の行われていない地域を意味する。従って「戦争の家」は多種多様な異教徒や共同体がせめぎ合う世界であった。これに対して、「イスラムの家」は実態はともかく、理念上は唯一の指導者のもとにある統一体と考えられムスリム諸国家が並存する状況は想定されていなかった。(8)
「戦争の家」に関しては、実態通りであろうが、「イスラムの家」については、アッバース朝成立当時の後ウマイヤ朝の成立や10世紀のア
ッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝の三人のカリフの鼎立状況の発生などにより形骸化していった。これらの政治体は通常「ダウラ」と呼ばれ、本来の統一体としての姿を失った「イスラムの家」における「ダウラ」の支配の正統性を理論的に根拠づける試みも行われ た。
これは「普遍的なイスラム法の秩序を、それぞれの地域で守り実行する」(9)と言う点に求められた。
イスラム的世界秩序観は、「イスラムの家」が「戦争の家」を次第に包摂していき、全世界が「イスラムの家」となることが予定される世界
観であり、そのための手段としてはムスリムの不断の努力としての「ジハード」が要請されていた。この「ジハード」はあらゆる手段が考えられるが、主として軍事的な「聖戦」がベースとされた。(10)

イスラムにとっての世界認識

東部、南部地域の異教徒への認識

歴史・地理関連文書に反映されているイスラム国境以遠の諸地域に対する認識の仕方は、場所によって明確な違いがあった。イスラム世界の東部と南部にはムスリムにとって、学ぶべきものをたくさん持っている文明人も野蛮人もいたが、イスラムの信仰に関しては真剣に立ち向かってくる相手はおらず、イスラム世界にとってのゆゆしきライバルはいなかった。異教徒は比較的素直でイスラム世界へ引き入れやすく、実際にそういう道を選んだ人が多かった。中国やインドは一度もイスラム世界に挑戦することも無く、脅威にもならなかった。モンゴル族は大きな影響を与えたが、やがて自身がイスラムに改宗しイスラム世界の拡大に貢献した。(11)
確かに中国もインドも進んでイスラム世界に侵入したことは無かった。清朝最大版図を形成した乾隆帝も既述の通り、東トルキスタンを征服しながら、西トルキスタンには決して侵攻しようとはしなかったということもある。両文明圏ともに、異なる文明圏にまで手を広げることには慎重であったということであろうか。

西方地域の異教徒=キリスト教徒への認識

ところが西方とりわけイスラム世界の北西国境に位置するギリシアやローマなどのヨーロッパ・キリスト教国では状況が違い、ここではムスリムもライバル達が、自分たちと同じように神の最終的啓示の保持者であり、その信仰を全人類に広める義務があるという使命感を抱いた世界的宗教の信者であると言うことをはっきり認めていた。こうしたことからムスリムにとっては、異教徒と言えばキリスト教徒を意味するようになり、「戦いの家」と言えばキリスト教徒ヨーロッパを指すようになっていった。(12)

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参考文献
(1)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p345-p346
(2)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p346
(3)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p346-p347
(4)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p347
(5)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p347-p348
(6)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第13章 文化 p348
(7)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(8)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(9)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p27
(10)鈴木董:イスラムの家からバベルの塔へ リブロポート 1993 第一章イスラム世界秩序 p17
(11)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第14章西欧からの挑戦 p384-p385
(12)バーナード・ルイス イスラーム世界の2000年 草思社 2001 第14章西欧からの挑戦 p385